第049話:サキュバス令嬢ルシアの受難
国境迷宮の第三ゲート。
人間側の原状回復班と、魔王軍施設営繕課のサキュバス少女――ルシア・ディアボリカとの奇妙な出会いは、お互いに武器を構えるでもなく、お互いのツールベルトと図面を品定めし合うという、前代未聞の職人対話から始まっていた。
「……なるほど。お前がルシアか。魔王軍施設営繕課・主任だな」
「は、はい……! ルシア・ディアボリカです! 一応、サキュバス名門のディアボリカ男爵家の長女なんですが……」
ルシアは小さな羊角を恥ずかしそうに撫でながら、ペコリとお辞儀をした。背中のコウモリの羽がパタパタと落ち着きなく揺れる。
「それで、人間側の親方さん……あなたのお名前は……?」
「アレクだ。ギルド連盟公認・一級迷宮原状回復士。こっちが監査官のシエル、救護班長のリリアナ、マスコットのポチとクロ。そして――」
アレクが親指で後ろを指差した。
「そこの泥まみれの男は、時給800ゴールドの現場見習いバイト、エドワードだ」
「ゆ、勇者って言えよぉぉぉっ!!」
エドワードが涙目で叫ぶが、ルシアはジト目でエドワードを一瞥した。
「あなたが……私のモルタルを踏み荒らした犯人ですね……? 足跡のパターンと靴底の減り具合から、明らかにあなたです。養生テープが見えなかったんですか?」
「す、すいませんでした……魔物から逃げるのに必死で……」
かつて魔族を殲滅すると息巻いていた勇者が、ツナギ姿のサキュバスに正座させられて謝罪する。この世のパワーバランスは完全に崩壊していた。
「まあいい。踏まれたモルタルは削って塗り直せば済む」
アレクがバインダーを開き、ルシアの背後の通路を見上げた。
「それよりルシア、お前、この奥で何をしてた」
「あ……! そうなんです、主任さん!」
ルシアが血相を変えて図面を広げた。
「実は、この第三ゲートの奥にある『主排気竪坑』の天井梁が、先日の人間側の爆破の余波で歪んでしまって……! 今にも崩落しそうなんです! 私、一人でジャッキアップして補強しようとしていたんですが、ボルトのトルクが強すぎて回らなくて……!」
「排気竪坑の主梁だと?」
アレクの目つきが変わった。
「バカ野郎、あそこが落ちたら、この階層全体の換気が止まるぞ。有毒ガスが充満して作業員全員が窒息だ。案内しろ!」
「は、はいっ!」
ルシアが先導し、一行は薄暗い魔王領側の回廊へと足を踏み入れた。
進むにつれて、頭上からミシミシと不吉な軋み音が大きくなっていく。
辿り着いたのは、天井高10メートルの巨大な排気室だった。その中央、直径2メートルもの巨大な石造りの梁が、中央でくの字にへし折れかけ、ギチギチと音を立てていた。
「あれです……! 仮設の木製支柱を立てたんですが、梁の自重が重すぎて、支柱がミシミシ鳴ってて……!」
ルシアが指差した瞬間だった。
――バキィッ!!
けたたましい破断音が響いた。
梁を支えていた木製支柱が、過大な圧縮荷重に耐えきれず、中央から真っ二つに裂けたのだ。
「きゃあっ!?」
支柱の破片が弾け飛び、数10トンの石梁が、真下にいたルシアの頭上へ向かって一気に落下を始めた。
「ルシアさん!!」
シエルが悲鳴を上げた。
ルシアは恐怖で足がすくみ、頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。逃げる暇など、コンマ1秒もなかった。
だが。
シュバッ!!
風を切り裂くような速度で、ネイビーの作業ツナギが飛び込んだ。
アレクだった。
彼はルシアの襟首を掴んで強引に後方へ放り投げると、落下してくる巨大な石梁の直下――もっとも危険な崩落の中心点へ、迷わず自ら滑り込んだのだ。
「主任っ!?」
シエルとリリアナが絶叫した。
しかし、アレクの手にはすでに、大型の魔導油圧ジャッキが握られていた。
「《神速左官・緊急応力受け止め(ジャッキ・セッター)》!!」
ガツン!!
アレクはジャッキの台座を床の岩盤に叩きつけ、頭頂部のピストンを落下する梁の重心点へと正確無比に噛み合わせた。
そして、インパクトレンチのビットをジャッキの加圧バルブに突っ込み、トリガーを全開で引いた。
――ギョオオオオオオオオッ!!
高圧作動油が唸りを上げ、超強力な魔導ピストンが一瞬で50ミリ伸長する。
ドォォォォン!!
落下の衝撃波が空気を揺るがし、凄まじい地響きが走った。
しかし。
数10トンの石梁は、床まであと30センチのところで――ピタリと、静止していた。
アレクが打ち込んだ油圧ジャッキが、梁の全重量を完璧に受け止め、ミリ単位の狂いもなく受け止めていたのだ。
「……ふう」
アレクは舞い上がる粉塵の中、ツナギの袖で額の汗を拭った。
そして、黄色いヘルメットを被り直し、腰の真鍮メジャーをパチンと叩いた。
「仮設受圧点、固定完了。……おい、ルシア。怪我はねえか」
放り出された床の上で、ルシアはぽかんと口を開けていた。
自分の命を押し潰そうとした数10トンの巨石を、魔法の盾でも剣でもなく、たった1本の工具で受け止めて仁王立ちする男の背中。
夕日のように差し込むランプの光に照らされたその作業着の姿が、ルシアの紫の瞳に、この世で最も神々しい英雄のように焼き付いていた。
「あ……あ……」
ルシアの白い頬が、耳の先まで、そして小さな羊角の根元まで、真っ赤に染め上げられた。
「かっこ……いい……」
ポンコツサキュバスの胸の奥で、甘い鐘が乱れ打ちに鳴り響いていた。
シエルが駆け寄り、ルシアの肩を抱き起こした。
「ルシアさん! ご無事ですか!? どこか痛むところは――」
「あ、あの……エルフさん……!」
ルシアがシエルの両手をギュッと握りしめ、瞳を潤ませて尋ねた。
「あの……あのお方……アレク主任さんには……奥様とか……婚約者の方とか……いらっしゃるんですか……!?」
「は……!? はあぁぁぁっ!?」
シエルの長いエルフ耳が真っ赤に逆立った。
「な、何を言い出すんですか、この命の恩人に対して! い、いませんけど! 主任は仕事と定時退社とビールしか愛せない超現場至上主義の朴念仁ですから!」
「い、いないんですね……! よかったぁ……!」
ルシアは胸元に手を当ててホッと息を吐き、さらに角を赤く染めた。
「こ、この泥棒猫ならぬ泥棒サキュバス……!」
リリアナが救急鞄を開きながら、楽しそうにクスクスと笑った。
「まあまあ、シエルさん。ライバル登場ですね♡ 主任は手のかかる現場と頑丈なボルトには目移りしますが、女性の色気には鉄壁ですから、お互い頑張り甲斐がありますよ♡」
「リリアナさんまで何を言っているんですか!」
クロがアレクの肩の上でケケケと嘴を鳴らした。
「おいおい旦那! 魔王軍のサキュバスの姉ちゃんまで誑かしちまったか! これで人間側のエルフに元聖女、魔族のサキュバスまで現場に揃ったぜ! いっそ『国境現場ハーレム組合』でも立ち上げるかい?」
「くだらん冗談を言ってないで、仮設ボルトの増締めを手伝え」
ポチがアレクの足元で「ぷるるっ!」と元気に鳴き、ジャッキの隙間に滑り込んで水平器の役割を果たして見せた。
「よし、ポチ、水平精度ヨシだ」
「ぷるっ!」
アレクは女たちの騒ぎを一切気にすることなく、淡々と油圧ジャッキの固定作業を進めていた。
シエルがワナワナと震え、現場代理人としてのプライドと乙女心が激しく火花を散らし始めたのだった。




