第048話:魔王軍の黄色いヘルメット?
瓦礫が散乱し、白煙が漂う国境迷宮の第三ゲート。
そこは、人間領と魔王領のちょうど境界線に位置する、巨大な防壁回廊だった。かつては分厚い鉄扉が閉ざされていたはずの場所だが、今は無残にも扉ごと蝶番が吹き飛ばされ、天井のアーチが斜めに傾いていた。
「ひどい……。完全に構造体が悲鳴を上げています」
シエルが懐中電灯の光をかざし、痛ましそうに息を吐き出した。
天井の隙間からはパラパラと砂利が落ち続け、床には人間側の魔導兵団が使ったと思われる魔導ダイナマイトの空き殻が散乱している。安全を無視した暴力的な突破の跡だった。
だが。
アレクの視線は、破壊された瓦礫ではなく、その反対側――魔王領側へと続く回廊の壁面へと注がれていた。
「……おい、シエル。あそこを見ろ」
「え……?」
アレクが真鍮の魔法メジャーの先端で指し示した場所。
シエルが光を向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
吹き飛ばされたはずの対向壁の亀裂に、びっしりと何かが打ち込まれていたのだ。
それは、漆黒の光沢を放つ黒曜石のクサビだった。それも、ただ乱雑に突っ込まれているのではない。亀裂の進行方向、岩盤にかかる引張応力を完全に計算し尽くした、等間隔の千鳥配置。
さらに、その隙間には、淡い紫色の魔法モルタルが、1分の隙もなく丁寧にコテで均されて充填されていた。
「こ、これは……!?」
シエルが目を丸くした。
「クラックの応急グラウチング補修……!? しかも、このモルタルの塗り肌……信じられないほど滑らかです! まるで定規を当てたように美しい平滑面が出ています!」
「ああ。かなりの手練れだ」
アレクが歩み寄り、手袋を外した指先でその補修跡に触れた。
冷たく、硬く、そして完璧な接着力。
「使用されているのは、魔王領特産の耐魔黒曜石と、火山灰セメントだな。速乾性は低いが、酸性ガスに対する耐久性は抜群だ。この過酷な断層環境に最も適した材料選定だ」
「人間側の技術ではありませんね……。ということは、魔族……!?」
「おいおいおい、旦那!」
クロがアレクの肩の上で羽ばたき、壁の隅をクチバシで突いた。
「見ろよ! こんなもんが貼ってあるぜ!」
クロが指差した補修壁の端に、一枚の紙片が貼り付けられていた。
それは、黄色い長方形の荷札だった。そこには、几帳面で少し丸っこい、丁寧な文字がインクで書かれていた。
――**【応急支持完了・養生中につき打撃厳禁。触ると崩れます! 魔王軍施設営繕課】**
「魔王軍……施設営繕課……!?」
シエルが呆然と声を上げた。
「魔王軍に……そんな部署があるのですか!? 魔王軍といえば、人類を滅ぼすための破壊と殺戮の軍団のはずでは……!」
「組織がデカくなれば、インフラを管理する部署が必要になるのは当然だ」
アレクは淡々と荷札を指先で弾いた。
「魔族だろうが人間だろうが、飯を食えば糞をするし、屋根が抜ければ雨漏りで風邪を引く。誰かがトイレを直し、屋根を葺き、崩れた壁を埋めなきゃ、軍隊なんて一日で機能停止だ。……ふん、いい仕事をしてるじゃねえか」
アレクの口元が、わずかに緩んだ。
職人として、見知らぬ同業者の丁寧な仕事ぶりに、静かな敬意を抱いたのだ。
リリアナが救急鞄を抱えながら、感心したように荷札を見つめた。
「手書きの文字から、とても几帳面で真面目な人柄が伝わってきますね♡ 危険箇所を黄色い紙で知らせる配慮といい、現場愛を感じます」
「ぷるっぷるー」
ポチも補修された壁を優しく撫で、丁寧な左官の仕上がりに満足そうに体を揺らした。
そのときだった。
「ひぎゃああああっ! た、助けてくれぇぇぇっ!」
回廊の奥、暗がりの中から、男の情けない悲鳴が響き渡った。
「エドワード様!?」
シエルが振り返った。
先行して資材を運んでいたはずのエドワードが、黄色い安全ヘルメットを脱げそうになりながら、転がるように走って戻ってきたのだ。泥まみれのスコップを投げ出し、必死の形相でアレクの背後へと回り込もうとする。
「バカが、現場で走るなと何度言えばわかる。足元のガラに躓いたら骨折するぞ」
アレクが眉をひそめて叱り飛ばした。
「は、走るなって言われても走るよぉぉぉっ! 出たんだ! 出たんだよ! 魔王軍の凶悪な怪物がぁぁぁっ! オレの命を狙って追っかけてきたんだ!」
「怪物……?」
暗がりの中から、もうもうと立ち込める粉塵をかき分けて姿を現したのは――。
一人の、小柄な少女だった。
頭には、小さな愛らしい黒い羊角と、背中にはパタパタと忙しなく動くコウモリの羽。腰まで届く艶やかな紫のツインテール。健康的な白い肌と、大きな紫の瞳。
本来であればサキュバス貴族の令嬢が身に纏うような、露出度の高い妖艶な黒レースの衣装――の上に。
なぜか、泥だらけの**作業用アームカバー**と、機能性抜群の**ショートパンツ型作業ツナギ**を着込み、頭には手書きで「安全」と書かれた小さな金属鉢金を乗せていた。太ももには予備のチョークホルダー、腰のベルトには下げ振りと小型の左官ゴテが吊るされている。
その少女は、右手に真鍮の下げ振りを握り締め、左手には大きな図面ケースを抱え、涙目で怒鳴り散らしていた。
「ちょっとぉぉぉっ! さっき私の貼った養生テープを踏んづけて、固まりかけのモルタルを靴で蹴っ飛ばしていったのは、どこのどいつですかぁぁぁっ!?」
怒声とともに放たれたのは、殺気でも魔力でもなく、手塩にかけて仕上げた現場を荒らされた職人の、純度100パーセントの憤慨だった。
「ひいっ! サキュバスだ! オレの魂を吸い取る気だ!」
エドワードがアレクの背中に隠れて叫ぶ。
「魂なんて吸いません! 私の3時間の左官作業を台無しにした弁償をしなさいって言ってるんです! モルタル硬化時間まであと20分だったのにぃぃぃっ!」
少女は悔しそうに地団駄を踏み、ツインテールを激しく揺らした。
その姿を見て、アレクはツナギのポケットから現場用手帳を取り出し、静かに口を開いた。
「おい、サキュバス」
「な、何ですか人間! あなたもあの黄色い帽子の無礼者の仲間ですか!?」
「あの壁の黒曜石クサビを打ったのは、お前か」
「え……?」
少女がピタリと動きを止め、紫の瞳を丸くした。
「そ、そうですけど……それが何か……?」
「いい腕だ。クサビのピッチが15センチ均等でブレてねえ。モルタルの水セメント比も適正だ」
「…………えっ?」
少女の白い頬が、ぽっと朱に染まった。怒り狂っていた表情が、一瞬で消え去り、驚きと戸惑いへと変わる。
「ほ、褒められた……? 敵の人間に……?」
シエルが前に進み出て、手元の図面ケースを抱え直しながら尋ねた。
「あ、あの……! あなたは本当に、魔王軍の施設営繕課の方なのですか? サキュバスといえば、もっとこう……男性を誘惑して生気を吸い取るお役目なのでは……」
「わ、私だって、最初は魅了の訓練を受けましたよ!」
少女は悔しそうに胸を張ったが、すぐにしょんぼりと小さな羊角を垂らした。
「でも……色目を使おうとすると緊張して舌を噛んじゃうし、肌を露出すると恥ずかしくて倒れちゃうんです……! それで『お前はサキュバス失格だ、現場の泥上げでもやってろ』って言われて、営繕課に左遷されたんですぅ……! でも、私、配管の勾配計算とモルタル塗りだけは、誰よりも得意なんです!」
リリアナがクスクスと優しく微笑んだ。
「ふふ、なんて純粋で真面目なサキュバスさんでしょう♡ 主任、この子、どこかの借金勇者様よりも百倍現場向きですよ」
「オレを巻き込むなあああっ!」
エドワードのツッコミが虚しく響く。
国境の破壊されたゲートの前で、人間と魔族の奇妙すぎるファーストコンタクトが、静かに幕を開けたのだった。




