第046話:辞令:国境メガダンジョン出張命令
朝の王都、ギルド連盟の一角にある原状回復課の事務所。
窓から差し込む朝の光の中、木製の長机の上には、美しく整頓された図面と、油で手入れされた工具類が整然と並んでいた。
アレクはネイビーの作業ツナギに袖を通し、愛用の黄色い安全ヘルメットのあご紐を指先で弾いた。首元には真鍮の魔法メジャー、腰には年季の入ったホルダーに収まった左官ゴテ。今日も17時の定時退社に向けて、完璧な段取りを組む準備が整っていた。
「おはようございます、主任!」
事務所の扉を開けて入ってきたのは、シエルだった。
白い陶器のような肌にプラチナブロンドの長い髪、透き通るような碧眼を持つ名門シルフィード家の令嬢。かつてはタイトスーツに銀縁眼鏡で「清掃員風情が」と突っかかってきたエリート監査官も、今や手には使い込まれた現場バインダーを抱え、アレクの予備だったピンク色の作業ツナギを違和感なく着こなす頼もしい現場代理人になっていた。
「おはよう、シエル。今日の王都迷宮の巡回予定は?」
「はい! 第一階層から第四階層までの定例クラック検査と、地下5階のボイラー室長――クリムゾン・ドレイク様の暖房配管の定期除湿点検です。ドレイク様、最近アフロヘアーのブラッシングにも余念がないそうで、大変ご機嫌だそうです」
「そうか。あのトカゲが大人しくしてるなら何よりだ」
アレクが頷いた、そのときだった。
コン、コン。
事務所の引き戸が軽く叩かれ、甘く妖艶な煙草の香りがふわりと漂ってきた。
「朝から精が出るわね、アレクちゃん」
現れたのは、黒髪を波打たせた美女――ギルド連盟財務最高責任者兼副ギルドマスター、エレノアだった。細身の煙管から紫煙をくゆらせ、胸元の大きく開いた濃紺のドレスを優雅に揺らしている。
「エレノア副ギルドマスター。朝から財務のトップが現場の事務所に何の用だ。まさか昨日の飲み代の領収書を突き返しに来たんじゃないだろうな」
「失礼ね。約束通り、全額財務の特別交際費で落としてあげたわよ」
エレノアはくすりと笑い、真鍮の煙管を指に挟み直すと、脇に抱えていた一枚の豪奢な金文字の書類をアレクの机の上にパチンと置いた。
「辞令よ、アレクちゃん」
「……辞令?」
アレクが眉をひそめた。シエルも耳をピンと立てて書類を覗き込む。
「これよりあなたたち原状回復班に、超特急の長期出張を命じます。行き先は――人間領と魔王領の国境にそびえる大陸最大級のメガダンジョン、【バベルの断層迷宮】よ」
「国境のバベル……!?」
シエルが息を呑んだ。
「あそこは……全百階層に及ぶ、大陸で最も広大で危険な未踏のメガ迷宮ではありませんか! なぜそんな遠方へ主任たちが……?」
「現場が、大炎上しているからよ」
エレノアの瞳から笑みが消え、冷徹な財務責任者の光が宿った。
「最近、手柄を焦った人間側の強硬派冒険者たちが、最短ルートで魔王領側へ進軍しようと、迷宮の正規ルートを無視して魔導爆薬で壁をぶち抜きまくっているの。さらに魔族側も迎撃のために通路を崩落させ、国境迷宮全体が瓦礫と粉塵で交通麻痺を起こしているわ」
「バカどもが。迷宮の壁はただの仕切りじゃねえ、上の山脈の荷重を支える耐力壁の塊だぞ」
アレクが吐き捨てるように言った。
「その通りよ。このままでは迷宮全体の主断層が崩壊し、国境の山脈ごと大陥没を起こしかねないわ。工期短縮、越境原状回復、そして違法破壊者への損害賠償請求……この大仕事を任せられるのは、世界広しといえどアレクちゃん、あなたしかいないわ」
「断る」
アレクは即答した。
「国境までは馬車で片道3日だ。移動だけで何時間かかると思ってる。定時退社が崩れる」
「あら、そう言うと思って、条件を用意したわ」
エレノアは艶やかな笑みを浮かべ、一枚の別紙を机に滑らせた。
「出張手当は通常日当の三倍支給。現地での宿泊費、飲食費は全額ギルド財務の無制限精算。さらに――現地で回収した損害賠償金の10パーセントを、あなたの現場積立金として自由にプールして構わないわ」
「……」
アレクの目が、わずかに動いた。
「機材の調達枠は?」
「最新型の魔導ジャッキでも、高圧グラウト注入ポンプでも、好きなだけ発注なさい」
「……いいだろう。受けてやる」
「交渉成立ね♡ さすがアレクちゃん、話が早くて助かるわ」
エレノアが満足そうに煙管を吸い込んだ。
「あ、あの! エレノア様!」
シエルが手を挙げた。
「現場がそこまで広大となると、資材の運搬や瓦礫の運び出しに、人手が圧倒的に足りないと思うのですが……」
「あら、心配いらないわよ」
エレノアは廊下に向かって、パチンと指を鳴らした。
「おい、入ってきなさい。あなたの出番よ」
扉が恐る恐る開き、肩をすぼめた一人の男が姿を現した。
黄色い安全ヘルメットの正面に、黒マジックで太く【見習い・安全第一】と書かれ、手には使い込まれた鉄スコップ。泥除けの前掛けを着けたその男は――かつて王都を華々しく闊歩していた勇者エドワードだった。
「ひ、人手不足って……オ、オレも連れて行く気ですかぁぁぁっ!?」
エドワードが涙目で叫んだ。
「当たり前でしょう」
エレノアが冷酷に告げる。
「あなたにはまだ、1億2000万ゴールドの負債が残っているのよ? 時給800ゴールドの現場バイトとして、死ぬ気で重い資材を運びなさい。遠方出張だから、移動中も時給が発生するわよ。全額返済天引きだけど♡」
「天引きなら意味ねええええっ!!」
エドワードが絶叫して頭を抱えた。
「おい、エドワード」
アレクが冷ややかに見下ろした。
「道具の手入れはしてあるんだろうな」
「し、してます! スコップの泥は毎晩落として、油塗ってます!」
「返事は?」
「ご、ご安全にっ!!」
直立不動で叫ぶエドワードの姿に、シエルは思わず吹き出し、アレクの肩の上でクロがケケケと笑った。
「ケケッ! エド坊、だいぶ返事だけは様になってきたじゃねえか!」
「ぷるっぷるー!」
ポチも黄色い体を揺らして喜んでいる。
そこへ、救急鞄を抱えたリリアナが、清楚な修道服の袖を揺らしながら入ってきた。その頭には、すっかり見慣れた黄色い安全ヘルメットがちょこんと載っている。
「主任、遠征用の医療薬品、準備完了いたしました♡ 長距離移動用の酔い止め薬と、国境の有毒ガス吸入に備えた高濃度酸素ポーション、たっぷり積み込みましたよ」
「助かる、リリアナ。準備が早くて助かる」
「ふふ、主任のお役に立てるなら本望です♡ ……あ、エドワード様。移動用の荷車、あなたが一人で引くんですよ? 途中で弱音を吐いたら、回復魔法ではなく筋肉痛増強ポーションを飲ませますからね♡」
「聖女の仮面を被った悪魔だぁぁぁっ!!」
エドワードが涙目で叫ぶと、事務所はどっと温かな笑いに包まれた。
「よし。シエル、リリアナを呼べ。大型資材車の手配と、遠征用工具の積み込みだ」
「はい、主任!」
ポチがアレクの足元で「ぷるるっ!」と鳴き、荷車の車輪を点検するように触手を伸ばして油を差した。
「ポチさんも気合い10分ですね!」
「ああ。道具も相棒も揃った。行くぞ」
アレクは黄色いヘルメットを被り直し、西の空を見据えた。
「国境のメガ迷宮か。どんな大惨事だろうと関係ねえ。壊れたものは元通りに直す。それだけだ」
こうして、原状回復班の次なる戦い――人間領と魔王領を跨ぐ空前絶後の越境出張工事が、ここに幕を開けたのだった。




