第037話:アレクの怒声:密閉空間の物理法則
古代竜の喉元に凝縮された超高熱の魔力塊が、今まさに解き放たれようとしていた。
ドーム内の空間そのものが歪み、空気が真っ赤に染まる。岩肌がドロリと飴細工のように溶け出し、床の敷石からシューシューと白い蒸気が吹き上がっていた。地下5階の密閉区画全体が、まるで巨大な火炉の内側のようになっていた。
瓦礫の隙間にへたり込んだ勇者エドワードは、すでに恐怖と熱気で失禁寸前だった。両手で頭を抱え、ただカタカタと歯の根を鳴らして震えていた。もはや聖剣を拾い上げる気力すら残っていない。
「ひ、火が……! 神よ、太陽神よ、お助けください……! オレはまだ……選ばれし勇者として歴史に名を残して……!」
だが、その王都滅亡の引き金が引かれようとした、まさにその一瞬前。
――ガツン!! ガツン!!
けたたましい金属音が、灼熱のドーム全体に乾いて響き渡った。
アレクが手にした真鍮の魔法メジャーの頑丈な先端金具を、点検通路の手すりに思い切り叩きつけた音だった。
「おい、そこなデカブツ!! 耳の穴かっぽじってよく聞け!!」
現場用メガホンから吐き出されたアレクの声は、もはや恐怖に震える冒険者の叫びなどでは断じてなかった。それは現場で安全規則違反を犯した未熟な見習いを、容赦なく怒鳴りつける熟練工の雷そのものだった。
「ここは完全密閉空間だ! 容積およそ八万立方メートル、外気流入ゼロ! そこの金髪の愚か者が耐力壁を破壊して入り口を埋めたせいで、本来の自然換気サイクルは完全に破綻してる! そんな酸欠状態の密閉区画で、てめえがそんな極大火力なんぞぶっ放してみろ!」
ドレイクの巨大な顎が一瞬、ピクリと止まった。
吐き出しかけた超高熱の炎の塊が、喉の奥でグツグツと煮えたぎったまま停滞する。竜の金色の瞳が、信じられないものを見るように丸くなった。300年、自分に対してそんな口の利き方をした生物など、世界のどこにも存在しなかったからだ。
「な……何を喚いておるのだ、頭に黄色い茶碗を乗せた小蝿が……?」
「喚いてるんじゃねえ! 現場の絶対的な物理現象を教えてやってんだよ!」
アレクはバインダーを左手で高く掲げ、右手のチョークで空中に数式を殴り書きするように鋭く叫んだ。
「現在、ドーム内の酸素濃度は十%未満にまで落ち込んでる! 通常の大気なら二十一%だ! 半分以下なんだよ! そこでお前が超高温の魔導火炎を全開で放てばどうなる!? 残ったわずかな酸素は最初のコンマ何秒かで完全に消費し尽くされ、超高熱の可燃性未燃ガスがドーム内に充満する! だが、酸素が足りねえから炎はそれ以上燃え広がれず、ただの超高圧の熱風となって燻るだけだ!」
「い、燻る……? このわしの神聖にして無敵なる紅蓮の焔が、燻るだと……!? 侮辱するのも大概にせよ!」
ドレイクが激怒して喉を震わせ、鱗を逆立てる。
「事実を言ってるまでだ! そしてな、本当に恐ろしいのはその直後だ!」
アレクは天井の換気ダクト――自分たちが滑り降りてきた、地上へと続く点検用シャフトの開口部を真鍮メジャーの先でビシッと指差した。
「火炎の異常な熱膨張によって、一瞬だけドーム内の内圧が跳ね上がる。だが酸素が尽きて火が失速した瞬間、急激な温度降下と不完全燃焼ガスの体積収縮によって、このドーム内は凄まじい『負圧』状態になるんだよ!」
「ば、ばきゅーむ……?」
ドレイクが、聞き慣れない単語に思わず巨大な首をかしげた。
「そうだ! 外の大気圧との間に、凄まじい気圧差が生じるんだ! そうなったらどうなる!? 気圧の低い穴に向かって、天井の換気ダクトから地上の冷たく新鮮な外気が――超音速の突風となって一気に逆流して流れ込んでくる!」
シエルがハッと息を呑み、現場の図面を胸元で強く抱きしめた。
「あ……! 不完全燃焼で極限まで熱せられた可燃性ガスが充満した密閉空間に、急激に超大量の酸素が供給されたら……!」
「そう、それこそが閉鎖現場で最も恐れられる現象の一つ――」
アレクがメガホンを口元からわずかに離し、ドームの底へ向かって、凛とした明瞭な声で言い放った。
「**バックドラフト(爆発的逆流火災)**だ!!」
ドームの隅々にまで、その言葉の響きがこだまする。
「新鮮な酸素が室内に突入した瞬間、充満していた未燃ガスが一挙に連鎖爆発を起こす! その炎と衝撃波は、外へは逃げねえ! 逃げ場がないから、すべてこのドームの中心――つまり、最初に火を吐き散らかした張本人であるてめえの顔面に、百倍の破壊力となって跳ね返ってくるんだよ!!」
「な……ななな……!?」
ドレイクの喉元の白熱光が、目に見えて狼狽するようにチカチカと点滅した。
「わ、わしの顔面に……跳ね返る……!? 馬鹿な! わしは炎の王ぞ! 太古より火を司るこのわしが、己の炎などに傷つくはずが――」
「火傷で済むと思うなよ! 衝撃波と気圧差による爆縮だ! テメエの自慢の頑丈な頭部だろうが、内側からの爆圧で耳の鼓膜は破れ、鼻腔はひっくり返り、自慢のトサカは根元から消し炭になるぞ! おまけに天井クロスは全面張替え、換気ダクトは煤まみれで清掃特急料金だ! 誰がその原状回復費用を払うと思ってんだ!!」
「ぜ、ぜんぶ自分に返ってくるってことかい、旦那!?」
肩の上のクロが腹を抱えて大笑いした。
「ギャハハハ! そりゃあ見ものだぜ! 300年生きてきた焔王の旦那が、密閉された便所で屁をこいて自分の顔を爆破するようなもんだ!」
「ぷるっぷるー! あぶないぷる!」
ポチも黄色い体をぽよぽよと揺らしながら、呆れたようにヘルメットを揺らした。
「ぬ、ぬうううううっ……!!」
ドレイクの全身が屈辱と怒りで激しく痙攣した。
竜のプライドが、人間の講釈を受け入れることを頑なに拒否していた。太古より地上のあらゆる英雄を恐怖せしめてきた自分が、なぜ黄色い小帽子をかぶった小僧の「きあつ」だの「ばっくどらふと」だのという呪文のような能書きに怯えねばならんのだ。
「おのれ……おのれ、戯言をォォォッ!!」
ドレイクは理性を完全にかなぐり捨てた。
「わしは古代竜クリムゾン・ドレイク!! 物理の理など、わしの神聖なる絶対火炎の前には紙屑同然よ!! まとめて灰となれェェェェッ!!」
警告は、完全に決裂した。
アレクは冷ややかにため息をつき、メガホンを下ろした。
「……言わんこっちゃねえ。シエル、リリアナ、ポチ」
「は、はい!」
「全員、キャットウォークの手すりに安全帯を四重ロック。耐熱シールド全開、耳栓装着」
アレクはすちゃりと現場用ゴーグルを下げ、ストップウォッチのボタンをカチリと押した。
「自業自得の自爆ショーだ。カウントダウン、開始」
リリアナが救急鞄を抱え直しながら、冷ややかな瞳で直下の竜と勇者を見下ろした。
「主任、あの勇者エドワード様は、爆風に巻き込まれても耐えられるでしょうか? 一応、治療費を請求するためにも、生きていてもらわないと困るのですが♡」
「安心しろ。奴が蹲っている瓦礫の窪みは、ちょうど爆風の死角になる。気絶はするだろうが、死にはせん。死なれたら損害賠償金の回収先が消えてエレノアに怒られる」
「ふふ、さすが主任。損害計算に抜かりがありませんね♡」
シエルも緊張で強張った顔をほころばせ、手元の魔導障壁を展開した。
「障壁展開、完了しました! 耐熱コーティング、三重掛けです!」
「よし。来るぞ。三、二、一――」
シエルは素早く青い魔法障壁の札を手すりに貼り付け、リリアナは鞄から防音綿を取り出して耳に詰めた。ポチはアレクの足元で平たく潰れ、吸盤のように鉄板に張り付いて踏ん張る。
ドームの底で、竜の口から放たれた最初の火球が、暗闇を白昼のように照らし出そうとしていた。
カウントは、ゼロへ向かって刻まれていた。




