第036話:ドレイクの最大ブレス準備
――ちょ、待てバカ!! そこで火を噴くな!!
天井直下の点検通路から叩きつけられた怒声は、現場用メガホンの拡声魔法によって数十倍に増幅され、密閉ドームの隅々にまで反響した。
ビリビリと空気が震え、壁面の古代レンガの隙間から細かな粉塵がパラパラと降る。
その怒声の主――アレクは、黄色い安全ヘルメットの鍔をくいと指で押し上げ、冷徹極まりない眼差しで直下の超巨大竜を見据えていた。額にはうっすらと汗が浮いているが、その立ち姿には微塵の揺らぎもない。
「な、主任……!?」
シエルが息を呑んでアレクの横顔を見上げた。尖った耳がピンと後ろに張り詰めている。
「古代竜に向かって『トカゲ』だの『バカ』だの……! あんな超高位の天災生物、人の言葉を解するどころか逆上するだけです! 交渉の余地なんてありません!」
「かまわん。現場の安全管理上、危険行為に及ぼうとしている作業員――いや、生息生物には即座の注意喚起を行うのが現場責任者の義務だ。安全衛生規則第12条、『作業現場における火気使用の制限および事前協議の徹底』だ」
「完全に作業員扱いじゃないですか! 相手は300年前から生きてる厄災ですよ!?」
シエルの必死のツッコミを背後で涼しい顔をして受け流しながら、アレクはバインダーの用紙をパチンと金具で挟み直した。
「規則は規則だ。生き物だろうが魔物だろうが、現場の空気を吸ってる以上は同じことだ」
一方、ドームの底では。
とぐろを巻いていたクリムゾン・ドレイクが、ピタリと動きを止めていた。
巨大な首をギチギチと軋ませながらゆっくりと上に巡らせ、天井近くの細いキャットウォークを睨み上げる。そこにいるのは、豆粒のように小さな人間が三人。しかも、全員が黄色い奇妙な鉢金のようなものを被り、一人は妙な真鍮の筒を口に当てて堂々と仁王立ちしている。
「…………何だ、貴様らは」
ドレイクの低い声が地鳴りのように響いた。それは物理的な音波となって空気を叩き、鉄格子の通路をガタガタと揺らす。
「このわしを、トカゲと呼んだか? 300年前にこの迷宮を築いた人間の大魔法使いどもですら、わしを『紅蓮の焔王』『生ける厄災』と呼び、平伏して不可侵を結んだのだぞ。そのわしに向かって……バカだと? 火を噴くなだと?」
ドレイクの金色の双眸が、ぎらりと不吉極まりない光を放った。
怒り。明確な、純度100パーセントの激怒だった。
眠りを無惨に妨げられた不快感に、さらに下等生物からのあからさまな侮辱が重なったのだ。ドレイクの全身を覆う深紅の鱗が一斉に逆立ち、隙間からボロボロと火の粉と黒煙が零れ落ちる。
「ヒッ……! ひ、火が……火が来る……!」
崩落した瓦礫の影で、エドワードがか細い悲鳴を上げた。
彼は白目を剥きかけたまま、震える手で折れた聖剣の柄を握りしめようとしていたが、指先が熱痙攣を起こして言うことを聞かない。勇者の華麗な銀鎧は熱を帯びて変色し、まるでフライパンの上の肉のように彼自身の体を炙っていた。すでに熱中症と脱水症状で思考力は完全に奪われ、ただ迫り来る死の予感に怯えてガチガチと歯を鳴らしている。
「お、終わりだ……! オレは……こんな暗い穴倉で、借金まみれのまま消し炭になるのか……! 母上……父上……ブレイブハート家の名誉が……!」
「エドワード様、相変わらず見苦しいですね♡」
天井のキャットウォークから、リリアナの涼やかな毒舌が冷気のように降り注ぐ。
「あなたが勝手に耐力壁を破壊して、ご丁寧に自分で退路を塞いで閉じ込められたのですから、完全なる因果応報、自業自得というものです。でも安心してくださいね。遺体が見つかれば、ちゃんとギルドの規定に従って綺麗に清拭して差し上げますから♡ 請求書はご実家へ回しておきますね♡」
「な、治してくれよぉぉぉっ!! 聖女だろお前ぇぇぇっ!!」
エドワードの情けない絶叫が虚しくドームに響く。
だが、ドレイクはもはや足元の小虫などまったく視界に入れていなかった。彼の標的は完全に、頭上の黄色いヘルメット――不遜極まりない態度で見下ろしてくるアレクへと定まっていた。
「よかろう。矮小な虫けらどもめ。わしの眠りを妨げ、さらに愚弄した罪……骨の髄まで焼き尽くして灰すら残さぬ極熱の業火で購うがよい!!」
ドレイクが前脚を大きく開き、大地を踏みしめた。
ズゥゥゥゥン!!
ドームの床石が放射状に割れ、深紅の亀裂が走る。
竜の胸の中心部――魔力器官である『火炎核』が、目も眩むような白熱光を放ち始めた。
チリ……チリチリ……。
大気中の熱量が、異常な速度で一点へと収束していく。
ドーム内の計器盤が狂ったように針を跳ね上げた。二百五十度、二百八十度、そして三百度――。
「主任! 天井の鉄骨が熱膨張で悲鳴を上げています!」
シエルが手すりを握りしめて叫んだ。
「キャットウォークのボルトが緩んでいます! このままでは足場ごとドームの底へ真っ逆さまです!」
「慌てるな。足場のジョイントには念のため耐熱魔法テープを二重に貼ってある。あと15分は持つ」
アレクは微動だにしなかった。
彼の真鍮の魔法メジャーが、シュルシュルと音を立てて伸び、直下の空間の寸法と空気の流動を正確に測り続ける。
「温度上昇に伴う気体の熱膨張率、通常気圧比で約二倍。だが、出口のない密閉空間だ。膨張した空気の逃げ場がない」
「えっ……? 逃げ場がないと、どうなるんですか?」
「どうなると思う? 鍋に蓋をして火を強めれば、吹きこぼれるか、蓋が吹き飛ぶかだ。だが、このドームの蓋は――」
アレクは天井を見上げた。
頑丈な古代の耐圧ドーム。厚さ3メートルの魔導花崗岩。
「蓋は吹き飛ばん。つまり、行き場を失った圧力は、どこへ逃げる?」
シエルがハッと息を呑んだ。
ドレイクの胸元は、すでに太陽の破片のように白熱していた。
竜は大きく顎を開いた。
その喉の奥、燃え盛るマグマのような光球が形成されていく。通常のブレスではない。竜が全魔力を注ぎ込み、一撃で城壁すら融解させるという、古代竜の『最大出力火炎息』の予備動作だった。
空気が吸い込まれていく。
ドーム内のわずかな酸素が、竜の巨大な口腔へと凄まじい風速で引き寄せられる。
――ヒュオオオオオオオオッ!!
風切り音が轟音となって吹き荒れ、シエルの銀髪が激しく乱れた。
気圧計の針がガタガタと音を立てて落ちていく。酸素濃度は十%を切り、密閉空間の内圧は極限まで低下していく。
「あ、息が……ぐ、ぐるじい……!」
エドワードが喉を掻きむしり、完全に床へ突っ伏して泡を吹きかけた。
シエルも冷感マスクの上から胸元を押さえる。
「酸素が……全部あの竜の喉に吸い取られています……! あんな規模の超高熱ブレスを出されたら、この空間そのものが燃え尽きて完全な真空になってしまいます!」
「そうだ。だから最初から言ってるんだ」
アレクは静かにメガホンを構え直した。
その瞳には、恐怖も焦燥もなかった。
あるのはただ、現場の物理法則を無視しようとする愚かな存在に対する、職人としての深い呆れだけだった。
「酸素が足りねえ現場で、無駄に大火力を焚こうとするからそうなる。おい、トカゲ。本当に後悔するぞ」
ドレイクの喉元が、ギギギと異音を立てて限界まで膨張した。
最大出力チャージ完了。
ドレイクの唇の端から、漏れ出たプラズマ状の火炎がバチバチと放電を起こす。
「滅びよ、虫けらどもがァァァァッ!!」
咆哮とともに、古代竜の顎門が完全に解き放たれようとしていた。




