第033話:目覚めし災厄、ただし寝起きは最悪
勇者エドワードは、三つのことを同時に理解した。
一つ。後ろの階段は、完全に埋まっている。
二つ。出口は、どこにもない。
三つ。目の前にいる赤い鱗の持ち主は、どう考えても、自分より大きい。
「…………え、えっと」
声が、裏返った。
ランタンの光が、闇を少しだけ押しのけている。照らし出されたのは、鱗一枚の大きさが、盾ほどもある、赤い壁だった。壁は、ゆっくりと上下している。呼吸だ。壁が息をしている。
息を吐くたびに、ぶわ、と熱い風が頬を撫でた。サウナの扉を開けた瞬間の、あの嫌な熱さを、三倍にしたような風だった。
「ま、待て。落ち着け、オレ。オレは勇者だ。勇者は、この程度で、動じない」
エドワードは、自分に言い聞かせながら、腰の聖剣を抜いた。
剣身が、きらりと光る。いつもなら、頼もしい輝きだった。しかし今日は、ランタンの明かりを反射して、頼りなく震えているようにしか見えなかった。震えているのは、剣ではなく、手だった。
「出口だ。まず出口を確保する」
エドワードは、埋まった階段に駆け寄った。
崩れた扉枠と、天井の石が、斜めに折り重なっている。彼は聖剣を構え、瓦礫に向かって叫んだ。
「聖光斬!」
白い光が走り、瓦礫の一部が弾け飛んだ。
「よし! いける!」
しかし、その直後だった。
ごごご、と天井のほうから、嫌な音がした。弾け飛んだ石の隙間に、上から別の石が、ずるりと滑り込んできた。穴は、塞がるどころか、さっきより、詰まっていた。
「な、なんで」
エドワードは、もう一度撃った。また、弾ける。また、上から落ちてくる。
三回目で、ようやく気づいた。
自分が撃つたびに、上の石が、少しずつ動いている。穴が開く速さより、崩れる速さのほうが、確実に速い。
ガントの注意書きが、頭をよぎった。
――耐力壁につき崩落の恐れ。
意味はわからなかった。ただ、今なら、なんとなくわかる気がした。これは、触ってはいけないものだ。直せる人間以外は、触ってはいけないものだ。
「くそっ……くそっ……!」
聖剣を下ろした。腕が、重かった。
そのときだった。
ずん、と、床が揺れた。
エドワードは、反射的に振り返った。
ランタンの光の向こうで、赤い壁が、ゆっくりと、持ち上がっていくところだった。
壁ではなかった。
首だった。
蛇のように長い首が、闇の中から、ずるずると、起き上がってくる。その先端には、馬車ほどもある頭があり、頭の両側には、ねじれた角が、巨木の枝のように伸びていた。
そして、頭の中央に、二つの穴が、ぱちり、と開いた。
目だった。
溶けた金のような、黄色い瞳。縦に細い瞳孔が、じろり、とエドワードを見下ろした。
「…………」
エドワードは、動けなかった。
息もできなかった。膝が、笑うとか震えるとかいう段階を通り越して、ただ、床に縫いつけられたように固まっていた。
やがて、地鳴りのような声が、ドームの空気を震わせた。
「…………誰だ」
しゃべった。
「…………」
「誰だ、と、聞いている」
声は低く、ゆっくりで、ひどく眠そうだった。たとえるなら、昼寝の途中で叩き起こされた、頑固な年寄りの声だった。
「ゆ、ゆ、勇者、です」
エドワードは、なんとか、それだけ絞り出した。
「勇者」
「は、はい。エドワード・フォン・ブレイブハートと申します。ブレイブハート家の」
「ほう。勇者か。300年ぶりだな」
竜は、ふあああ、と、巨大なあくびをした。
口が開くたびに、ずらりと並んだ牙が見えた。1本1本が、エドワードの身長よりも長い。あくびの息が、熱風となって吹きつけ、前髪がちりちりと焦げた。
「いや、あの、300年ぶりとかじゃなくて、オレはその」
「それで」
竜は、エドワードの言葉を、ぴしゃりと遮った。
「わしの寝床の扉を、壊したのは、お前か」
「…………え」
「あの扉は、先代の管理者が、わしのために、しつらえたものだ。300年、一度も、軋まなんだ。あの鍵を回さん限りは、決して開かぬ造りになっておった」
竜の金色の瞳が、すう、と細くなった。
「それを、お前は、雷だか、炎だかで、ぶち抜いたな」
「い、いえ、その、それは、あの」
「すごい音で、目が覚めたわ」
エドワードは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
まずい。非常に、まずい。何がまずいのかは、うまく言えないが、とにかく、まずい。
勇者としての本能が、ようやく、仕事をした。
「ま、待ってくれ! 話せばわかる! オレは、あんたを倒しに来たんじゃない! ただの、調査で!」
「調査」
「そうだ、調査だ! 300万ゴールドの! いや、お金の話じゃなくて、その、世界の平和のための!」
「ほう」
竜は、しばらく、エドワードを見つめていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
鼻息だった。ただの鼻息だった。しかしその一息で、エドワードの体は、後ろに三歩ぶん、吹き飛ばされた。
「ぐえっ」
背中から、瓦礫の山に激突する。
「わしは、クリムゾン・ドレイクだ」
竜は、名乗った。
「300年、ここで寝ておった。誰にも迷惑をかけず、誰の邪魔もせず、ただ、寝ておった。それを、お前は、叩き起こした」
「す、すみません」
「謝って済むのなら、勇者などという職は、いらん」
ドレイクは、のそり、と、前脚を動かした。
その動きだけで、床の石畳が、びきびき、とひび割れた。
エドワードは、這うようにして、後ずさった。
そのとき、気づいた。
暑い。
さっきから、暑い。ドームに入った瞬間は、むしろ、ひんやりとしていたはずだった。それが、今は、肌がひりひりするほど、暑かった。
汗が、ぼたぼたと床に落ちて、じゅっ、と音を立てて蒸発した。
ドレイクが、起きたからだ。眠っていた間は、体温を落としていた。目覚めて、体が温まり始めたのだ。彼の鱗が、うっすらと、赤く輝き始めていた。
「あ、暑い……」
エドワードの視界が、ぐらり、と揺れた。
喉が、からからだった。唇が、ひび割れていく。ここへ来る前に、水筒の水は、馬に飲ませてしまった。自分のぶんは、さっき、扉の前で、ほとんど飲み切っていた。
勇者の鎧は、金属だった。熱が、鎧の内側にこもって、じりじりと、肌を焼いていた。
「鎧……鎧を、脱がなきゃ……」
留め具に、手をかける。しかし、指が、うまく動かなかった。
焦げた匂いがする。
自分の前髪だ。いや、肩当ての革だ。いや、両方だ。
「誰か……」
エドワードは、掠れた声で呟いた。
「誰か……助けて……」
誰も、答えなかった。
ドレイクは、のんびりと、二度目のあくびをした。
「ふむ。目が、すっかり覚めてしもうたな」
竜は、天井を見上げた。
「ならば、ひとつ、体を、ほぐすとするか」
「ほ、ほぐす……?」
「300年ぶりの、ウォーミングアップだ」
ドレイクが、大きく、息を吸い込んだ。
ごおおおお、という音が、ドーム全体に響いた。空気が、竜の喉へと吸い込まれていく。エドワードの髪が、そちらへ引っ張られた。体が、ずるずると、引きずられそうになる。
給気ダクトの格子が、がたがたと鳴った。
ドームの天井近くにある、4本の給気口と、1本の排気口。そこから、新鮮な空気が、ひゅうひゅうと、吸い込まれていた。
竜の胸が、ぐぐぐ、と膨らんでいく。
喉の奥が、ほんのり、橙色に光り始めた。
「あ、あ、あ」
エドワードは、ようやく悟った。
これは、準備運動のブレスだ。しかも、本気ではない。ただの、軽い、軽い、体慣らしだ。
それでも、自分は、焼ける。
「待っ、待って、待ってください! お願いします! オレ、まだ、ヘルメットも、ちゃんとかぶって、ないんです!」
エドワードは、なぜか、そう叫んでいた。
自分でも、なぜヘルメットのことを口走ったのか、わからなかった。ただ、頭に浮かんだのが、あの黄色い帽子と、無愛想な男の顔だった。
「……ヘルメット?」
ドレイクの動きが、ぴたり、と止まった。
「なんだ、それは」
「え」
「ヘルメット、とは、何だ」
竜は、首をかしげた。
エドワードは、わけがわからないまま、答えた。
「あ、頭を守る、黄色い、帽子です」
「ほう」
「現場で、必ず、かぶるものです」
「現場」
「は、はい」
「…………」
ドレイクは、しばらく考え込むような顔をした。
それから、橙色に光っていた喉が、すうっと、暗くなった。
「……よくわからんが」
竜は、ぼそり、と言った。
「お前、さっきから、顔色が、悪いぞ」
「え」
「真っ赤になって、ふらふらしておる。人間は、熱に弱いのだったな。……うむ、すっかり、忘れておった」
ドレイクは、ばつが悪そうに、頭をかいた。
その巨大な前脚が、天井の岩を、ごりごりと削る。
「別に、お前を、焼き殺したいわけでは、ないのだ。ただ、うるさくされて、気分が悪かっただけでな」
「は、はあ」
「だが」
竜は、じろり、と、エドワードを見下ろした。
「わしは、まだ、眠い」
「は、はい」
「眠いと、機嫌が、悪い」
「は、はい」
「機嫌が悪いと、つい、火が出る」
「……はい」
「だから、あまり、近くで、うろちょろするな」
エドワードは、こくこく、と、必死にうなずいた。
助かったのか。いや、助かっていない。まだ、閉じ込められている。しかも、竜は、徐々に、機嫌を悪くしている。
ドレイクの鱗が、また少し、赤みを増した。
ドームの温度が、一度、また一度と、上がっていく。
エドワードの意識が、ふっと、遠のきかけた。
視界の端に、天井の給気口が、見えた。
格子の向こうで、ひゅう、と、風が鳴っている。
あそこから、空気が、入ってきている。
つまり。
あそこは、外と、つながっている。
「…………」
エドワードは、ぼんやりと、そう思った。
しかし、4本の給気口は、どれも、天井の高さ、30メートルのところにあった。
届くはずが、なかった。
彼は、瓦礫の影に、ずるずると、へたり込んだ。
ドレイクは、ふああ、と、三度目のあくびをして、のそり、とその場に、体を丸め始めた。
「少し、寝直す」
竜は、そう言った。
「その間に、静かにしておれ。次に起きたとき、まだ、そこにいたら」
金色の瞳が、ゆっくりと、閉じていく。
「朝飯にする」
エドワードは、声も出せなかった。
ドームの中は、ゆっくりと、確実に、熱くなっていった。
そして、地上では。
その熱が、まだ誰にも気づかれないまま、静かに、静かに、ダンジョンの壁を、這い上がり始めていた。




