第032話:耐力壁の爆破と退路の消失
夜明け前の迷宮は、墓場のように静かだった。
エドワードは、ランタンの灯りを小さく絞って、階段を降りていた。
一段、一段。靴底が、石の段を踏むたびに、乾いた音が、闇に吸い込まれていく。折れた右腕は、ようやく添え木が外れたばかりで、動かすと、まだ鈍く痛んだ。金色の鎧は、麦畑の泥を落とし切れず、ところどころが黒ずんでいる。
馬は、迷宮の入口の木に繋いである。
昨夜、麦畑の宿営地から、こっそり持ち出した。
逃げたのではなかった。
少なくとも、エドワード自身は、そう思っていた。
「…………逃げたんじゃない」
小さく、呟いた。
地下5階への階段の途中だった。
目の前に、黄色と黒の縞模様のテープが、張り渡されている。その脇に、木の看板が立っていた。ランタンの光に、文字が、浮かび上がる。
『立入禁止 構造調査中 迷宮管理局 現場責任者 アレク』
エドワードの足が、止まった。
看板の署名を、じっと見つめる。
アレク。
あの男の名前が、また、そこにあった。
「…………」
麦畑で、荷札を読んだ夜のことが、胸の奥に蘇った。
黄色い厚紙に書かれた、角ばった鉛筆の字。
『封印ボルト 撤去厳禁 外すと中身が起きる』
あのとき、初めて、思った。
読めばよかった、と。
エドワードは、ゆっくりと、看板に手を伸ばした。
倒さない。折らない。ただ、指先で、そっと触れた。
木の板は、ひんやりと冷たかった。
「…………今度は、ちゃんと、読んだぞ」
声が、少しだけ、震えた。
「読んだ上で、行く」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
二千万という数字が、頭の中を、ぐるぐると回っている。
土嚢を運んでも、一日で稼げるのは、800ゴールド。1000年かかっても、返せない。
昨日、ギルドの掲示板で、一枚の紙を見つけた。
『迷宮調査依頼:地下5階・ドーム内の古代遺物探索。報酬300万ゴールド。ただし、立入許可証の発行後に実施のこと』
許可証は、いつ出るか分からない。数週間か、数か月か。
待てなかった。
三百万。二千万の、15分の一にしかならない。それでも、ゼロから一歩、踏み出せる金額だった。
「…………壊さなければ、いい」
エドワードは、テープを、くぐった。
引き千切りはしなかった。屈んで、下をくぐり抜けた。それが、せめてもの、彼なりの「配慮」だった。
ランタンを掲げ、階段を降りていく。
地下5階は、息苦しいほどに、空気が重かった。
階段を降り切ると、巨大な空洞に出た。天井は高く、闇の中に消えている。床は、磨き込まれた黒い石で、ランタンの光を鈍く反射していた。空気は、冷たく乾いている。どこかから、低く、規則正しい音が、響いていた。
ごう。
ごう。
風とも、水とも違う、巨大な何かが、呼吸しているような音。
エドワードは、背筋に冷たいものを感じて、足を止めた。
「…………何の、音だ」
耳を澄ます。
音は、前方から聞こえてくる。
ランタンの光を、前に向ける。
そこに、巨大な石の扉が、そびえ立っていた。
高さ、10メートル。幅、8メートル。厚みは、人間の背丈ほどもある。表面には、竜の姿を象った、精緻な浮き彫り。扉の中央に、拳大の錠前の窪みがあり、その周りに、複雑な古代文字が刻まれている。
扉の左右には、太い石の壁が、ずっと続いていた。
エドワードは、扉に近づいて、手のひらで、そっと触れた。
ひんやりと冷たい。
そして、わずかに、扉の向こうから、熱が伝わってくる。
ごう。
ごう。
呼吸の音が、扉の石を、微かに震わせていた。
「…………この向こうに、遺物が」
エドワードは、扉を、押してみた。
びくともしない。
全体重をかけて、肩で押す。足を踏ん張る。それでも、石の扉は、ぴくりとも動かなかった。
「錠前か」
彼は、窪みを覗き込んだ。
古代文字が、複雑に絡み合っている。鍵がなければ、開かない。
エドワードは、舌打ちした。
「鍵は、どこだ」
周囲を、ランタンで照らす。
扉の脇の壁に、小さな石板が、嵌め込まれていた。
近づいて、文字を読む。
『鍵ハ、別室ニ在リ。無理ニ開クベカラズ』
古代文字を、現代語に直した、小さな注釈だった。
そして、その下に、鉛筆で書かれた、新しい文字があった。
『扉枠、破壊厳禁 耐力壁につき 崩落の恐れ ガント』
エドワードは、その文字を、じっと見つめた。
破壊厳禁。
耐力壁。
崩落の恐れ。
知らない言葉が、いくつかあった。
耐力壁とは、何だろう。
「…………壁の、一種か」
彼には、それしか、分からなかった。
「扉枠を、壊さなければ、いいということか」
エドワードは、石板を、睨んだ。
「鍵穴だけを、壊せばいい」
その発想が、致命的だった。
しかし、彼には、気づくことができなかった。
エドワードは、数歩、後ろへ下がった。
聖剣を、鞘から抜く。刃こぼれは、まだ直っていない。鈍い光が、ランタンの灯りを、ぼんやりと跳ね返した。
彼は、深く、息を吸った。
麦畑で、アレクに突きつけられた数字が、頭に蘇る。
ボスのHPに対して、必要な魔法出力は、三千。
自分が撃ったのは、一万一千。
三倍以上の、過剰。
「…………三千で、足りた」
呟いた。
そして、考えた。
鍵穴は、小さい。扉全体を壊す必要は、ない。
必要なのは、ほんの、わずかな衝撃だけだ。
「…………千で、いいな」
エドワードは、聖剣に、魔力を込めた。
白い光が、剣身に宿る。
先日までの、一万一千とは、まるで違う、小さな光。ろうそくの炎ほどの、控えめな輝きだった。
彼は、剣先を、鍵穴に向けた。
腕が、微かに震えている。
「大丈夫だ。今度は、ちゃんと、計算した」
自分に、言い聞かせる。
「オレは、今度は、間違えない」
剣の光が、鍵穴の窪みに、集まっていく。
エドワードは、息を止めた。
「…………やるぞ」
剣を、振った。
白い光の筋が、鍵穴に、吸い込まれていく。
かちり。
小さな音が、した。
古代の錠前が、わずかに、軋んだ。
そして。
ぴしり。
扉の枠の石に、細い亀裂が、走った。
「…………え」
エドワードの目が、見開かれる。
亀裂が、蜘蛛の巣のように、広がっていく。扉の左右の壁にも、ひびが走った。石と石の継ぎ目が、ぎしぎしと軋む。足元の床が、わずかに、震え始めた。
天井から、細かい砂が、ぱらぱらと降り始める。
「ち、違う……」
エドワードは、後ずさった。
「オレは、千しか……」
ごご。
ごごご。
低い唸りが、頭上から響いてきた。
扉の枠が、内側へ、ゆっくりと、沈み始める。耐力壁の一角が、悲鳴を上げて、崩れていく。支えを失った天井の石が、ずるりとずれ、轟音とともに、降ってきた。
「うわあああああっ!」
エドワードは、咄嗟に、扉の隙間へ、転がり込んだ。
石の扉が、ばき、と音を立てて、内側に外れた。
エドワードの体は、扉の裏の、真っ暗な闇の中へ、投げ出された。
背後で、階段の天井が、轟然と崩れ落ちる音が響いた。
ドガァァァァァン!
振り返ると、扉の向こう、さっきまで通ってきた通路が、巨大な石の山に、完全に埋もれていた。
退路が、消えた。
「…………あ」
エドワードは、呆然と、崩れた石の山を見つめた。
ランタンの灯りが、小さく揺れている。
砂埃が、ゆっくりと降り積もっていく。
「…………ああ……」
声にならない声が、喉の奥から漏れた。
そのとき。
ごう。
背後の闇の奥から、さっきとは比べ物にならない、巨大な呼吸の音が、響いてきた。
空気が、熱を帯び始める。
エドワードの背中に、ぞくりと、冷たい汗が流れた。
彼は、ゆっくりと、振り返った。
ランタンの光が、闇の中の、何かを、照らした。
巨大な、赤い鱗の、一枚。
ぎらり、と光った。




