第028話:動力炉の小さな刻印
午後9時を回っても、麦畑の松明は、消えなかった。
負傷者の搬送は、あらかた終わっていた。救護班の荷馬車が、王都の方角へ、ゆっくりと遠ざかっていく。残った兵士たちは、巨人の周囲に杭を打ち、縄を張り、見張りを立てていた。夜風が、焦げた麦の匂いを運んでくる。遠くで、虫の声が、ひっそりと鳴いていた。
アレクは、うつ伏せに倒れた巨人の背中を、見上げていた。
石の背中は、小さな丘のように盛り上がっている。夜の光の下で、苔の緑が黒ずんで見えた。肩甲骨のあたりには、ひときわ大きな石の板が、継ぎ目も鮮やかに嵌め込まれている。
「主任、あれは、点検口でしょうか」
隣に立つシエルが、手帳を抱えたまま尋ねた。
ヘルメットを脱いで、小脇に抱えている。長い髪を、いつもの団子ではなく、ゆるく三つ編みにして肩に垂らしていた。さすがに、疲れた顔をしている。それでも、碧い瞳は、好奇心で光っていた。
「ああ。背面の、動力炉の整備蓋だ」
「胸の宝石に、直接、つながっているのですよね」
「宝石が、魔力の取り出し口。動力炉が、その魔力を、全身に配る」
「巨人が、うつ伏せに倒れたおかげで」
「普段は、見えない背中が、全部、見える」
アレクは、肩から脚立を下ろした。
銀色の脚が、がしゃがしゃと広がって、巨人の背に立てかけられる。肩の上のクロが、ふわりと飛び立って、点検口の石板の上に降りた。小さな爪で、板の縁を、こつこつと叩く。
「主任。ここのボルト、全部で8本だ。錆びちゃいるが、こいつは、足首ほど酷くはねえ」
「分かった」
「気をつけな。蓋を開けたら、中の圧が、噴き出すかもしれねえ」
アレクは、頷いた。
脚立を上る。
足元で、ポチが、ぷるぷると心配そうに震えていた。リリアナは、救護鞄を提げて、脚立の下に待機している。
背中の高さは、およそ5メートル。
点検口の前に立つと、ひんやりとした石の冷たさが、手のひらに伝わってきた。
「ソケット、19ミリ」
腰から、トルクレンチを取り出す。
1本目のボルトに当てて、ゆっくりと、回した。
ぎ、ぎ、と、鈍い音がして、錆びたボルトが、回り始める。浸透油を差した成果だった。2本目。3本目。1本ずつ、手応えを確かめながら、外していく。
8本目が外れたとき、石板が、わずかに、浮き上がった。
「蓋を、持ち上げる。クロ、反対側を」
「おうよ」
アレクが、バールを差し込んで、てこの力をかけた。
ごとり。
重い石板が、ずれた。
隙間から、青白い光が、すうっと漏れ出した。
続いて、ひんやりした空気が、顔に吹きつけてくる。微かに、甘い魔力の匂いがした。
石板を、慎重に、脇へ倒した。
そこに、巨大な空洞が、口を開けていた。
人ひとりが、立って入れるほどの広さ。内壁は、滑らかな銀色の金属で覆われ、無数の細い管が、血管のように這い回っている。その中心に、人の背丈ほどもある、青白い光の球が浮かんでいた。球の表面で、細かい光の粒が、ゆらゆらと、流れている。
動力炉だった。
アレクは、ヘルメットのライトを、内部へ向けた。
「…………きれいだな」
思わず、声が漏れた。
足首の、錆びだらけの継ぎ手とは、まるで違っていた。銀色の金属は、曇りひとつなく、磨き込まれている。管の継ぎ目には、一滴の油の染みもない。誰かが、定期的に、手入れをしているとしか思えない状態だった。
「おかしいですね」
シエルが、脚立の途中から、首を伸ばして覗き込んだ。
「足首は、あんなに、錆びていたのに」
「ああ」
「動力炉だけが、ぴかぴかです」
「300年、誰も手入れしてなかったなら、こうはならない」
アレクは、眉間に皺を寄せた。
空洞の中に、そろりと、身を滑り込ませる。
足元の金属が、こつんと、安全靴の底で鳴った。
球体の周りを、ゆっくりと回る。
管の継ぎ目。ボルトの頭。固定金具。一つひとつに、ライトの光を当てて、目で確かめていく。
ふと、その視線が、止まった。
球体の台座の根元に、1本のボルトがあった。
その頭の下に、薄い、銀色の円盤が、挟まっている。
ワッシャーだった。
小指の爪ほどの、ありふれた部品。ボルトの座面を保護して、緩みを防ぐための、金属の輪。
その表面に、何かが、刻まれていた。
「…………」
アレクは、膝をついた。
ライトを、ぐっと近づける。
細く、深く、彫り込まれた、手彫りの文字。
刃物の先で、一字ずつ、刻みつけたような、不揃いな線。
読み取れた瞬間、アレクの呼吸が、止まった。
『施工:ガント(手抜きすんなバカ弟子)』
洞窟のような静寂が、空洞を満たした。
ライトの光が、かすかに、揺れた。
アレクの指先が、震えていた。
「…………主任?」
入口から、シエルの声が聞こえた。
アレクは、返事をしなかった。
ただ、じっと、ワッシャーを見つめていた。
ガント。
10年前まで、毎日のように、その名を呼んでいた。朝一番の事務所で。迷宮の暗がりで。昼食の、乾パンの横で。口の悪い、偏屈な、煙草臭いジジイ。
10年前。
師匠は、言った。
『ちょっと、地下の水漏れ、直してくる』
そう言って、ツナギのまま、工具箱だけを提げて、迷宮の奥へ消えていった。
夕方には、戻ってくるはずだった。
今夜も、明日も、来週も、来年も、戻ってこなかった。
アレクは、ワッシャーの縁を、指先で、そっと撫でた。
冷たい金属の感触。手彫りの文字の、ざらりとした凹凸。
「……親父」
声が、かすれた。
ほとんど、息だけの声だった。
「お前、こんなとこまで、潜ってたのか」
返事は、なかった。
動力炉の、静かな脈動だけが、青白く、空洞を照らしていた。
クロが、いつの間にか、アレクの肩の上に降りてきていた。
小さな爪で、ツナギの布を、ぎゅっと掴んでいる。
「…………主任」
「…………」
「この油の匂い。思い出した」
クロの声が、低く、掠れていた。
「あんたが、三階の倉庫で俺に差してくれた、魔力オイルと、同じ匂いだ」
「…………ああ」
「300年前じゃねえ。あの匂いを、俺が嗅いだのは」
クロは、ゆっくりと、言った。
「10年前だ」
アレクが、顔を上げた。
「10年前に、俺ぁ、一度だけ、あの倉庫の扉を、開けられたんだ。誰かが、俺の関節に、油を差してくれた。一滴だけ。それで、ほんの一瞬だけ、目が開いた」
「…………」
「煙草臭い、ジジイだった。『まだ、起きるには早いな』って、笑って、また、俺を箱に戻した」
クロの翼が、小さく震えた。
「あのジジイ、あんたの、師匠だったのか」
「…………そうだ」
アレクは、小さく、頷いた。
「ガントという」
「そうか。ガント、か」
クロは、そっと、その名を、口の中で転がした。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「…………悪くねえ、ジジイだったぜ」
脚立の下から、シエルが、おそるおそる、声をかけた。
「主任。私も、入って、よろしいでしょうか」
「ああ」
アレクは、ワッシャーから、目を離さずに答えた。
シエルが、ゆっくりと、空洞の中に入ってきた。ライトの光に照らされた、ワッシャーの刻印を、そっと覗き込む。
「…………これが」
「ああ」
「ガント氏の、施工記録」
彼女は、手帳を取り出した。
ペンの先が、紙の上で、迷っている。
しばらくして、シエルは、ゆっくりと、ペンを下ろした。
「…………書きません」
「何を」
「この文字は、記録しません」
アレクは、驚いて、シエルを見た。
彼女は、眼鏡を指で押し上げて、視線を、ワッシャーに向けたまま、静かに言った。
「これは、あなたへの、手紙のようですから」
「…………」
「公式の記録に残すものでは、ありません」
アレクは、数秒、言葉を失っていた。
それから、ふっと、小さく、息を吐いた。
「…………助かる」
「いえ」
シエルは、首を振った。
それから、手帳を閉じて、胸に抱えた。
「ただ、一つだけ、気づいたことが」
「何だ」
「このワッシャーだけ、新しいのです」
彼女が指さしたのは、ワッシャーの縁だった。
「周りのボルトや金具は、古代の合金で、錆びにくいはずなのに、全体にくすんでいます。でも、このワッシャーだけ、銀色のまま、曇っていません」
「…………たしかに」
「それに、表面の質感が、現代の鋼です」
アレクは、ワッシャーを、裏返した。
裏面に、小さな刻印があった。
四角い枠の中に、「ド」の文字。
「…………ドルクさんの店の、規格品だ」
「資材商の、ですか」
「ああ。あの店は、自分の店の部品に、必ず、刻印を打つ」
アレクは、小さく笑った。
「親父は、ドルクさんの店の常連だった」
「では、このワッシャーは」
「ここ、11年以内に作られたものだ」
刻印の下に、小さく、年号が刻まれていた。
11年前の、日付だった。
空洞の中に、再び、静けさが落ちた。
「…………10年前に、親父は、ここに来て」
アレクが、ゆっくりと、言葉を探した。
「動力炉の手入れをして、新しいワッシャーを、嵌めて」
「はい」
「…………それなのに、足首のボルトには、手を付けなかった」
シエルが、はっと顔を上げた。
「ああ、そう、ですよね。もし、ガント氏が、巨人の整備に来たのなら、足首が三割しか締まっていないことに、気づかないはずが」
「気づかないわけがない」
アレクは、立ち上がった。
「親父は、気づいてた。その上で、残したんだ」
「なぜ」
「…………分からん」
彼は、首を振った。
「ただ」
そこで、言葉が途切れた。
アレクは、ワッシャーの刻印を、もう一度、見下ろした。
『手抜きすんなバカ弟子』
「…………宿題、か」
ぽつり、と呟いた。
「そうかもしれねえな」
クロが、肩の上で、静かに言った。
「ジジイは、あんたが、いつかここに来ることを、分かってた」
「……」
「だから、わざと、残した。足首のボルトは、あんたの、仕事だって」
アレクは、何も言わなかった。
ただ、ワッシャーを、そっと、元の位置に戻した。
ボルトの頭が、その上に、かちりと嵌まる。
彼は、台座の下に、もう一つ、目を留めた。
動力炉の台座の、さらに下。銀色の床の隅に、太い管が、地面の方へ向かって、真っ直ぐに伸びている。管の表面には、微かな脈動があった。青白い魔力の流れが、ゆっくりと、地下へ向かって、流れ落ちている。
「…………シエル」
「はい」
「あの管を、記録しておけ」
「何の管ですか」
「分からん」
アレクは、管を、じっと見つめた。
「ただ、巨人の動力炉から、地面の下へ、魔力が流れてる」
「巨人が、何かに、つながっている……?」
「そうだ」
空洞の天井から、点検口の外の夜風が、冷たく吹き込んできた。
アレクのヘルメットのライトが、闇の中で、ひときわ強く光った。




