第027話:脱退聖女の冷たい視線
夜の麦畑には、無数の松明が灯っていた。
倒れた巨人の周囲に、ギルドの迎撃部隊が、ぐるりと輪を作っている。炎の揺れる橙色の光が、石の巨体の輪郭を、ぼんやりと浮かび上がらせていた。負傷者の呻き声は、すでに少なくなり、衛生兵たちが、一人ひとりに毛布を掛けて回っている。焼けた麦の匂いに、薬草を煮る湯気の匂いが混じっていた。
アレクは、巨人の足元で、点検表を書いていた。
ヘルメットのライトを灯し、バインダーを膝に載せ、ペンを走らせる。
『足首継ぎ手、主軸ボルト撤去。損傷、軽微。防錆処理済み。巨人本体、安全停止状態を確認』
肩の上では、クロが、うとうとと船を漕いでいた。ポチは、ヘルメットの上で、ぺたりと平らになって眠っている。
シエルは、少し離れた場所で、ハーゲンに状況を説明していた。ピンクのツナギは泥だらけで、ぼさぼさの髪を手で押さえている。それでも、背筋は、まっすぐに伸びていた。
リリアナは、負傷した兵士たちの間を、歩いて回っている。
彼女の掌から、淡い白金の光が流れ出し、一人ひとりの傷口を包み込んでいった。骨折した腕が、元の位置に戻る。裂けた皮膚が、ゆっくりと閉じていく。兵士たちが、涙を浮かべて、頭を下げた。
「ありがとうございます、聖女様……」
「いいえ。もう、聖女では、ございませんの」
リリアナは、柔らかく微笑んで、首を横に振った。
「今は、ただの、現場の救護班です」
そのとき、麦畑の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
一頭の馬が、よたよたと、近づいてくる。
背に、一人の男が、しがみつくように跨っていた。
金色の鎧は、泥と埃と、乾いた血でまだらに汚れている。右腕は、だらりと垂れ下がり、額には、血の跡が黒くこびりついていた。髪はぼさぼさで、唇は切れて腫れ上がっている。
エドワードだった。
馬が、輪の外縁で、ふらふらと止まった。
エドワードは、馬から、ずるりと滑り落ちた。
地面に、膝をつく。
そのまま、動かなかった。
松明の光の向こうで、兵士たちが、彼に気づき始めた。ざわめきが、波のように広がっていく。
「おい、あれ、勇者じゃないか」
「あの顔……エドワード様だ」
「あいつが、巨人を起こしたんだってよ」
「封印を、勝手に解いたって……」
「ふざけるな」
低い声が、どこかから、聞こえた。
兵士たちの視線が、冷たく、エドワードに突き刺さっていく。
エドワードは、顔を上げなかった。
地面に両手をついて、俯いたまま、じっとしている。
やがて、のろのろと、立ち上がった。
足が、ふらついている。
彼は、人の輪の中へ、一歩ずつ、進んでいった。
兵士たちが、道を開ける。誰も、声をかけなかった。
エドワードの目は、前だけを見ていた。
視線の先に、亜麻色の髪の、白いシスター服の女性が立っていた。
リリアナは、負傷した兵士の包帯を結び終えたところだった。
顔を上げた彼女と、エドワードの目が、合った。
「…………リリアナ」
かすれた声だった。
リリアナは、何も答えなかった。
ただ、静かに、エドワードを見つめていた。
おっとりとした垂れ目の奥に、いつもの穏やかな光は、なかった。夜風が、彼女のベールを、ゆるやかに揺らしている。
「リリアナ。オレは……」
エドワードは、一歩、前に出た。
「オレの腕を、治してくれ」
「…………」
「見ての通り、折れてる。頼む。お前の力が、必要なんだ」
「…………」
「戻ってきてくれ。パーティには、お前が、必要だ」
声が、震えていた。
人前で、勇者が、頭を下げている。
しかし、リリアナの表情は、ぴくりとも動かなかった。
彼女は、ゆっくりと、腰のポーチに手を入れた。
取り出したのは、白い包帯だった。
巻かれた状態の、ごく普通の、救護用の包帯。
リリアナは、それを、エドワードの足元へ、ぽとりと放った。
包帯は、乾いた土の上を、ころころと転がって、エドワードの靴先に当たって止まった。
「…………え」
「怪我人の手当ては、いたします」
リリアナは、静かに言った。
「ただし、わたしの力は、もう、あなたのためには、使いません」
「な、何を」
「包帯は、差し上げます。ご自分で、巻いてください」
エドワードの顔が、くしゃりと歪んだ。
「リリアナ……」
「あなたが、巨人の封印を、解きましたね」
彼女の声は、柔らかかった。
けれど、その奥に、鋼のような硬さがあった。
「現場には、警告の看板が、立っていたと聞きました。『立入禁止』と。『掘削厳禁』と」
「…………」
「それを、斬り捨てたと」
エドワードは、唇を噛みしめた。
否定の言葉は、出てこなかった。
「その結果が、ここです」
リリアナは、周囲を、ゆっくりと見渡した。
負傷した兵士たち。焼けた麦畑。クレーターの穿たれた大地。そして、地に伏した、巨人。
「兵士の方々が、血を流しました。折れた骨は、わたしが、つなぎました。けれど、恐怖までは、治せません」
「…………」
「あなたの身勝手な破壊活動には、一滴の祈りも、捧げません」
彼女は、静かに、微笑んだ。
とても、優しく。とても、冷たく。
「請求書は、ギルド経由で、回しますね♡」
兵士たちの間から、小さく、笑い声が漏れた。
同情ではなかった。
溜飲が、下がったのだ。
エドワードの肩が、がくりと落ちた。
全身から、力が、抜けていく。
立っているのが、やっとだった。
喉の奥で、小さく、何かが鳴った。
嗚咽の、一歩手前の音だった。
そのとき、後ろから、声がした。
「おい」
低く、気だるい声だった。
エドワードは、びくりと、肩を揺らした。
ゆっくりと、振り返る。
松明の光の中に、ヘルメット姿の男が、立っていた。
手には、バインダー。腰には、工具ベルト。ツナギの膝は泥だらけで、死んだ魚のような目が、じっと、エドワードを見ていた。
アレクだった。
「…………清掃員」
「原状回復士だ」
いつもの返答だった。
エドワードは、何かを言おうとした。
口を開いて、閉じた。
手に握りしめていたものを、そっと持ち上げた。
黄色い厚紙の荷札だった。針金が、途中で千切れている。
アレクは、その荷札を、じっと見つめた。
「…………それは」
「巨人の、ボルトに」
エドワードの声は、ひどく小さかった。
「結んで、あった」
「ああ」
「オレは……」
言葉が、途切れた。
喉が、ひくひくと動く。
目の端に、涙の粒が、たまっていた。
「…………読んで、いなかった」
「そうか」
「最初から、書いてあったのに」
「ああ」
「見る気に、なれなかった」
アレクは、小さく、息を吐いた。
「立て」
「…………え」
「座り込むな。ここは、現場だ」
アレクは、淡々と言った。
「現場に座り込むと、邪魔になる」
エドワードは、ぽかんとして、アレクを見上げた。
責められると、思っていた。
罵倒されると、思っていた。
嘲笑されると、思っていた。
しかし、アレクの声には、そのどれも、含まれていなかった。
「…………」
エドワードは、のろのろと、立ち上がった。
アレクは、腰のポーチから、黄色いものを取り出した。
予備のヘルメットだった。
「かぶれ」
「は?」
「ヘルメットだ。ここは、まだ、危険だ。巨人の周りは、いつ崩れるか分からない」
「…………」
「怪我人を増やすな」
ぶっきらぼうな口調だった。
エドワードは、差し出されたヘルメットを、ぼんやりと見つめた。
手が、ためらうように、動いた。
ゆっくりと、受け取る。
黄色い樹脂の、少し傷のついた安全帽。側面には、白いペンで、「安全第一」と書かれていた。
彼は、それを、そっと頭にかぶった。
ずれた金色の髪の上に、黄色が載る。
金色の鎧と、黄色いヘルメット。
奇妙な組み合わせだった。
遠巻きに見ていた兵士たちが、くすりと笑った。
エドワードは、顔を、真っ赤にした。
「…………笑うな」
「笑ってない」
アレクが、淡々と言った。
「似合ってる」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない。安全基準は、満たしてる」
エドワードは、何かを言い返そうとして、結局、口を閉じた。
唇の端が、ほんの少しだけ、震えていた。
リリアナが、少し離れた場所から、その様子を見つめていた。
彼女は、小さく溜息をついて、首を振った。
そして、ふっと、ほんの少しだけ、視線を和らげた。




