第026話:カチッとな、安全停止の瞬間
巨人の掌が、降ってきた。
夕焼けの空が、石の影に飲み込まれる。足首の継ぎ手に取りついたアレクの頭上で、空気が、重く押し潰されていく。風が止まり、麦畑のざわめきが消えた。
「主任ぃぃっ!」
「来るぞ!」
クロの絶叫と、リリアナの祈りの声が、重なった。
「聖域・全力展開!」
白金の光が、アレクとシエルの頭上に、傘のように広がった。巨人の掌が、その光に、真上から激突する。
ばきぃぃぃん。
空気が、割れた。
光の壁が、一瞬で、蜘蛛の巣のようなひびに覆われた。リリアナの悲鳴が、地上から響く。聖域が、軋んでいる。掌の圧力に押されて、足首の継ぎ手の周りの土が、ずぶずぶと沈んでいった。
「あと何秒だ!」
アレクが、怒鳴った。
「浸透油は、まだ効いてないのか!」
「あと、20秒は必要です! 錆の奥まで、油が届いていません!」
シエルが、スプレー缶を握りしめたまま叫んだ。眼鏡が、風圧でずれている。団子髪は、完全にほどけていた。頬を、汗と土埃が伝っている。
「20秒……」
アレクは、ちらりと頭上を見た。
聖域のひびが、じわじわと広がっている。リリアナの限界は、おそらく、あと10秒。
足りない。
「ポチ!」
「ぷるっ!」
「掌の下に、潜れるか!」
ポチは、ぷるぷると小さく震えた。
そして、すぐに、飛んだ。
黄色い体が、アレクのヘルメットの下から飛び出して、聖域の天井に、べちゃりと貼りついた。ぐにゃりと平たく広がり、ひびの入った光の壁を、内側から覆っていく。透明な粘液の膜が、ひびを、塞いでいった。
ひびの広がりが、止まった。
「ポチさん……!」
リリアナの声が、震えた。
光の壁が、持ちこたえている。
「5秒、稼いだ! あと十五だ!」
クロが、数を数え始めた。
「十四、十三、十二!」
シエルが、スプレーを、ボルトの根元に、がむしゃらに吹きつける。琥珀色の霧が、金属の継ぎ目に染み込んでいく。じゅわ、と、錆が溶ける音がした。
「十一、十!」
アレクは、インパクトレンチを、ボルトの頭に、ぐっと押し当てた。
ソケットが、頭にがっちりと嵌まる。
掌が、さらに沈んだ。
ミシ、ミシ、と、聖域が悲鳴を上げる。
「九! 八! 七!」
リリアナの顔が、蒼白になっていた。額から流れる汗が、頬を伝って、顎から落ちる。唇を噛みしめた端から、血が、一筋にじんでいた。
「もう少し……もう少しだけ……!」
「六! 五! 四!」
ポチの体が、ぷるぷると激しく震え始めた。薄く広がった粘液の膜が、ところどころ、透けて穴が空きかけている。
「三! 二!」
アレクは、レンチの握りを、両手で、しっかりと握った。
「一!」
「やれ、主任!」
アレクは、トリガーを、引いた。
ガガガガガガガッ!
轟音が、足首の継ぎ手に響き渡った。
魔導インパクトレンチが、ソケットを回転させる。ボルトの頭が、ぎり、ぎりぎり、と悲鳴を上げながら、逆方向へ回り始めた。浸透油の染み込んだ錆が、ばりばりと割れて、赤茶色の粉となって飛び散った。
最初は、固かった。
一回転、二回転と、じわじわとしか回らない。
しかし、四回転目で、ふっと軽くなった。
ガガガガガガガッ!
回転が、一気に加速する。
ボルトが、ずるずると、ねじ山を滑り抜けていく。
周囲の石の継ぎ手が、ごごご、と地鳴りのような音を立てた。巨人の足首が、細かく震え始める。足首に走っていた無数の亀裂が、青白く光った。
『――警告。主軸固定機構、解除ヲ、検知』
巨人の声が、頭上から降ってきた。
『足首ノ、ロック、解除シツツアリ。中止セヨ。中止セヨ。中止セヨ』
平板な声に、焦りの響きが混じっていた。
「中止はしない」
アレクは、歯を食いしばった。
「定期点検の、やり直しだ」
ガガガガガガッ!
ボルトが、最後の山を、抜け始めた。
ぎり、ぎり、ぎり。
回転が、遅くなる。
そして。
カチッ。
小さな、乾いた音が響いた。
ボルトの頭が、くるりと、アレクの手の中に、回り出てきた。
続いて、巨大な鉄の棒が、足首の継ぎ手から、ずるりと、抜け落ちた。
ごとん。
ボルトは、足の甲に転がって、小さな金属音を立てた。
一瞬、世界が止まった。
風が止んでいた。
聖域のひびが、動きを止めた。
掌の動きも、止まっていた。
「…………」
巨人の足首が、ぐらり、と傾いた。
ほんの数ミリ。
それが、全ての始まりだった。
ぎ、ぎ、ぎぎぎぎ。
石と鉄の継ぎ手が、悲鳴のような軋み音を上げた。足首が、見る見るうちに、内側へ折れていく。固定を失った関節は、巨体の重みを支えきれなかった。足の甲が、ぐにゃりとねじれる。膝が、がくんと折れた。
『――警告。平衡制御、喪失。平衡制御、喪失』
巨人の声が、悲鳴に似た響きを帯びた。
『姿勢、維持不能。転倒、回避、不可』
「脚立、畳め!」
アレクが、叫んだ。
シエルが、慌てて、足の甲に立てた脚立の脚を、かちゃりと畳む。アレクは、その脚立を左脇に抱え、右手でインパクトレンチを腰に戻し、シエルの腕を掴んだ。
「飛べ!」
「は、はいっ!」
「風で、全員を受け止めろ!」
「分かりました!」
シエルの杖から、緑色の光が奔流のように溢れ出した。
風が、二人の体を、ふわりと包み込む。
次の瞬間、足の甲が、ぐらりと傾き、アレクとシエルは、宙へ放り出された。
地面が、遠ざかる。
いや、違う。
巨人が、倒れていくのだ。
20メートルの黒い巨体が、夕焼けの空を覆うように、ゆっくりと、前のめりに傾いていく。
風が、唸りを上げた。
兵士たちの悲鳴が、麦畑の向こうから響く。
「うおおおおっ!」
「倒れるぞぉぉぉっ!」
「逃げろぉぉぉっ!」
しかし、巨人が倒れる方向は、すでに、決まっていた。
前方、無人の麦畑。
アレクが、最初から計算していた方向だった。足首の継ぎ手を、内側へ折れさせる位置を、ボルトの抜き方で、調整していたのだ。
ごごごごごご。
巨体が、ゆっくり、ゆっくりと、地面に近づいていく。
麦畑が、巨大な影に覆われた。
風圧で、麦の穂が、一斉に、後ろへなぎ倒される。
兵士たちが、悲鳴も出せずに、固まっていた。
そして。
ずどおおおおおおおおおおん!
世界が、揺れた。
大地が、爆発した。
20メートルの石の巨体が、うつ伏せに、麦畑へ叩きつけられた。衝撃波が、大地を走り、土煙が、天高く噴き上がった。砂塵が、夕焼けの空を、黄土色に染める。麦の穂が、渦を巻いて、舞い上がった。
轟音は、数10秒も、続いた。
兵士たちは、地面に伏せて、頭を抱えていた。
ハーゲンは、馬から転げ落ちて、その場に這いつくばった。
長い、長い、数10秒だった。
やがて、音が、遠ざかった。
土煙が、ゆっくりと、風に流されていった。
静寂が、落ちた。
麦畑に、うつ伏せに倒れた巨人が、横たわっていた。
頭を、北へ向けて。
両腕を、体の脇に投げ出して。
動かない。
赤い目の光は、消えていた。胸の宝石が、青い光に戻っている。ゆっくりと、静かに、脈打っていた。眠っているような、穏やかな色だった。
その足元に、小さな人影が、ふわりと降り立った。
ヘルメット姿の男と、ピンクのツナギの女。
アレクは、脚立を地面に突いて、ゆっくりと、息を吐いた。
ヘルメットの縁から、汗が、ぽたぽたと落ちる。
肩の上のクロが、はあああ、と、盛大に溜息をついた。
「…………死ぬかと思った」
「生きてる」
「分かってらあ!」
ポチが、ぴょこんと、ヘルメットの下に飛び込んでくる。ぷるぷると小刻みに震えているが、嬉しそうな震えだった。
シエルが、その場にへたり込んだ。
膝が、がくがくと笑っている。
眼鏡が、鼻の先にずり落ちて、涙目になっていた。
「…………主任」
「何だ」
「あの、これは」
「緊急安全停止だ」
アレクは、淡々と答えた。
「ボルトを抜いて、足首のロックを解除。自重で転倒して、安全に停止した」
「安全、に」
「ああ。怪我人は、ゼロだ」
シエルは、倒れた巨人を見上げた。
20メートルの巨体が、麦畑に沈んでいる。まるで、大地の一部のように、静かだった。
「……確かに、誰も、怪我を」
彼女は、言いかけて、口を押さえた。
笑いが、こみ上げてきた。
「ふ、ふふっ、あはははっ!」
「何だ」
「いえ、あの、すっ転ぶ、と」
「ああ」
「あんな、大きな巨人が、すってんころりんと」
「点検の結果だ」
「ふふふっ、はははははっ!」
シエルは、地面に座り込んだまま、涙を流して笑った。
緊張の糸が、一気に切れたらしい。
リリアナが、少し離れた場所から、よろよろと走ってきた。ヘルメットが、斜めにずれている。唇の端に、血の跡。それでも、満面の笑みだった。
「アレク主任! やりましたね!」
「ああ。お前のおかげだ」
「ポチさんも、頑張ってくれました♡」
「ぷる!」
「クロさんも」
「おう、まあな」
アレクは、倒れた巨人の足首へ、ゆっくりと歩み寄った。
ボルトを抜いた継ぎ手が、露わになっている。
彼は、腰のポーチから、防錆用のグリスの缶を取り出した。蓋を開け、刷毛で、継ぎ手の周りに、手早く塗り込んでいく。
ねっとりとした白い脂が、錆びた金属の隙間に、染み渡った。
「何を、しているのですか」
シエルが、目元を拭いながら尋ねた。
「ついでの処置だ」
「ついで」
「このまま放置すると、また錆びる。腐食を止めておく」
「戦いのあとに、ですか」
「点検が終わったら、防錆処理までが、仕事だ」
アレクは、手を動かしながら答えた。
「はい、緊急安全停止完了。ついでに全身に防錆グリス塗っといたから」
そう言って、塗り終えた継ぎ手の表面を、指の背で、とんとんと叩いた。
ぴかぴかと、グリスの膜が光っていた。
遠くから、歓声が、聞こえ始めた。
最初は、一人の声だった。
続いて、二人。三人。
やがて、麦畑全体が、わあああああ、という大歓声に包まれた。
兵士たちが、武器を空に突き上げている。倒れた者を担架で運んでいた衛生兵が、涙を流しながら拍手をしている。ハーゲンが、膝をついて、拳で地面を叩いていた。
「勝った……」
副官が、呆然と呟いた。
「あの、巨人を、清掃員が……」
「原状回復士、だそうだ」
ハーゲンは、泣き笑いの顔で、そう言った。




