第025話:規定トルク不足の衝撃
脚立が、きしりと鳴った。
アレクは、一段ずつ、慎重に上っていく。足首の継ぎ手は、近くで見ると、壁のようだった。苔むした石の表面に、錆びた鉄の金具が、びっしりと並んでいる。ところどころ、金具の隙間から、赤茶色の粉が吹き出していた。数100年の湿気が、鉄を静かに蝕んでいる。
風が、足元から吹き上げてきた。
夕焼けの光が、巨人の石肌を、橙色に染めている。ヘルメットのライトを灯すと、金具の影が、壁に長く伸びた。
地上のざわめきが、遠い。
兵士たちの息遣いが、麦畑の向こうから、かすかに聞こえてくる。
「主任、巨人が、動きを止めています」
リリアナの声が、下から響いた。
「えっ」
アレクは、思わず、巨人の顔を見上げようとした。
しかし、足首の位置からでは、巨大な脛が邪魔をして、顔は見えない。
「どういう状態だ」
「左足を軸にして、立っています。右足を、少し浮かせたまま、動きが、止まっているのです」
「…………」
「ええと、首を、かしげているようにも」
クロが、肩の上で、ふん、と鼻を鳴らした。
「防衛機構ってやつは、考え込むと止まるんだ。想定外の事態が起きたとき、再計算を始める」
「再計算」
「小せえ人間が、自分の足に登ってくるなんて、設計図には書いてなかったんだろうよ」
アレクは、小さく笑った。
「それは、都合がいい」
「ただし、長くは持たねえぞ。計算が終わったら、また動き出す」
「分かってる。急ぐ」
アレクは、脚立を、さらに二段、上った。
足首の継ぎ手の、ちょうど目の高さまで来たところで、足を止める。
右目に、魔力を集めた。
《損害鑑定眼》。
視界が、切り替わった。
継ぎ手の表面を覆っていた苔と錆が、半透明に透けていく。その奥の、金具の構造が、青白い線画のように浮かび上がった。巨大な軸受け、重なった歯車、楔のような固定ピン。そして、それらを貫く、太い主軸ボルト。
ボルトの周りに、赤い線が、細かく走っている。
劣化の痕跡だった。
錆の進行、ひび割れ、金属疲労。それらが、色の濃淡となって、一目で読み取れた。
「…………やっぱりか」
アレクは、小さく呟いた。
「何が、ですか」
地上から、シエルの声が飛んできた。
「見てくれ。主軸ボルトだ」
「ここからでは、見えません」
「今から、説明する」
彼は、腰のポーチから、魔導インパクトレンチを取り出した。
重い、無骨な工具だった。握りの部分は、黒い革で巻かれている。先端のソケットが、ボルトの頭にぴたりと合うサイズに交換されている。胴体には、小さな魔導メーターが、取り付けられていた。
レンチの先端を、ボルトの頭に、そっと当てる。
針が、ぴくりと動いた。
メーターの数値が、青白く光りながら、せり上がっていく。
一。
二。
三。
そして、止まった。
「…………二千七百」
「何の数値ですか?」
「締め付けトルクだ」
アレクは、淡々と答えた。
「このボルトの、現在の締め付け力。二千七百ニュートンメートル」
「それは、多いのですか? 少ないのですか?」
「設計上の規定値は、九千」
「九千……」
「つまり、三割しか、締まってない」
地上が、一瞬、静まった。
クロが、肩の上で、翼を震わせた。
「そんなことだろうと、思ったぜ」
「どういう意味だ」
「俺ぁ、300年前、この巨人の組み立てを、見てたんだ。あのときは、ボルトを、九千で締めてた。職人が、三人がかりで、巨大なレンチを回してな」
「…………」
「でも、300年も経てば、ボルトは緩む。それが、普通だ。定期的に締め直さなきゃ、いけねえ」
「定期点検が、なかった」
「ああ。誰も、やってなかった」
クロの声が、少しだけ、苦かった。
「巨人は、封印されて、眠ってた。誰も、メンテなんか、しなかった。そのまま、300年だ」
アレクは、ボルトの頭を、じっと見つめた。
錆びた金属の表面。かすかに浮き上がった、歪みの筋。
「…………だから、足首が、ぐらついてるのか」
「ぐらつく?」
「見ろ。継ぎ手の隙間が、わずかに、動いてる」
アレクが指さした先で、石と石の継ぎ目が、ほんの数ミリ、ずれている。巨人が呼吸でもするように、わずかに伸び縮みしている。
「規定通りに締まっていれば、この継ぎ目は、ぴくりとも動かない。それが、三割しか締まってない。そのせいで、足首が、がたがたしてる」
「がたがた、ですか」
「ああ。普通の人間なら、足首を捻挫してる状態だ」
シエルが、息を呑んだ。
「では、この巨人は」
「歩くのが、精一杯だ。走れない。ジャンプもできない。重い一撃を打つたびに、足首が悲鳴を上げてる」
アレクは、ボルトの根元を、指でなぞった。
「それでも、サビが、固着材の代わりになって、何とか形を保ってる。いわば、サビで持ってるようなもんだ」
「サビで」
「だから、無理に締めようとすると、逆効果だ。サビが割れて、足首が崩れる」
彼は、そこで、口をつぐんだ。
数秒、考える。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
「…………逆に、回す」
「え?」
「逆回しだ」
アレクは、インパクトレンチの、回転方向のレバーを、かちりと切り替えた。
「ボルトを、緩める。ゆっくりと、全部、抜く」
「ぬ、抜くのですか!?」
「ああ」
「でも、それでは、足首が」
「そうだ。足首の、ロックが、外れる」
アレクは、淡々と、続けた。
「主軸ボルトは、足首の関節を、固定してる。これを抜けば、関節は、自由に動く。つまり」
「つまり?」
「巨人は、自分の体重を、支えられなくなる」
地上の全員が、息を呑んだ。
「転ぶ」
アレクは、静かに、言い切った。
「あいつは、自分の足で、すっ転ぶんだ」
沈黙が、落ちた。
風が、麦畑を、さわさわと撫でていく。
兵士たちの息遣いが、遠くから聞こえる。
クロが、肩の上で、ぽつりと言った。
「…………主任」
「何だ」
「あんた、天才か」
「違う」
アレクは、首を振った。
「ただの、整備士だ」
彼は、足首の継ぎ手を、じっと見つめた。
一つ、問題があった。
ボルトは、サビついている。長年の腐食で、ねじ山が、がっちりと固着しているだろう。いきなりインパクトレンチを当てれば、ボルトが、ねじ切れる。そうなれば、足首は、予想もつかない壊れ方をする。
「潤滑浸透油が、要るな」
「私が!」
地上から、シエルの声が響いた。
「スプレーを、持っています! どこに、吹きかければ!」
「上がってこい」
「え?」
「風で、飛べ。ここまで」
「わ、私が、ですか!?」
「ああ。お前の風なら、できる」
数秒の、間があった。
それから、シエルの、震える声が、返ってきた。
「…………分かりました!」
緑色の光が、地上から、一筋、立ちのぼった。
ふわり、と、ピンクのツナギの人影が、宙に浮いた。
髪が、風に踊る。
眼鏡が、夕日を反射して、ぎらりと光った。
彼女の体は、ゆっくりと、巨人の足首の高さまで、浮かび上がってきた。両手には、銀色のスプレー缶を、しっかりと抱えている。
「うわ、うわあああ!」
「落ち着け。目を開けろ」
「は、はいっ!」
シエルは、必死に、目を開けた。
目の前に、アレクの顔があった。
ヘルメットの下で、死んだ魚のような目が、わずかに、笑っていた。
「上出来だ」
「…………え」
「度胸が、ある」
シエルの頬が、一瞬で、真っ赤に染まった。
「そ、そんな、褒められても……!」
「スプレーを。ボルトの根元に、たっぷり」
「は、はいっ!」
シエルは、慌てて缶を構え、ボルトの根元に、浸透油を吹きかけ始めた。
しゅううううう。
琥珀色の霧が、錆びた金属に、じわじわと染み込んでいく。独特の甘い金属臭が、夕風に混じった。
アレクは、その様子を見守りながら、再びインパクトレンチを、ボルトの頭に当てた。
ソケットが、かちりと、頭に嵌まる。
「あと、30秒。待て」
「はい、主任!」
巨人の脛の向こうで、赤い光が、ぎらりと動いた。
『――再計算、完了』
低い声が、頭上から降ってくる。
『対象、足首ヘノ接近ヲ、確認。直チニ、排除ヲ、実行スル』
クロの声が、悲鳴に変わった。
「主任! 来るぞ!」




