第024話:クロの危険予知とポチの誘導
拳が、落ちてくる。
夕焼けの空が、石の影で、塗りつぶされていく。風が、拳に押されて、ごう、と鳴った。麦の穂が、一斉に地面に伏せる。空気が、重くなる。
アレクは、脚立を片手に、動かなかった。
動けないのではない。見ていた。拳の角度、肩の沈み込み、腰のひねり。巨人の体の軸が、どちらに傾いているか。
「主任!」
肩の上で、クロが叫んだ。
「2時の方向、右ストレート! 着弾まで、あと2秒!」
「どこに落ちる」
「あんたの、ちょうど真上だ!」
「ポチ」
「ぷるっ!」
ポチが、ヘルメットの下から、飛び降りた。
ぺたん。
麦畑の土に着地した瞬間、黄色い体が、ぐんと平たく広がった。薄い膜が、アレクの足元から、左前方へ、扇形に伸びていく。ぬるりとした粘液の光沢が、夕日を受けて、ぎらりと光った。
「そこへ踏み込め!」
「ああ」
アレクは、左へ、一歩踏み出した。
安全靴の底が、ポチの粘液に触れる。
つるっ。
靴が、土の上を、氷のように滑った。
体が、勢いよく左へ流れる。
次の瞬間、拳が、アレクのいた場所に叩きつけられた。
どおおおおん!
地面が、爆発した。
土砂が、噴水のように吹き上がる。衝撃波が、麦畑を舐めて、四方に広がった。髪が、後ろへ煽られる。耳が、きいんと鳴った。シエルが、悲鳴を上げて、杖にしがみつく。
土煙が、もうもうと舞い上がった。
リリアナが、胸の前で両手を組んだ。
「聖域!」
白金の光が、半球状に広がり、五人と一匹を包み込んだ。飛んできた石の塊が、光の壁に当たって、ぱらぱらと弾け飛ぶ。土砂は、壁の外側を滑り落ちていった。
煙が、ゆっくりと晴れていく。
巨人の拳は、地面に深く突き刺さっていた。
そこには、人間五人は、おろか、馬車一台が丸ごと入るほどのクレーターが、ぽっかりと口を開けている。
しかし、その縁から、数メートル離れたところに、アレクが立っていた。
ポチの粘液の上を、滑って、避けていた。
脚立を肩に担いだまま。
「……ふう」
彼は、ヘルメットのつばを、軽く直した。
「足元、ヨシ」
「ヨシじゃねえ、主任!」
クロが、肩の上で怒鳴った。
「今のは、紙一重だっただろうが! 指さし確認なんぞしてる暇があったら、次の攻撃を警戒しろ!」
「確認は、大事だ」
「大事だが、今じゃねえ!」
アレクの口元が、わずかに緩んだ。
麦畑の端では、負傷した兵士たちが、担架の上から身を起こして、こちらを見ている。さっきまで笑っていた何人かの口は、もう、笑う形をしていなかった。誰かが、ごくりと唾を飲んだ音が、風に混じって聞こえた気がした。
「分かった。次は、避けてからやる」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
リリアナが、くすりと笑った。
シエルは、必死に息を整えながら、アレクの背中を見つめていた。
手が、まだ、震えている。
それでも、目だけは、アレクから、離さなかった。
巨人が、拳を、地面から引き抜いた。
ずず、ずず、と土を割りながら、石の腕が持ち上がる。
赤い目が、再び、アレクを見下ろした。
『――回避行動ヲ、確認』
平板な声に、わずかな変化が混じった。
『対象。小型デ、機動力、想定以上。評価ヲ、修正。脅威度、中』
「やっと、気づいたか」
アレクは、脚立を地面に突いて、ぼそりと言った。
「監査官殿、いや、シエル」
「は、はい!」
「風で、俺の背中を押せ。足元を、支えろ。巨人の左足の、くるぶしまで、一直線に」
「くるぶし……ですか」
「あそこが、点検箇所だ」
アレクが指さしたのは、巨人の左足だった。
麦畑に、どっしりと立つ、柱のような足。足首は、人の腰ほどの太さで、そこに複雑な継ぎ手と、巨大なボルトが何本も、顔をのぞかせている。
足首までの距離は、およそ100メートル。
そこへ至るには、巨人の拳と、足の下を、くぐり抜けなければならない。
「ほ、本当に、あそこまで行くのですか」
「ああ」
「できるでしょうか」
「できる」
アレクは、きっぱりと言った。
「お前の風は、さっき、ゴブリンの足を止めた。あれを、足場の支えにする」
「……分かりました」
シエルは、杖を、ぎゅっと握りしめた。
眼鏡の奥の碧い瞳に、決意の色が宿る。
「やります!」
「いい返事だ。リリアナ」
「はい」
「俺が走る間、落石と衝撃波を防いでくれ」
「お任せください♡」
「クロ、攻撃の予告を、秒単位で」
「おうよ!」
「ポチ、足元の滑り止めを頼む」
「ぷるぷる!」
アレクは、全員の顔を、順番に見た。
「よし。行くぞ」
アレクが、駆け出した。
脚立を肩に担いだまま、麦畑を、一直線に疾走する。安全靴が、土を蹴る。ヘルメットが、夕焼けの光を弾いた。
その背中を、風が、ぐんと押した。
「風縛陣・追い風!」
シエルの杖の先から、緑色の光が流れ出した。透明な風の流れが、アレクの背を、ぴたりと包み込む。足が、羽のように軽くなった。一歩の幅が、倍になる。
「3秒後、左足の踏み込み! 地面が、割れるぞ!」
クロの叫びが、飛んだ。
「ポチ、右前方!」
「ぷるっ!」
ポチが、アレクの足元へ、ぺたぺたと走り込む。一瞬で、粘液のレーンを敷いた。アレクの靴が、レーンの上で、滑るように向きを変える。
巨人の左足が、持ち上がった。
巨大な足の裏が、頭上に迫る。
ずん!
踏み下ろされた地面が、ひび割れた。亀裂が、蜘蛛の巣のように走る。アレクの立っていた場所が、陥没した。
しかし、アレクは、もう、そこにいなかった。
ポチの粘液の上を滑って、巨人の足の内側へ、潜り込んでいる。
「2秒後、右の肘打ち! 高さ、7メートル!」
「リリアナ!」
「はい! 聖域、上方展開!」
光の傘が、アレクの頭上に広がった。
巨人の右肘が、横薙ぎに振るわれる。光の壁に、石の肘が激突した。ばきん、という音とともに、聖域に細かいひびが走る。リリアナが、歯を食いしばった。
「くっ……!」
額に、大粒の汗が浮かんでいる。
ひびが、広がっていく。
しかし、肘は、そこで、止まった。
光の壁が、持ちこたえた。
アレクは、その下を、滑るように駆け抜けた。
「1秒後、左手が降ってくる! 掌で、叩き潰す気だ!」
「シエル!」
「はいっ! 風縛陣・上昇!」
アレクの体が、ふわりと宙に浮いた。
シエルの風が、彼を、真上に持ち上げる。巨人の掌が、地面を叩く、その直前に。アレクの足が、掌の縁を、蹴った。
ぱん、と、乾いた音が響いた。
巨人の指の上を、アレクが、跳ねるように駆け上がる。
周囲の兵士たちが、声を失っていた。
ハーゲンは、馬の手綱を握りしめたまま、息をするのも忘れて、見つめていた。
「……あの男、巨人の手の上を」
「走って、います」
副官の声が、かすれていた。
「脚立を、担いだまま」
アレクは、巨人の指から、左足の甲へ、飛び降りた。
ずしん、と、重い着地の衝撃が、足の骨まで響く。石の足の甲は、人間が立てるほど広かった。
目の前に、巨大な足首の継ぎ目が、そびえ立っていた。
苔むした石の壁。錆びた鉄の金具。複雑に組み合わさった、古代の関節構造。その中央に、アレクの腕ほどもある太さの、巨大なボルトが、見えた。
「…………」
アレクは、ゆっくりと、息を吐いた。
汗が、ヘルメットの縁から、ぽたりと落ちる。
心臓が、早鐘を打っていた。
しかし、手は、震えていなかった。
肩から、脚立を下ろす。
かちゃ、かちゃ、と、折りたたみの脚を、手際よく広げる。足の甲に、三点で、しっかりと立てた。先端の二股を、足首の継ぎ手に、がっちりと噛ませる。
「主任!」
地上から、シエルの声が聞こえた。
「ご無事ですか!」
「ああ。着いた」
「足首の、点検箇所に!」
「そうだ」
アレクは、脚立の最下段に、片足をかけた。
「これから、点検に入る」
肩の上で、クロが、ほっと息をついた。
「やれやれ。心臓に悪いぜ、主任」
「悪かったな」
「次は、もうちょっと、ゆっくり走れ」
「分かった」
「分かってねえだろ」
アレクは、小さく笑った。
そして、ゆっくりと、脚立を、一段、上り始めた。




