第023話:脚立を担いだ男たち
風が、耳の中で唸っていた。
軌道車は、街道の石畳を、青い魔導石の光を引きながら駆け抜けていた。時速60キロ。いつもの速度である。ただし、今日は荷台に乗る人数が多く、荷物も多い。車体は、わずかに左右へ揺れていた。
「しゅにぃぃぃん! 速度がぁぁぁ!」
荷台の縁に両手でしがみついたシエルが、悲鳴を上げた。団子髪が風にほどけて、プラチナブロンドが背中で旗のようにはためいている。眼鏡のつるを、かろうじて耳で押さえていた。
「前にも言ったが、時速60キロは普通だ」
「二度目です! 二度目でも怖いものは怖いです!」
「慣れろ」
「慣れません!」
アレクは、握り棒を握ったまま、前方を睨んでいた。
夕焼けが、空を赤く焼いている。街道の両側には、刈り入れ前の麦畑が、金色の波となって広がっていた。その向こう、地平線の近くに、黒い巨大な影が立っている。
ずしん。
ずしん。
距離は、まだ、3キロ以上ある。それなのに、足音が、車体を細かく震わせていた。
「あら、風が気持ちいいですね」
荷台の中央で、リリアナが、のんびりと言った。
ベールの上のヘルメットを片手で押さえ、もう片方の手で救護用の鞄を抱えている。亜麻色の髪が、ふわふわと風に遊んでいた。表情は、穏やかな笑顔のままだ。
「リリアナさんは、なぜ、そんなに平気なのですか!」
「教会の巡礼で、馬車の屋根に乗せられたことがありまして」
「馬車の屋根!?」
「ええ。山道で、車輪が一つ外れたこともありましたよ」
「どんな巡礼ですか!」
シエルの絶叫が、風に吹き飛ばされていく。
アレクの肩の上では、クロが、翼を広げて風を受けていた。小さな体が、今にも吹き飛ばされそうに見える。それでも、爪は、がっちりとツナギの布を掴んでいた。
「主任、もっと飛ばせ!」
「これが限界だ」
「石の巨人は、待っちゃくれねえぞ! あいつの歩幅は20メートルだ! 一歩ごとに、王都に近づいてる!」
「分かってる」
アレクのヘルメットの下から、ポチが、ぷるぷると顔を出した。
風圧で、ゼリーの体が、ぺたりと後ろに押し潰されている。それでも、つぶらな黒い瞳は、まっすぐ前を見据えていた。
軌道車の荷台の隅には、折りたたまれた銀色のアルミ脚立が、ロープで固定されている。長さ、3メートル。軽量で、頑丈で、先端が二股に開く。アレクが、いつも現場へ担いでいく、愛用の道具だった。
荷台の振動で、脚立が、がたん、と跳ねる。
懐中時計を取り出して、片手で蓋を開けた。
17時14分。
「……定時を、14分、過ぎてる」
「そこですか!」
シエルが、風の中で叫んだ。
「今、そこを気にするところですか!」
「残業代は、倍請求だと言ったろ」
「言いましたけど!」
「17時以降は、割増だ。前から、決まってる」
「どこの規定ですか!」
「俺の」
リリアナが、くすくすと笑った。
麦畑の丘が、近づいてきた。
街道の右手に、ギルド連盟の旗が、いくつも立っている。迎撃部隊の陣地だった。
いや、元、陣地だった。
旗は半分以上が倒れ、焼け焦げた魔導砲が、あちこちで煙を上げている。麦畑には、巨大なクレーターが、いくつも穿たれていた。負傷した兵士たちが、肩を貸し合い、よろめきながら後方へ下がっていく。担架が、何台も動いていた。
アレクは、軌道車を、陣地の端に停めた。
魔導石の光が、ふっと消える。
車輪の音が止まり、静寂が落ちた。
シエルは、荷台の縁にしがみついたまま、がくがくと膝を震わせていた。
「…………着き、ました」
「ああ」
「生きて、ます」
「当たり前だ」
アレクは、荷台から飛び降りた。
安全靴が、麦畑の土を踏む。焦げた麦の匂い。火薬の匂い。血の匂い。そのすべてが、夕風に混じって鼻を突いた。
そのとき、馬の蹄の音が、近づいてきた。
一頭の栗毛の馬が、全力で駆けてくる。その背に、顔に刀傷のある、白髪混じりの大男が跨っていた。額から血が流れ、鎧は、あちこちがへこんでいる。
「止まれぇっ! ここから先は、戦場だ! 民間人は、立入禁止だ!」
大男は、アレクの前で馬を止めた。
馬が、荒い息を吐きながら、前脚で地面を掻く。
「何者だ、貴様ら! その格好は……ツナギ?」
「原状回復班だ」
「原状、回復……?」
大男は、目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと、アレクの頭から足の先までを眺めた。
ヘルメット。ツナギ。安全靴。腰の工具ベルト。肩の上の、ちっこい黒い石像。後ろの、ピンクのツナギの女。亜麻色の髪の、ヘルメット姿のシスター。
「…………まさか、お前が、アレクか」
「ああ」
「エレノア殿から、聞いている」
大男は、馬から降りた。
重い足取りで、アレクの前に立つ。
「迎撃隊長のハーゲンだ。……本当に、来たのか」
「呼ばれたからな」
「呼ばれた、だと?」
ハーゲンの口元が、苦々しく歪んだ。
「悪いことは言わん。引き返せ。あれは、人間の手に負える相手じゃない。砲弾も、魔法も、傷一つ、つかなかった」
「そうか」
「それなのに、お前は、ツナギで、何をするつもりだ」
「点検だ」
「は?」
「あいつを、点検する」
ハーゲンは、ぽかんと口を開けた。
周囲で、負傷した兵士たちが、足を止めて、こちらを見ている。
一人が、小さく、吹き出した。
「点検……?」
「巨人を……?」
「あの清掃員、頭、おかしいのか」
囁き声が、波のように広がっていく。
ハーゲンは、アレクの肩を、がしっと掴んだ。
「死にに行く気か」
「死にには行かない。定時過ぎだが、帰るつもりだ」
「ふざけるな!」
「ふざけてない」
アレクは、ハーゲンの手を、静かに外した。
「あんたの部隊は、よくやった。足止めになった。負傷者を連れて、下がってくれ」
「……」
「あとは、現場の仕事だ」
そう言って、アレクは、荷台に戻った。
縛っていたロープをほどき、銀色の脚立を、肩に担ぎ上げる。
脚立の脚が、からん、と音を立てた。
その光景を、ハーゲンも、兵士たちも、呆然と見つめていた。
巨人が、すぐそこまで来ていた。
距離、およそ300メートル。
夕焼けを背に、20メートルの黒い巨体が、ゆっくりと、麦畑を踏みしめて進んでくる。一歩ごとに、地面が、大太鼓のように震えた。赤い目が、闇の中で、爛々と光っている。胸の宝石は、禍々しい赤色に脈打っていた。
『――前方ニ、小型ノ人影、複数確認』
平板な声が、風に乗って届いた。
『武装、ナシ。脅威度、極小。……排除ノ必要、低』
「聞こえてるぞ」
アレクが、小さく呟いた。
「武装なし、は、正しい」
彼は、脚立を肩に担いだまま、麦畑の中へ、堂々と歩き出した。
ヘルメットの下で、目つきが、すでに変わっていた。さっきまでの死んだ魚のような目は、どこにもない。焦点が、一点に絞られている。
「シエル、リリアナ、ポチ、クロ。行くぞ」
「は、はい!」
「はい、主任♡」
「ぷる!」
「おうよ!」
四つの声が、揃った。
ピンクのツナギのシエルが、軌道車の荷台から飛び降りた。まだ膝は震えているが、足取りはしっかりしている。杖を握りしめ、アレクの横に並んだ。リリアナが、救護用の鞄を肩にかけ直し、反対側に並ぶ。
五つの影が、夕焼けの麦畑を、並んで進んでいく。
その背中を、ハーゲンは、呆然と見送っていた。
「……狂ってる」
隣の副官が、呟いた。
「あの人たち、脚立を担いでます」
「ああ」
「巨人に向かって、脚立を」
「見れば、分かる」
「何をするつもりなんでしょう」
「俺にも、分からん」
ハーゲンは、拳を握りしめた。
エレノアの声が、耳の奥で蘇った。
信じなさい。
「…………見届けるぞ」
「隊長?」
「全員、負傷者の収容を急げ。ただし、目は、あの連中から離すな」
「はっ」
ハーゲンは、遠くの小さな背中を、じっと見つめた。
巨人との距離が、みるみる縮まっていく。
200メートル。
150メートル。
巨人の足音が、地面を揺らす。
アレクは、立ち止まった。
脚立を肩から下ろし、地面に突き立てる。
そして、巨人を見上げて、いつもの、気だるい声で言った。
「おい」
風が、ぴたりと止まった気がした。
「道路使用許可、取ってねえだろ」
巨人の動きが、止まった。
「不法占拠だぞ」
赤い目が、アレクを捉えた。
20メートル上空から、じっと見下ろしている。
麦畑が、しん、と静まり返った。
兵士たちが、息を呑む音まで、聞こえそうだった。
数秒の沈黙のあと、巨人の右腕が、ゆっくりと持ち上がった。
『――警告ヲ、無視。排除ヲ、開始スル』
石の拳が、夕焼けの空を覆っていく。




