第020話:大地の激震と赤い警報
午後4時35分。
事務所の窓から、傾き始めた陽が、細長い光の帯を床に落としていた。
アレクは、机に向かって、点検表の清書をしていた。ペン先が紙を走る音。ケトルの湯が、ことことと小さく鳴る音。窓の外から、冒険者たちの遠い話し声が聞こえてくる。
向かいの席では、シエルが、同じように書類に向かっていた。ピンクのツナギの袖を肘まで折り返し、団子髪のほつれた一筋を、ときどき耳にかけ直している。その隣の小さな机には、リリアナが、救護用の包帯や薬瓶を整頓していた。ベールの上のヘルメットは、もう、すっかり馴染んでいる。
机の上では、ポチが、ペン先から落ちたインクの染みを、体の端でちまちまと拭き取っていた。
そして、窓辺の棚の上には、クロが、腕を組んで座っていた。
「主任、そのインク壺、蓋を閉めな。揮発しちまう」
「ああ」
「新米エルフ、書類は、右上から埋めろ。左から書くと、手が汚れる」
「は、はい」
「シスター、棚の包帯は、サイズ順に並べな。緊急時に探す手間が省ける」
「はい、クロさん♪」
事務所の中は、すっかり賑やかになった。
アレクは、そんな光景を横目に、ふと思った。
つい二週間前までは、ここは、一人きりの、静かな小屋だった。
悪くない、と思っている自分に気づいて、少しだけ、眉をひそめた。
そのときだった。
机の隅に置いた、小さな真鍮の器具が、かたり、と動いた。
携帯地震計だ。
アレクは、ペンを止めた。
針が、ゆっくりと、振れている。
先日、ベンチで見たときよりも、はっきりと。
「……ん」
彼は、地震計を、手に取った。
針は、左へ、右へ、ゆっくりと往復している。
周期は、およそ3秒。振幅は、徐々に大きくなっていた。
「どうされました、主任」
シエルが、顔を上げた。
「地震計が、反応してる」
「遠くの工事では?」
「いや。これは、工事の揺れじゃない」
アレクは、地震計の針を、じっと睨んだ。
壁の時計が、かち、かち、と鳴る。
針の振れ幅が、ぐん、と大きくなった。
「ポチ」
「ぷる?」
「机から降りろ。床に」
ポチは、不思議そうに首を傾げたが、言われた通り、ぴょんと床に降りた。
その直後。
ごご。
低い音が、足元から響いた。
最初は、ほんの、微かな揺れだった。
机の上のペンが、かたかたと転がる。ケトルの蓋が、カチャカチャと鳴る。
しかし、それは、見る間に大きくなった。
ごごごご。
窓ガラスが、ぶるぶると震えた。棚の上の薬瓶が、次々と倒れて転がる。壁にかけた図面が、はらりと床に落ちた。
「きゃっ!」
「机の下へ!」
アレクの怒声が、事務所に響いた。
シエルとリリアナが、慌てて机の下に潜り込む。ポチが、床を滑るように逃げて、アレクのヘルメットの下に飛び込んだ。クロが、棚から飛び立って、アレクの肩にしがみついた。
揺れが、最高潮に達した。
天井のランプが、激しく揺れ、ぎしぎしと軋む。壁が、うなるような音を立てた。しかし、事務所は、倒れなかった。アレクが、数日前に補強した柱が、ぴくりとも動かずに、屋根を支えている。
10秒。
20秒。
やがて、揺れは、少しずつ、収まっていった。
最後に、床が、ずん、と一度だけ大きく沈み込んで、静寂が戻った。
事務所の中に、舞い上がった埃が、きらきらと漂っている。
倒れた薬瓶の一つが、からからと床を転がって、アレクの安全靴にこつんと当たって止まった。ハーブの匂いが、ほのかに立ちのぼる。
「…………」
「…………」
誰も、しばらく、口を開かなかった。
最初に声を出したのは、肩にしがみついたままのクロだった。
「おい主任。いつまで、俺を掴んでやがる」
「掴んでるのは、お前の方だ」
「…………そうだったな」
クロは、爪を離して、気まずそうに咳払いをした。
「…………」
「…………」
「…………収まりました、か」
シエルが、おそるおそる、机の下から顔を出した。
眼鏡が、斜めにずれている。髪が、半分ほどけている。
リリアナも、這い出してきた。ヘルメットが、少し傾いていた。
「怪我は」
「ありません」
「わたしも、大丈夫です」
「そうか」
アレクは、立ち上がって、ツナギの埃を払った。
窓の外を見る。
王都の空は、夕焼けに染まり始めていた。遠くの鐘楼が、かすかに揺れている。通りに出た人々が、不安そうに、空を見上げていた。
しかし、街に大きな被害は、なさそうだった。
「震源は、遠い。王都は、揺れの端だ」
「では、どこで」
「北だ」
アレクは、地震計を、じっと見つめた。
針が、まだ、微かに震えている。
「それも、かなり深い」
そのとき、ヘルメットの下から、ポチが、ぴょこんと顔を出した。
ぷるぷると、小刻みに震えている。いつもの嬉しそうな震えではない。恐怖に怯える、小さな震えだった。
「ポチ、どうした」
「ぷる、ぷるる……」
クロが、アレクの肩の上で、目を細めた。
橙色の目が、窓の外の、北の空を、じっと見据えている。
「…………主任」
「何だ」
「今の揺れ。ただの地震じゃねえな」
「ああ」
「俺ぁ、この揺れに、覚えがある」
クロの声が、低く沈んだ。
「300年前、現場で、一度だけ感じた」
「何の揺れだ」
「…………北の、巨人の間だ」
アレクの眉が、ぴくりと動いた。
「巨人の、間」
「封印が、解けたんだ」
クロは、翼を、ぎゅっと握りしめた。
「俺ぁ、あそこの工事に、出てた。だから、覚えてる。あの揺れは、封印ボルトが、引っこ抜かれたときの震えだ!」
「ボルト」
「4本の、でけえボルトだ! あれが全部抜けたら、中の奴が起きちまう!」
クロの声が、悲鳴に近くなった。
「誰だ! どこのどいつが、あんなもんを抜きやがった!」
事務所の中が、しんと静まり返った。
シエルが、ごくりと唾を飲み込んだ。
「主任。巨人の間とは、何ですか」
「北の山中にある、立入禁止の遺跡だ。管理局の記録に載ってるはずだ」
「確か、古代の防衛施設、と」
「ああ」
アレクは、地震計を、ポーチに戻した。
机の上の、広げたままの図面を、くるくると丸める。
そのとき、壁の通信石が、ちりりりりん、と、けたたましい音を立てた。
水晶が、真っ赤に点滅している。
アレクが、受話の石に触れた。
『アレクちゃん!』
エレノアの声だった。
いつもの甘い響きは、跡形もなかった。切迫した、硬い声だった。
『北の巨人遺跡で、異常が発生したわ! 山の見張り台から、緊急報告が入ったの!』
「何が起きた」
『遺跡の天井を突き破って、何かが出てきたそうよ! 全高20メートルを超える、石の巨人! 古代の防衛兵器!』
事務所の中の全員が、息を呑んだ。
『しかも、真っ直ぐ、王都に向かって、進み始めているの!』
「…………」
『今、ギルドの迎撃部隊に、緊急招集をかけているわ。でも、物理も魔法も効かないという報告が。このままでは、王都の外壁が』
「分かった」
アレクは、静かに、遮った。
「現場に、向かう」
『アレクちゃん?』
「迎撃部隊より先に着く。足止めの準備をしておいてくれ」
『足止め? どうやって』
「勇者が、また、やらかした」
アレクは、淡々と、言った。
「直すのは、俺の仕事だ」
通信が、切れた。
沈黙が、数秒、続いた。
アレクは、ツナギのジッパーを、喉元までぐいと引き上げた。
ヘルメットのあごひもを、締め直す。
腰の工具ベルトを、確かめる。魔法メジャー。左官ゴテ。魔導インパクトレンチ。バール。
「主任」
シエルが、立ち上がった。
眼鏡のずれを直し、ピンクのツナギの袖を、きゅっと折り返す。碧い瞳が、まっすぐにアレクを見つめていた。
「同行します」
「わたしも、参ります」
リリアナが、救護用の鞄を肩にかけた。
ポチが、ぷるっ、と力強く跳ねた。
クロが、ばさり、と翼を広げた。
「おうよ。300年前の借りを、返してやらあ」
アレクは、四人の顔を、順番に見た。
そして、小さく、ため息をついた。
「……定時前だぞ」
ぼそり、と呟く。
「残業代は、倍請求だな」
事務所の戸が、勢いよく開け放たれた。
夕焼けの赤い光が、四つと一匹の影を、長く伸ばした。




