第018話:毒舌現場ガーゴイル・クロの配属
地下3階の点検は、午前中いっぱいかかった。
排水管の継ぎ目を1本ずつ確かめ、圧力計の数値を点検表に書き込み、緩んだボルトを締め直す。ひと区画を終えるたびに、アレクは養生テープで印をつけていった。黄色と黒の縞模様が、通路の壁に、几帳面に並んでいく。
午後1時。昼食の乾パンと干し肉を、通路の端に腰を下ろして食べた。
リリアナが、持参した小さな水筒から、全員に温かいハーブティーを注いでくれる。カモミールと蜂蜜の香りが、湿った空気の中にふわりと広がった。
「どうぞ、アレク主任」
「ああ」
「シエルさんも」
「ありがとうございます。……おいしい」
シエルは、カップを両手で包んで、ほっと息をついた。口調が少しだけ柔らかくなっている。ポチが、カップの縁に張りついて、湯気をじっと見上げていた。
アレクは、ハーブティーを一口飲んで、通路の奥に目をやった。
この区画の最奥には、古い鉄の扉がある。設計図には、「資材倉庫」と記されていた。錆びついて、長年開けられた形跡がない。
「食い終わったら、あそこを見る」
「資材倉庫ですか」
「放っておくと、ここの湿気が溜まる。換気口の詰まりを確認したい」
「承知しました」
10分後。
アレクは、鉄の扉の前に立った。
扉の表面は、赤茶色の錆に覆われている。ハンドルは完全に固着し、ちょっとやそっとでは回りそうにない。彼は、背負い袋から、浸透油の缶と刷毛を取り出した。
「サビ取りだ。時間がかかる」
「お手伝いします」
シエルが、刷毛を受け取って、ハンドルの根元に丁寧に油を塗り込んでいく。琥珀色の油が、錆の隙間にじわじわと染み込んだ。
10分ほど待ってから、アレクが、バールをハンドルにかませた。
「せーの」
ぎい、と鈍い音を立てて、ハンドルが動いた。
扉が、重々しく軋みながら、奥へと開いていく。
むわり、と冷たく乾いた空気が流れ出した。
倉庫の中は、薄暗かった。
ヘルメットのライトを向けると、棚に並んだ木箱、錆びた工具、巻かれたロープ、積み上がった金属板が、埃をかぶって浮かび上がる。天井は低く、湿気は少ない。数100年も放置されていたにしては、保存状態がいい。
「資材庫と同じ造りだな。ゴブリンの巣穴にあったやつと」
「同じ設計者でしょうか」
「たぶん」
アレクは、棚の間を、慎重に歩き始めた。
棚の下段に、小さな木箱がいくつも並んでいる。そのうちの一つを開けると、中には、手のひらサイズの石像が、いくつも収められていた。
鳥のような翼。尖った耳。しかめ面。
ガーゴイルの置物だった。
「これは、飾りでしょうか」
リリアナが、覗き込んで、首を傾げた。
「いや。たぶん、装飾じゃない」
アレクは、石像の一つを持ち上げた。ずしりと重い。黒曜石を磨いたような、艶のある黒だった。翼の根元の関節に、わずかな継ぎ目が走っている。
「作業用の補助人形だ。昔の迷宮施工では、こういうのが現場にいた」
「補助人形、ですか」
「測量や、危険の検知をする。魔力を通すと、動く」
彼は、石像を、掌に載せた。
翼の関節が、錆びついて、がっちりと固まっている。長年の湿気で、動かなくなったのだろう。
「…………」
アレクは、背負い袋から、小さな缶を取り出した。
蓋を開けると、淡い金色の油が、とろりと光る。
「魔力オイルだ。関節の潤滑用」
「その油は、貴重なものでは」
「師匠から貰った、最後の一缶だ」
淡々と答えて、アレクは、刷毛を使って、翼の根元に油を差した。
一滴。
二滴。
魔力を帯びた金色の油が、石の継ぎ目に染み込んでいく。石像の表面が、ほのかに温かくなった。ポチが、肩の上から身を乗り出して、熱心に見つめている。
10秒。
20秒。
ぴきり、と、小さな音がした。
石像の翼が、ぴくっと動いた。
続いて、つり上がった大きな目が、ぱちりと開いた。
黒曜石の瞳に、橙色の光が灯った。
「…………」
石像が、ゆっくりと、首を左右に回した。
かちり、かちり、と関節の音が響く。
そして、アレクの顔を、じっと見上げた。
次の瞬間、口が、がばっと開いた。
「おいコラァ! 新米のエルフ!」
倉庫に、野太い怒鳴り声が響き渡った。
全員が、固まった。
手のひらサイズの黒いガーゴイルが、アレクの掌の上で、翼をばたばたとはためかせながら、シエルを睨みつけていた。
「さっきからなぁ、見てりゃあ、足場の番線が緩んでんぞ! あんなもんで、高所作業ができると思ってんのか! 落ちて首の骨折る気か、この鉄砲玉!」
「え、あ、え?」
「そこの角の脚立だ! 番線の締めが、一回りも足りねえ! 俺ぁ、300年、現場に立ってんだ! 見りゃあ分かんだよ!」
「さ、300年……」
「おう、ぼやっとしてねえで、直せ! 今すぐだ!」
シエルは、目を白黒させたまま、くるりと後ろを振り返った。
通路の入口に、作業用の脚立が立てかけてある。そのいちばん上の段に、ワイヤの束が巻かれている。確かに、結び目が、少し緩んでいる。
彼女は、慌てて駆け寄り、結び目を締め直した。
きゅっ、と、堅い音が響いた。
「……す、すみません」
「分かりゃあいいんだ。次から、気をつけな」
ガーゴイルは、ふん、と鼻を鳴らして、翼を畳んだ。
倉庫の中が、しばらく、静まり返った。
リリアナが、そっと両手を口に当てて、くすくすと笑い出した。
「まあ、可愛い石像さんですこと」
「可愛いとは何だ、このシスター! 俺ぁ、立派な現場監督だぞ!」
「ええ、とても、頼もしいです」
「おう、分かってんじゃねえか」
ガーゴイルは、少しだけ、胸を張った。
嬉しそうに、翼の先がぴくぴく動いている。
アレクは、掌の上の石像を見下ろした。
「……名前は」
「あ?」
「名前だ。あるのか」
「ねえよ。ここ300年は、ただの置物だったからな」
石像は、むすっとして、そっぽを向いた。
アレクは、少し考えて、言った。
「クロ」
「あ?」
「黒いから。クロ」
「…………安直な名前だな」
「嫌か」
「嫌とは言ってねえ。別に、いいけどよ」
クロは、ぶつぶつと呟いて、翼をぱたぱたと羽ばたかせた。
小さな体が、ふわりと宙に浮かぶ。
そのまま、アレクの肩の上に、ぽん、と降り立った。反対側の肩のポチが、ぷるっ、と震える。二匹は、睨み合うように、顔を見合わせた。
「…………スライムか」
「ぷる」
「喋れねえのか」
「ぷるる」
「ふん。まあ、仲良くしてやってもいいぜ」
「ぷる!」
ポチが、嬉しそうにぴょんと跳ねた。
クロが、ほんの少し照れたように、翼で顔を隠した。
そのときだった。
クロの動きが、ぴたりと止まった。
橙色の目が、天井の一点を、じっと見据える。
「…………主任」
「何だ」
「その天井。右から二番目の梁。亀裂が、入ってやがる」
アレクは、すぐに天井へライトを向けた。
薄暗い天井の梁の継ぎ目に、確かに、髪の毛ほどの細い線が走っている。さっきまで、気づかなかった。
「いつ頃から」
「いや、今、入った。ほんの今だ。音が、したろ」
「音?」
「パキッて、小さい音だ。人間の耳じゃ、聞こえねえかもな」
クロは、翼を広げた。
「3秒後だ。全員、右に飛べ!」
「え?」
「早くしろ! 一、二」
アレクの反応は、速かった。
シエルの腕と、リリアナの肩を、両手で掴んで、右へ飛んだ。
「三!」
ずどん、と鈍い音が響いた。
梁が、真ん中から折れた。
木材と石が、ごごっと崩れ落ちる。さっきまで、三人が立っていた場所に、瓦礫の山ができた。濛々と、白い埃が舞い上がる。
ポチが、アレクのヘルメットの下に、ぴたりと潜り込んだ。
しばらくして、埃が、静かに晴れていった。
「…………」
床に倒れ込んだまま、シエルが、目を丸くして、瓦礫の山を見つめた。
「主任……」
「ああ」
「もし、動かなければ……」
「頭が、潰れてた」
アレクは、身を起こして、肩の上のガーゴイルに視線を向けた。
クロは、ふん、と鼻を鳴らした。
「当たり前だ。俺ぁ、300年、迷宮の崩落を見てきた現場監督だぞ」
「助かった」
「礼なんざ、いらねえよ」
「それでも、助かった」
アレクの声は、静かだった。
クロは、一瞬、言葉に詰まった。
それから、ぷいと顔を背けた。
「…………まあ、悪い気は、しねえな」
その耳の先が、ほんのりと赤みを帯びていた。
石像に血は通っていないはずなのに、どういうわけか、そう見えた。
リリアナが、そっとクロの頭を撫でた。
「ありがとうございます、クロさん。命の恩人です」
「お、おう。やめろ、くすぐってえ」
「ふふっ」
シエルが、起き上がって、スーツの代わりのツナギの埃を払った。
「あの、クロさん。私も、お礼を言わせてください」
「新米のエルフ」
「はい」
「さっきの結び目、まあまあの出来だったな」
「え」
「次は、もう半周、締めろ」
「は、はい!」
シエルは、背筋を伸ばして、敬礼した。
クロは、満足げに、翼を揺らした。
倉庫の整理を終えたのは、夕方近くだった。
木箱の中のガーゴイルは、他にも数体あったが、いずれも魔力が尽きて、完全に眠っていた。アレクは、それらを丁寧に箱に戻し、倉庫の棚に再び収めた。
クロだけが、アレクの肩の上に、ちょこんと留まっている。
「ひとつ、聞いていいか」
帰り道、アレクが尋ねた。
「何だ」
「さっきの魔力オイル。お前は、気づいてたか」
「あ? ああ、関節に差した油か」
「ああ」
「…………妙な匂いだったな」
クロは、首を傾げた。
「どっかで、嗅いだことがあんだよな。あの油の匂い。もう、ずいぶん前だが」
「前、とは」
「さあな。300年も寝てりゃ、記憶なんざ曖昧だ。ただ、懐かしい匂いだった」
クロは、しばらく考え込んでいた。
それから、ふっと首を振った。
「…………思い出せねえ。まあ、いいや。主任、帰ったら飯だ。腹が減った」
「石像が、腹が減るのか」
「気分の問題だ!」
アレクは、小さく笑って、足を速めた。
肩の上の二匹が、ぷるぷると、ばたばたと、賑やかに揺れた。
後ろから、シエルとリリアナが、並んで歩いてくる。
通路の壁に貼られた、黄色と黒の養生テープが、夕方のライトに、ちらちらと光っていた。




