第017話:現場救護室長の誕生
翌朝8時20分。
アレクが事務所の戸を開けると、先客が二人、机の前に立っていた。
一人は、ピンクのツナギ姿のシエル。もう一人は、白と薄緑のシスター服をまとった、亜麻色の髪の女性だった。足元には、小さな革のトランクと、きちんと畳まれた毛布。
二人は、互いに笑顔を向け合っていた。
ただし、シエルの笑顔は、口元だけが固く引きつっている。
「おはようございます、主任」
「おはようございます。あの、アレクさんで、いらっしゃいますか?」
シスター服の女性が、ふわりと微笑んだ。
おっとりと垂れた目尻。柔らかく波打つ髪。胸元の豊かな曲線が、清楚な白い布の下で、はっきりと存在を主張している。
アレクは、とっさに視線を天井の梁へ飛ばした。
「……誰だ」
「リリアナと申します。昨日まで、勇者エドワード様のパーティで、聖女をしておりました」
「は」
「主任、こちらの方が、早朝からお待ちでして」
シエルの声が、わずかに上ずっている。
リリアナは、深々と頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします。実は、お願いがあって、参りました」
「お願い」
「はい。こちらで、働かせていただけませんか」
事務所の中が、しん、と静まり返った。
ケトルの湯が、小さく鳴いた。
「…………はい?」
「現場の救護班、というお仕事は、ありますでしょうか。なければ、掃除でも、お茶汲みでも、構いません」
リリアナは、頭を下げたまま、続けた。
「わたし、もう、勇者様の元には戻りたくないのです。でも、せっかくの癒しの力を、無駄にしたくはなくて。昨日、酒場で、こちらのお噂を聞きまして」
「噂」
「ツナギの方が、新人さんを助けたと」
「…………」
アレクの視線が、ゆっくりと、隣のシエルに移った。
シエルは、慌てて両手を振った。
「わ、私は、何も言っていません! 事情は、先ほど、本人から聞いたばかりで」
「それは、いいが」
「ですが、主任! 勇者パーティの、最高位聖女様ですよ! その方が、こんな埃っぽい事務所に、なぜ!」
「こんな、は余計だ」
アレクは、頭を掻いた。
「聖女の、リリアナ。確か、教会の最高位認定の」
「はい。ご存じなのですね」
「ギルドの人事名簿で見た。治癒と浄化、両方の最高位を持ってる」
「恐れ入ります」
「それほどの人材が、なぜ、勇者を辞めた」
リリアナは、顔を上げた。
おっとりした笑顔のまま、小首を傾げる。
「エドワード様ですか?」
「ああ」
「あの人、借金しか作らないゴミなので、解雇しました♡」
事務所の空気が、凍りついた。
シエルが、ぴきん、と固まった。
ポチが、机の上で、ぷるっ、と一度だけ震えた。
アレクは、無言のまま、リリアナの顔を見つめた。
笑顔だった。春の日だまりのような、穏やかな笑顔だった。
そして、一片の曇りもなかった。
「…………解雇」
「はい。昨夜のうちに、きっぱりと」
「そうか」
「ご迷惑でしょうか」
「いや。……事情は、分かった」
アレクは、ケトルの火を止めた。
ひとまず、試験を兼ねて、現場に同行してもらうことにした。
今日の予定は、地下3階の配管点検だった。昨日、シエルが手帳に書き込んだ通りだ。
事務所の戸棚から、黄色いヘルメットを一つ取り出す。リリアナは、それを両手で受け取って、嬉しそうに眺めた。
「まあ、可愛い色」
「落石から頭を守る。被れ」
「はい」
彼女は、シスターのベールの上から、ヘルメットを載せた。
白い清楚な布の上に、鮮やかな黄色。
奇妙な組み合わせのはずなのに、どういうわけか、よく似合った。
「あの、似合っていますか?」
「安全基準は、満たしてる」
「それは、よかったです」
リリアナは、頬を染めて笑った。
その横で、シエルが、小さく咳払いをした。
「あの、リリアナさん。地下の足元は、悪いです。そのシスターのお靴では、危険かと」
「あ、そうですね。これは、教会指定の布靴で」
「安全靴を、お貸しします」
「ありがとうございます、シエルさん。親切にしてくださって」
「いえ、これも、現場の規定ですので」
二人は、にこやかに、微笑み合った。
なぜか、室内の温度が、ほんの少し下がった気がした。
アレクは、ケトルのコーヒーを淹れながら、二人の背中に視線をやらないよう努めた。
地下3階は、湿った空気に満ちていた。
壁は黒く、床は水に濡れて光っている。天井から垂れるパイプが、あちこちで錆びついていた。先日の勇者の爆発から、まだ一週間も経っていない。揺れで緩んだ継ぎ目が、ぽたぽたと水を滴らせている。
シエルは、すっかり慣れた様子で、点検表を片手に歩いていた。
ポチが、その肩の上で、きょろきょろと壁を見回している。リリアナは、少し緊張した面持ちで、二人の後ろをついてきていた。
「ここが、昨日の排水管と同じ系統の、第二区画です」
「ああ。まず、圧力計を見る」
アレクは、壁に取り付けられた、古い圧力計に近づいた。
針が、緑の領域の、ぎりぎりの位置で震えている。
「異常はないが、ぎりぎりだな。早めに、バルブを調整しておく」
彼は、手慣れた様子で、バルブを回し始めた。
リリアナが、後ろから、興味深そうに覗き込んだ。
「あの、アレクさん。そのバルブは、何のために」
「圧力を逃がす。溜まると、破裂する」
「破裂……」
「先日、地下2階で、一度やられた」
「まあ。それは、大変でしたね」
彼女が、そう言いかけた、その時だった。
リリアナの顔が、ふっと曇った。
鼻が、わずかにひくひくと動く。
「……アレクさん」
「何だ」
「何か、においませんか」
「におい?」
アレクは、鼻を利かせた。
湿った石の匂い。錆びた鉄の匂い。それ以外には。
わずかに、甘い匂いが混じっている。
腐った果物のような、鼻の奥に引っかかる、微かな甘ったるさ。
「…………」
アレクの表情が、険しくなった。
「全員、口を覆え」
「えっ」
「ガスだ。シエル、風で空気を流せ」
「は、はい!」
シエルが、杖を構えた。
リリアナは、前に進み出た。
「アレクさん、わたしがやります」
「できるのか」
「浄化なら、得意です」
彼女は、胸の前で両手を組み、静かに目を閉じた。
唇が、聞き取れないほどの小さな声で、祈りの言葉を紡ぎ始める。
ふわり、と空気が変わった。
リリアナの体から、淡い、白金色の光が、静かに溢れ出した。光は、ゆっくりと広がり、通路全体を包み込んでいく。湿った石の匂いが、すうっと澄んだ。あの甘ったるい不快な匂いが、光に触れた端から、きれいに消えていく。
ポチが、ぷるぷると嬉しそうに震えた。
壁の隅から、ゆらりと立ちのぼっていた、うっすらと紫がかった霞が、光に溶けるように消えていった。
「……毒ガスか」
アレクが、小さく呟いた。
「配管の継ぎ目から、地下の瘴気が漏れ出してた。少量だったから、まだ、気づかなかった」
「濃度が上がっていたら、危なかったですね」
シエルが、青ざめた顔で言った。
光が、ゆっくりと収まっていく。
リリアナが、目を開けた。
額に、薄く汗が浮かんでいる。それでも、変わらない、おっとりとした笑顔だった。
「終わりました。もう、大丈夫です」
「…………」
アレクは、数秒、彼女を見つめた。
それから、ヘルメットのつばを、軽く持ち上げた。
「採用だ」
「え?」
「現場に、救護班は必須だ。安全第一だからな」
「ほ、本当ですか!」
「ただし」
アレクは、人差し指を立てた。
「ヘルメットは、常に被ること。単独行動は、禁止。定時には、必ず帰ること」
「はい! わたし、守ります!」
リリアナは、胸の前で両手を握りしめた。
目の端に、小さな涙が、きらりと光っている。
「ありがとうございます、アレク主任♡」
その声を聞いた瞬間、アレクの背筋に、ぞくりとした何かが走った。
「主任……?」
「はい。シエルさんが、そうお呼びでしたので」
「…………」
「だめでしょうか」
「…………好きにしろ」
アレクは、くるりと背を向けて、バルブの調整に戻った。
耳の先が、ほんのわずかに、赤くなっていた。
シエルが、その様子を、じっと見ていた。
ポチが、シエルの頬に、ぺたりと貼りついた。励ましているのか、慰めているのか。
「…………ポチ」
「ぷる」
「私は、別に、何とも思っていませんからね」
「ぷるぷる」
シエルは、むっつりと唇を結んで、点検表に猛然と書き込み始めた。
ペン先が、紙を引っかく音が、通路に小さく響いた。




