第016話:愛想を尽かした幼馴染聖女
王都の高級宿「金獅子亭」の最上階には、一泊20万ゴールドのスイートルームがある。
リリアナは、その部屋の窓辺に立って、夕暮れの王都を見下ろしていた。
亜麻色の髪が、窓から入る風にふわりと揺れる。ゆるく波打った毛先が、白いシスター服の肩にかかっていた。おっとりと垂れた目尻の奥には、いつもなら春の日だまりのような光がある。けれど、今日の瞳は、少しだけ冷えていた。
背後では、勇者エドワードが、椅子に座ったまま、さっきから同じ言葉を繰り返している。
「飯はまだか。飯はまだなのか」
部屋の隅の呼び鈴を、もう十回は鳴らしただろう。
しばらくして、扉が静かにノックされた。入ってきたのは、宿の支配人だった。白髪混じりの上品な男が、盆の上に、水差しとグラスだけを載せている。
「お待たせいたしました、エドワード様」
「待ちくたびれたぞ! いつもの、子羊のロースト香草焼きと、赤ワインを持ってこい!」
「申し訳ございません。お食事は、お出しできかねます」
「何だと!?」
「お客様の口座の残高が、ゼロでございまして。当宿の規定により、現金のお支払いがない場合は、お水のみとなっております」
支配人は、にこやかに、しかし微塵も揺るぎなく言った。
エドワードの顔が、さあっと赤くなった。
「オレは勇者だぞ! この宿に、何年泊まってると思ってる!」
「6年と四か月でございます。これまで、大変お世話になりました」
「だったら」
「それと、明朝までに、お部屋をお引き払いいただくよう、お願い申し上げます」
部屋の空気が、ぴしりと凍った。
支配人は、深く一礼して、静かに扉を閉めた。
エドワードは、水差しを睨みつけて、わなわなと震えていた。
「…………くそっ!」
グラスが、壁に投げつけられた。
ぱりん、と澄んだ音が響いた。破片が絨毯に散らばり、水の染みがゆっくりと広がっていく。
リリアナは、窓辺から動かなかった。ただ、割れたグラスの破片を、静かに見つめていた。
あのグラスは、一つ8000ゴールドする。支払いは、おそらく、また誰かが肩代わりすることになる。
「リリアナ! お前、聞いているのか!」
「はい、聞こえています」
「大体、お前が悪いんだ!」
エドワードが、勢いよく立ち上がった。
金色の鎧は、昨日から着たままだ。肩のあたりに、いつの間にか泥の跡がこびりついている。眼窩には隈が浮かび、ひげがうっすらと伸びていた。
「あの日、ボスを倒したとき、オレの魔法が、いつもより強く出ただろう! あれは、お前の祝福が、余計に効いたからだ! お前が祈りすぎたせいで、魔力の制御が乱れて、あの壁が壊れたんだ!」
「…………」
「分かっているのか! お前のせいで、五百万だぞ! オレの3年分の報奨金が!」
リリアナは、ゆっくりと、振り返った。
ふわり、と髪が揺れる。
彼女は、小首を傾げて、おっとりと微笑んだ。
「エドワード様」
「何だ」
「あの日の、魔法の出力は、一万一千だったそうですね」
「……は?」
「ギルドの調査で、分かったそうです。骸骨の騎士の討伐推奨値が三千のところを、一万一千」
「そ、それは」
「わたしの祝福は、攻撃魔法の威力を、最大でも一割ほど押し上げるだけです。三千が、三千三百になる程度。一万一千にはなりません」
エドワードが、口を開けたまま、固まった。
リリアナは、変わらず穏やかな声で続けた。
「つまり、出力を一万一千にしたのは、エドワード様ご自身です」
「…………」
「柱を狙ったのも、エドワード様です」
「…………」
「そして、500万ゴールドを、引き落とされたのも、エドワード様です」
一言ずつ、丁寧に。
まるで、小さな子どもに、噛んで含めるように。
エドワードの喉が、ぐ、と鳴った。
「き、貴様……聖女のくせに、勇者に口答えするのか!」
「聖女は、勇者の持ち物ではありません」
リリアナは、静かに言った。
「わたしは、あなたの幼馴染です」
窓の外では、夕焼けが、ゆっくりと藍色に変わっていく。
王都のあちこちで、灯りがともり始めた。
リリアナは、遠い記憶を思い出していた。
小さな村の、小さな孤児院。
木造の、隙間風の吹き込む古い建物。冬は、毛布を三人で分け合って寝た。夏は、井戸の水で足を冷やした。同い年のエドワードは、その頃から、背が高く、目立つ子だった。
ある日、隣の家の窓ガラスが、割れた。
子どもたちの投げた石が、あたったのだ。誰が投げたのかは、わからなかった。けれど、エドワードは、一人で、その家の戸を叩いた。
『ごめんなさい。オレが、割りました』
本当は、彼ではなかった。
一番年下の子が投げたのを、彼は、知っていた。それでも、自分が謝りに行った。
リリアナは、隣で、彼の背中を見ていた。
夕日の中で、小さな背中が、まっすぐに伸びていた。
『エドが、悪くないのに』
『いいんだ。誰かが、直さなきゃいけないだろ』
エドワードは、そう言って、笑った。
割れた窓ガラスを、翌朝から三週間、毎日、薪割りの手伝いで弁償した。
あの子が、リリアナの、一番の憧れだった。
いつからだろう。
壊したものを、直さなくなったのは。
勇者に選ばれて、称賛されて、人々の歓声に包まれて、いつの間にか、彼は、後ろを振り返らなくなった。壊した街道を。踏み荒らした畑を。崩れた神殿を。
その後始末を、いつも、名前も知らない誰かが、黙って片づけていることに、彼は気づいていない。
リリアナは、小さく息を吐いた。
「エドワード様。覚えていますか」
「何を」
「孤児院の、窓ガラスのことを」
「……窓ガラス?」
「…………」
エドワードは、眉をひそめた。
本当に、覚えていないらしい。
リリアナの胸の奥で、何かが、静かに、ぱきりと音を立てて割れた。
彼女は、微笑んだ。
とても優しく、とても寂しく。
「いいのです」
リリアナは、首にかけていた銀の鎖を、ゆっくりと外した。
鎖の先には、小さな聖印がぶら下がっている。教会が聖女に授ける、純銀の十字。長い年月、彼女の胸元で温められてきたそれは、ほのかに柔らかく光っていた。
彼女は、聖印を、部屋の机の上に、そっと置いた。
かちり、と小さな金属音が響いた。
「な、何をしている」
「エドワード様」
リリアナは、背筋を伸ばした。
「わたしは、本日をもって、勇者パーティを脱退いたします」
「…………は?」
「聖女としてのお役目は、今日までです」
エドワードの顔から、表情が、ごっそりと抜け落ちた。
「何を、言っている」
「あなたについていくのが、心底、恥ずかしくなりました」
言葉は、穏やかだった。
けれど、その奥には、揺るぎない決意があった。
「世界のためと言いながら、街の人や職人さんたちに、迷惑をかけて、それをドヤ顔で誇るあなたを見るのが、もう耐えられません」
「リ、リリアナ」
「直す人の苦労も知らず、壊すことが勇者の仕事だと思っているあなたを、わたしは、これ以上、支えることができません」
「ま、待て」
「失礼いたします」
リリアナは、深々と一礼した。
亜麻色の髪が、肩から滑り落ちる。
顔を上げると、くるりと背を向けて、寝室に向かった。
エドワードは、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
寝室の扉の向こうから、ごそごそと荷造りをする音が聞こえる。しばらくして、リリアナが、小さな革のトランクを提げて出てきた。
トランクの上には、薄手の毛布が一枚、きちんと畳んで載せられている。
「それは」
「わたしの毛布です。この間、自分のお給金で買いました」
「……」
「ご存じなかったでしょうけれど、宿の寝具も、お夕食の差し入れも、実は、わたしが払っておりました。聖女のお給金は、教会から出ますので」
エドワードの顎が、かくん、と落ちた。
「な、何を」
「ですから、もう、お水以外のものは、お出しできません。ごめんなさい」
にっこりと、微笑んだ。
優しい、慈愛に満ちた聖女の笑顔だった。
それが、かえって、恐ろしく見えた。
宿の玄関を出ると、夜風が、頬を撫でた。
王都の通りには、街灯がぽつぽつと灯っている。馬車の車輪が石畳を叩く音。遠くで鳴る夜の鐘。パン屋の焼き窯から、香ばしい匂いが流れてくる。
リリアナは、トランクを提げて、通りを歩き出した。
足取りは、不思議と軽かった。
胸の奥にあった、ずしりと重い石が、ふっと消えたような気分だった。
歩きながら、彼女は、ふと思い出していた。
昨日、酒場の前を通ったとき、耳に入ってきた噂話。
ツナギを着た青年が、新人冒険者の命を救った。壁の亀裂を見ただけで、非常口を見抜いたのだと。黄色いヘルメットを配っていたのだと。
勇者の口座から500万ゴールドを回収し、ギルドの女帝にも一目置かれている。
そして、何より。
『あの人、壊れたものを、全部、元通りに直すんですって』
リリアナは、立ち止まった。
夜空を見上げる。
星が、いくつか、瞬いていた。
「……直す人」
小さく呟いた。
唇に、自然と、微笑みが浮かんだ。
「会ってみたいな」
彼女は、再び、歩き出した。
トランクの上の毛布が、夜風に揺れて、柔らかな布の匂いをふわりと漂わせた。




