第015話:借金勇者と職人の夜明け
王都の職人街には、朝から昼にかけて、金槌の音が絶えない。
煙突から立ちのぼる煤の匂い。鍛冶場の炉で赤く焼けた鉄の匂い。木材を挽く鋸の音に、革を叩く槌の音。細い路地の両側には、小さな工房がぎっしりと軒を連ね、看板が競うように突き出している。
アレクは、その路地を、ツナギ姿で歩いていた。
午後3時。手には、空の背負い袋。隣には、ピンクのツナギのシエル。肩の上のポチは、鍛冶場から漂ってくる鉄の匂いに、鼻のない体をくんくんと傾けている。
「主任、今日は、何を調達されるのですか」
「消耗品の補充だ。左官用の速乾セメントが、残り少ない。それと、サビ止めの浸透油。ボルトの替え」
「それなら、管理局の資材課に申請すれば」
「3日かかる」
「ですが」
「現場では、今日の分が要る」
アレクは、路地の角にある、小さな店の前で足を止めた。
古い木の扉に、「資材商 ドルク」と、ペンキの剥げかけた看板がかかっている。窓の向こうに、ところ狭しと、ロープや金具や缶が積み上がっているのが見えた。
扉を押すと、カラン、と錆びた鈴が鳴った。
「おう、アレクか」
店の奥から、野太い声が響いた。
カウンターの向こうに、樽のような体格の、禿頭の中年男が座っていた。分厚い眉の下の目が、人懐こく細まる。腕は丸太のように太く、エプロンには、油の染みが星座のように散っている。
「ご無沙汰してます、ドルクさん」
「ご無沙汰も何も、先週も来ただろうが。で、今日は何だ」
「速乾セメント、十袋。浸透油、五缶。ボルトの替えは、いつものサイズで」
「はいよ」
店主ドルクが、棚から資材を下ろし始めた。
シエルは、店内を、興味深そうに見回していた。壁には、見慣れない工具がずらりと並んでいる。彼女は、棚の隅で、あの黄色と黒の縞模様のテープの束を見つけて、目を輝かせた。
「あっ! これです、主任! これですよ!」
「ああ、テープか」
「ドルクさん、これは、一巻き、おいくらですか」
「ん? 80ゴールドだ」
「では、全部、買います!」
「全部? 三十巻あるぞ」
「全部です!」
ドルクが、ぽかんと口を開けた。
「お嬢ちゃん、そんなに使うのか」
「研究用です! 管理局の経費で、落とします!」
「ほう、研究か。変わった嬢ちゃんだな」
ドルクは、アレクに、怪訝な目を向けた。
アレクは、小さく肩をすくめた。
「気にしないでください。ちょっと、盛り上がってるだけで」
「なるほどな。おい、ピンクのお嬢ちゃん」
「は、はい」
「それ、アレクの前の新人が着てたツナギか」
「え、ご存じなのですか」
「着てたよ。三か月で辞めたが。一番、まじめな子だった」
シエルは、少し驚いて、アレクを見た。
アレクは、視線を逸らした。
「……あの子は、結婚して、実家に帰っただけだ」
「そうなのですか」
「ああ。今も、年賀状が来る」
「それは、よかったです」
シエルは、ほっとしたように微笑んだ。
ドルクが、二人を見比べて、にやりと笑った。
「アレク。いい相棒、見つけたな」
「ただの、監査官です」
「ほう」
ドルクの笑みが、さらに深くなった。
シエルは、耳まで赤くして、テープの束を抱え込んだ。
会計を済ませて、店を出た。
背負い袋は、すっかり重くなっていた。両手にも、資材の袋を提げている。シエルが抱えた三十巻のテープの束は、彼女の顔が見えなくなるほどの高さだった。
「主任、前が見えません」
「半分持つ」
「いえ、大丈夫です! これは、私の発見ですので!」
「お前の頭が、テープの山に埋まってる」
「大丈夫です!」
ポチが、テープの山のてっぺんに乗って、バランスを取っていた。
路地を戻る途中、隣の鍛冶屋の前を通りかかった。
店の入口には、「ガルド武具店」の看板。炉の火が赤々と燃え、中から、槌を打つ音が響いてくる。
その入口の前で、誰かが、しゃがみ込んでいた。
金色の鎧が、夕方の光を鈍く反射している。
「…………」
アレクは、足を止めた。
勇者エドワードだった。
マントは汚れ、鎧には、いくつも傷が走っている。手には、刃こぼれした聖剣を握りしめ、その剣先を、じっと見つめていた。
彼の前に、小さな体躯の、髭面の職人が立っていた。ドワーフの鍛冶屋だった。腕を組み、険しい顔で、エドワードを見下ろしている。
「だから、何度言わせる。ツケは、きかん」
「頼む! この剣を直してくれれば、報奨金が入ったら、倍にして払う!」
「その言葉、先月も聞いた」
「今回は、本当だ!」
「お前さんの口座は、ゼロだと聞いとるぞ」
エドワードの肩が、びくりと震えた。
ドワーフは、鼻を鳴らした。
「うちは、現金払いが基本だ。刃こぼれの修理は、8万ゴールド。ないなら、帰れ」
「八万……」
「持ってないのか」
「…………」
エドワードは、何も言わなかった。
ただ、唇を、きつく噛みしめていた。
ドワーフは、ふんと鼻を鳴らして、店の中に戻っていった。
取り残されたエドワードは、しばらく、そのまま動かなかった。
やがて、のろのろと立ち上がり、剣を鞘に戻した。
そのとき、彼の視線が、路地の向こうに立つ、三人に気づいた。
目が、合った。
アレクは、無言で、彼を見つめた。
シエルが、テープの山の陰から、おそるおそる顔を出した。
ポチが、ぷるっと小さく震えた。
エドワードは、一瞬、何かを言いかけた。
口が動き、閉じ、また、開こうとして。
「…………見るな」
絞り出すような声だった。
それから、彼は、くるりと背を向けて、足早に、路地の奥へ消えていった。
その背中は、昨日までの金色の輝きを、すっかり失っていた。
シエルが、小さく、息を吐いた。
「……少し、可哀想になってしまいます」
「同情するな」
「分かっています。でも」
「あいつは、自分で選んだ。壊すことを」
アレクの声は、静かだった。
「ただ、直す道も、まだ、残ってる」
「主任」
「俺は、強制はしない。本人が、気づくかどうかだ」
シエルは、じっとアレクを見上げた。
それから、微笑んで、頷いた。
「はい」
夕暮れの王都は、茜色に染まっていた。
ギルド連盟本部の白い塔が、斜めの陽光を受けて、薔薇色に輝いている。広場の噴水の水しぶきが、金色の粒になって、夕空に弾けた。仕事を終えた人々が、家路を急いでいる。屋台の灯りが、一つ、また一つと、灯り始めた。
アレクたちは、広場の端のベンチに、荷物を下ろした。
肩が、ずしりと痛い。
シエルが、ようやくテープの山から顔を出して、大きく息をついた。
「ふう。重かったです」
「だから、半分持つと言った」
「でも、主任。今日、私、一つ決めました」
「何を」
「明日の予定です」
シエルは、手帳を取り出して、ぱらぱらとめくった。
夕日に照らされた、きりっとした横顔。団子に結んだ髪が、風に揺れている。
「明日は、地下3階の配管点検ですね。昨日の排水管と同じ系統の、第二、第三区画を」
「ああ」
「資材は、揃いました。点検表も、準備済みです。ヘルメットも、新しい予備を、新人の皆さんの分まで、手配しました」
「早いな」
「当然です。私は、主任の現場代理人ですので」
「いつから、そうなった」
「今から、です」
シエルは、にっこりと笑った。
眼鏡の奥の碧い瞳が、夕日を反射して、きらきらと光っている。
アレクは、少しだけ、目を細めた。
ポチが、ベンチの背もたれの上で、ぴょんぴょんと跳ねている。
そのとき、アレクの腰のポーチから、小さな「カチッ」という音が響いた。
彼は、ポーチから、小さな真鍮の器具を取り出した。手のひらサイズの携帯地震計。針が、ほんの一瞬だけ、ぴくりと動いて、すぐに元に戻った。
「…………」
「主任、どうされました?」
「いや。たぶん、遠くの工事だろう」
彼は、地震計を、ポーチに戻した。
懐中時計を取り出す。
蓋を開け、針の位置を確かめる。
17時、ジャスト。
「よし」
アレクは、ベンチから立ち上がった。
「定時退社だ」
「はい!」
「ポチ、ビール、行くぞ」
「ぷるぷるっ!」
ポチが、歓喜の声を上げて、アレクの頭の上に飛び乗った。
ヘルメットの上のカップと、本体のカップが、かちんと触れ合って、小さな音を立てた。
「ちょ、おい、重い」
「ぷる!」
「降りろ」
「ぷるぷる!」
「聞いてないな」
シエルが、堪えきれずに吹き出した。
「ふ、ふふっ、主任、似合ってますよ」
「何がだ」
「頭の上のスライムです」
「…………」
アレクは、ため息をついて、ポチを頭に載せたまま、歩き出した。
荷物を担いだシエルが、慌てて追いかける。
「あ、待ってください、主任! 私も、ビールを!」
「お前は、果実水だろ」
「今日は、ビールにします! テープの大発見の、お祝いです!」
「二杯までだぞ」
「承知しました!」
夕焼けの広場に、三つの影が、長く伸びていた。
ヘルメットの黄色。ピンクのツナギ。ポチの、小さなカップ。
賑やかな酒場の灯りが、その先に、温かく揺れている。
遠くの鐘楼が、五つ、鐘を鳴らした。
王都の夕べが、静かに、更けていった。




