第151話:エドワードの水中足場:水流に負けない浮力相殺トラス
建設現場において、「足場」とは単なる作業用の踏み板ではない。
それは職人たちの命を支える大地であり、高所における唯一の拠り所である。足場が10ミリ揺れれば、職人の手元は1ミリ狂い、やがて構造物全体の歪みとなって致命的な欠陥を生む。
ましてや、ここは水深100メートルの深海に沈む古代神殿である。
「――うわあぁぁぁっ!? 足場板が、足場板が浮き上がっちまうぞォォッ!!」
神殿の第二回廊で、鳶見習いの作業員が悲鳴を上げた。
3000万トンの排水に成功したとはいえ、海底神殿は完全な密閉空間ではない。亀裂や通水管、瓦礫の隙間から、容赦なく残余の海水と激しい海底地下水が滝のように噴き出し、回廊を膝下ほどの濁流となって猛烈な勢いで駆け抜けていた。
その水流に巻き込まれ、組み上げかけた通常の鋼製布板(足場の床板)が、浮力と水流抵抗によってプカプカと浮き上がり、ドミノ倒しのように外れて流されそうになっていたのだ。
「馬鹿野郎ッ! 手を離すな、安全帯のフックを躯体のアイボルトに掛けろッ!」
怒号とともに濁流を蹴立てて現れたのは、元・Sランク勇者パーティ筆頭戦士、いまや『現場の鬼軍曹』として名を馳せるエドワードであった。
水流で浮き上がりかけた重量50キロの足場単管パイプを、エドワードは片手で軽々と鷲掴みにして力づくでねじ伏せると、腰の工具ホルダーから抜いたチタン製シノ付きラチェットレンチを電光石火の速さで回転させた。
ガガガガッ! キィィィンッ!
一瞬で直交クランプが規定トルク四十ニュートンメートルで締め上げられ、暴れるパイプが主柱の仮受けサポートへとガッチリと固定された。
「ひ、ヒィ……助かった……! ありがとうございます、エドワード親方……!」
「怪我はないか!? 足元ヨシ、フックヨシだな! ……だが、礼を言ってる場合じゃねえぞ。通常の陸上用足場をそのまま組んだらどうなるか、アレク師匠の講義を忘れたのか!」
エドワードがヘルメットの庇を跳ね上げ、濁流を睨みつけた。
「水深100メートルの環境下では、真水よりも重い海水が秒速3メートルの流速で吹き抜けてるんだ。水は空気の約八百倍の密度を持つ! つまり、陸上の風速換算なら風速70メートル以上の猛烈な超巨大台風の中に足場を組んでるのと同じなんだよ!」
「風速70メートル……ッ!?」
作業員たちが青ざめる。
通常の足場板のような平らな板を並べれば、巨大な帆となって水流の抗力をまともに受けてしまう。さらに、木製板はもちろん、中空の鋼製布板であっても水中で浮力が発生し、自重による安定性が完全に失われてしまうのだ。
「じゃ、じゃあどうすりゃいいんだ……!? 高さ20メートルの神殿天井のハツリとモルタル補修をするには、足場が絶対に必要なのに……!」
「フッ……そこで、この俺が考案した新工法の出番ッスよ」
エドワードが不敵に口端を吊り上げ、作業服の胸ポケットから一枚の青焼き図面を広げた。
図面には、緻密な計算式と流体力学のベクトル図が、エドワード自身の骨太な筆跡でびっしりと書き込まれていた。
「名付けて――【浮力相殺型・流水格子トラス足場】ッス!」
「ハイドロ・メッシュトラス……!?」
「そうだ! まず、床板には一切の平板を使わない! 高強度ミスリル鋼を編み込んだ開口率78パーセントの【エキスパンド・メタル(多孔格子網)】を採用する! これなら水流は網目の隙間を素通りし、抗力は通常の板の10分の一以下に激減する!」
エドワードが解説を続ける。
「さらに、足場の単管フレーム自体を、斜材を三角形状に組み合わせた【立体ワーレントラス構造】で組む! 水流の激突を真正面から受け止めず、上下左右に流体を受け流すハイドロダイナミクス設計ッス!」
「な、なるほど……! でも親方、網目を通るとしても、全体の浮力で足場全体がフワリと浮き上がっちまうんじゃ……?」
「甘いぜ。そこは土木と建築のハイブリッドッスよ。――おい、水中アンカー穿孔班! 削岩機を持ってこい!」
エドワードの号令で、浮きドックから運ばれてきた空圧式大型削岩機が運び込まれた。
エドワード自ら削岩機を構え、濁流が渦巻く海底神殿の玄武岩床面へ、垂直にビットを突き立てる。
ガガガガガガガガガッ!!
激しい削孔音とともに岩煙が水中に舞い散り、床面に深さ400ミリ、直径30ミリのアンカーホールが次々と穿たれていく。
そこへ、ルシアが抱えてきたガラスカプセル――耐海水性の特殊エポキシ樹脂と硬化剤を封入した【水中ケミカルアンカー】が装填された。
「ケミカルアンカー装填ヨシ! 異形高張力ボルト、打撃回転挿入ッス!」
ギュルルルルッ!
アンカーボルトが回転しながらカプセルを破砕し、樹脂が岩盤の微細な隙間まで浸透して一体化していく。わずか数分で、硬化熱とともにボルトは母材の玄武岩と同等以上の引抜耐力(1本あたり150キロニュートン=約15トン)を発揮した。
「このアンカーに、足場の脚部ベースプレートを高力ボルトでガチガチに直結する! 床面だけでなく、両側の神殿壁面にも壁つなぎ(タイロッド)を4メートル間隔で千鳥配置! これで浮力も水流の横荷重も、すべて母岩が直接受け止める!」
「す、すげええええっ!!」
作業員たちの目の前で、エドワードの指示のもと、幾何学的な美しさを湛えたトラス足場が組み上がっていく。
濁流が激しく打ち寄せても、足場はピクリとも揺れない。
網目の床板を激流がサラサラと通り抜け、足場の上に立った作業員たちは、まるで硬い大地の上にいるかのような完璧な安定感に包まれていた。
「……ふむ。合格だ」
背後から、腕組みをしたアレクが歩み寄ってきた。
手には水平器とトルクレンチを持っている。
「師匠!」
エドワードがピンと背筋を伸ばした。
アレクは足場の支柱をコンコンと打診し、ベースプレートのアンカーボルトの締め付けトルクを測定器で一つひとつ厳しく確かめていく。
「トラスの節点間隔、許容座屈荷重の計算通り。エキスパンド・メタルの開口率による流体抗力係数Cd値〇・二八以下をクリア。壁つなぎの引張・圧縮耐力も安全率三・〇以上を確保している。……エドワード、腕を上げたな」
「へへっ……! 師匠の毎晩の構造力学テストで、百点取るまで寝かせてもらえなかった成果ッス!」
エドワードが照れくさそうに鼻を擦った。
「だが、一つだけ是正箇所がある」
アレクがピシリと指を差した。
「一番上の作業床の手すりだ。高さ90センチの主手すりはいいが、足元の【幅木】――高さ15センチの巾木が抜けている。水流で工具やボルトが足元から転がり落ちたら、下を歩く作業員の頭に直撃して即死だぞ」
「あっ……! す、すぐにエキスパンド製の巾木を追加でクランプ留めするッス!」
「よし。それが終われば、天井部のハツリ作業足場は完成だ。時計を見ろ、現在16時10分。17時の定時終了まで、あと50分ある」
アレクはヘルメットの時計を指差した。
「巾木の取り付けを16時30分までに完了。残り20分で工具の員数点検と清掃、残材の撤去を行う。危険な深海作業だからこそ、残業で集中力を切らすことは最大の事故要因になる。――今日もきっちり17時ジャストに全員で浮きドックへ引き上げるぞ!」
『オオーッ!!』
濁流の海底神殿に響く、規律ある職人たちの掛け声。
元勇者の怪力と、一流の鳶の誇りが融合したエドワードの足場は、3000万トンの海水の底で、揺るぎない希望の骨格となって聳え立っていた。




