第147話:海風と作業船:10万トン級巨大浮きドックの回航
王都から南へ800キロメートル。
年間を通じて温暖な海風が吹き抜ける、大陸随一の国際港湾都市『エメラルド・ポート』。
白亜の石造りの街並みと、エメラルドグリーンに輝く広大な内海を見下ろす第1号埠頭は、早朝の午前6時00分、かつて港の歴史上誰も見たことのない異様な熱気と金属音に包まれていた。
――ボォォォォォォッ!!
沖合から響き渡る、超弩級汽笛の重低音。
朝靄を切り裂いて湾内へとゆっくりと姿を現したのは、全長300メートル、全幅80メートル、排水量100万トンに及ぶ前代未聞の超巨大作業台船――『原状回復号(旧・海洋防衛要塞ドック)』であった。
船体の中央には、吊り上げ能力1000トンを誇る巨大な旋回式ジブクレーンが2基そびえ立ち、甲板には数100本の足場パイプ、高圧排水ポンプ、大型ケミカルタンク、そしてドワーフ製の削岩重機が、寸分の狂いもなく区画ごとに美しく整列していた。
この日のために、エレノア・ブラッドフィールド副ギルドマスターが、冒険者ギルド連盟の全予備資材と魔王軍の軍港に眠っていた旧式海洋要塞を丸ごと買い取り、一晩で『動く海上現場本部』へと魔改造させた代物であった。
「……うぷっ……! げ、限界だ……! 世界が……回ってやがる……!」
作業台船が埠頭へ接岸するタラップの脇で、二本線ヘルメットの男が欄干にしがみつき、顔面を真っ青にして激しく胃液を吐き出しかけていた。
足場架設総棟梁・エドワードであった。
腰には誇らしげにチタンラチェットと『総棟梁・時給1500ゴールド』の腕章を巻いているが、その逞しい足腰は生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていた。
「だ、誰だ……! 海の上にこんなデカい鉄の板を浮かべようって言い出した奴は……! 地面が……揺れてるじゃねえか……! 足場板が一枚も敷いてねえ海の上なんて、怖くて一歩も歩けねえよォォッ!」
「みっともない声を上げるな、エドワード総棟梁」
甲板から、ピカピカの黄色い安全ヘルメットを被ったアレク・ユグレットが、手入れの行き届いた安全靴でタラップを軽快に踏み鳴らしながら降りてきた。
その胸には、真新しい『海洋土木作業主任者』の赤い腕章が巻かれ、首には防水仕様の双眼鏡が提げられている。
「浮体式作業台船は、アルキメデスの原理に基づき、船底にかかる浮力と自重が完全に均衡している。現在の波高は0・8メートル、横揺れ角(ロール角)はわずか1・2度だ。地上500メートルの足場トラスの風揺れに比べれば、力学的な転倒モーメントは10分の1以下だ。恐れる要素は微塵もない」
「理屈じゃねえんだよ、アレクゥッ! 三半規管が『ここは現場じゃねえ、ただの水溜まりだ』って叫んでんだよォッ!」
「はいはい、エドワード様。情けない悲鳴をあげないでくださいまし♡」
そこへ、白と薄緑のシスター服の上から真新しいオレンジ色の救命胴衣を着けた聖女リリアナが、お盆に小さな紙コップを載せて歩み寄ってきた。
「船酔い止め特製の『神聖ジンジャー生薬ポーション』ですわ。ショウガのジンゲロール成分が胃粘膜の求心性神経を麻痺させ、吐き気を一瞬で鎮静化してくれますの。……あ、効き目が強すぎて半日ほど舌が痺れますけれど、エドワード様のお口にはちょうどいいお仕置きですわね♡」
「お仕置きって言うな! ……ぐびっ、うぐっ、辛ぇぇぇっ! 舌が火を噴きそうだぞ!?」
「あら、文句を言う元気が出たなら、早速作業員たちの救命胴衣点検に向かってくださいまし♡」
リリアナの菩薩の笑顔と容赦のない鞭に追われ、エドワードは涙目になりながら甲板へとよろよろと戻っていった。
「主任! 現地港湾当局および海洋冒険者ギルドとの連絡調整、すべて完了いたしました!」
タラップを駆け上がってきたのは、タイトスカートにピンクの安全帯を巻き、分厚い現場バインダーを抱えたシエルであった。
エルフの長い耳には、海水防止用の特製イヤーマフが装着されている。
「港湾管理者の全面協力のもと、エメラルド海溝直上の海域半径5キロメートルを『全大陸合同営繕庁・緊急作業特別制限区域』に指定いたしました! 一般船舶および漁船の進入は完全封鎖。民間船の巻き込み事故リスクはゼロです!」
「よくやった、シエル。現場の安全は、まず第3者災害の完全遮断から始まる」
アレクが満足そうに頷く。
「アレク主任〜! 魔王軍補給艦隊からの資材移送、すべて完了いたしましたわよ〜!」
船首側のデッキから、愛らしい羊角を揺らしながら手を振ってきたのはルシアであった。
いつものツナギの上から、耐海水性のネオプレンゴム製作業アームカバーを着け、手には巨大な配管用パイプレンチを握りしめている。
「ドワーフ王国から空輸された超大型多段タービン高圧排水ポンプ3基、ならびに耐海水高粘着ミスリルパテ10万本、メガフロートの船底倉庫への格納が完了いたしました! ポンプの試運転も絶好調、いつでも毎分10万トンの海水をぶち抜けますわ!」
「ピキュッ!」
ルシアの足元から、黄色いミニチュアヘルメットを被ったポチが元気よく飛び出してきた。
ポチの丸い体は、今朝から海水を微量に取り込み、表面張力を巧みに変化させて「浮き輪モード」に変形していた。プカプカと水たまりの上を器用に浮遊し、まるで小さな救命浮環のように誇らしげに胸を張っている。
「ポチも臨戦態勢だな。よし」
アレクは作業台船の中央指令室のデッキに立ち、甲板に整列した五千名の選抜作業員たちを見渡した。
ドワーフの水中溶接工、人間とエルフの高所足場鳶、魔王軍の水中呼吸術士、そして現地の魚人ダイバーたち。
全員が、黄色い安全ヘルメットの下に耐圧防塵ゴーグルを装着し、オレンジ色の自動膨張式救命胴衣と二丁掛けフルハーネス安全帯を隙なく着込んでいる。
「全工区、服装点検!」
エドワードが舌の痺れを堪えながら、チタンラチェットを天に突き上げて怒号を轟かせた。
「救命胴衣のガスボンベ残圧よし! 手動作動索(索引き)よし! ヘルメット顎紐よし! 工具落下防止ワイヤーよし! 指さし呼称――ヨシッ!」
「「「ゼロ災で行こう、ヨシ!!!!!」」」
五1000人の唱和が、エメラルドグリーンの港湾に地鳴りのように木霊した。
その引き締まった隊列の前に、アレクが静かに歩み出た。
手元の図面台に、一枚の特大設計図を広げる。
神話時代に建造された【ポセイドン・アクアダンジョン】の三次元水中構造図である。
「状況を再確認する」
アレクの凛とした声が、海風を切り裂いて全作業員の耳に届いた。
「対象構造物:エメラルド海溝・水深100メートル、古代海洋神殿ダンジョン。被害規模:第1主神殿外壁、幅30メートル×高さ20メートルの破断爆破大破。現在、流入海水量30000万トン。浸水完了率92パーセント」
図面を示しながら、アレクの指先が破断面を鋭く叩く。
「本工事の工程は、大きく三段階に分かれる。
第1段階:水深100メートルの超高水圧下における、流入破口の緊急仮締め切りおよび一次止水。
第2段階:3基の超大型タービンポンプによる、30000万トンの海水の完全急速排水。
第3段階:重量8000トンの鋼鉄製オープンケーソン沈設、ならびに水中不分離性コンクリート高圧圧入による恒久隔壁の完全復元だ」
アレクの澱みない工程説明に、歴戦のドワーフ溶接工たちも息を呑んで聞き入る。
水中土木工事において、水深100メートルはまさに「未知の極限領域」であった。
水圧1メガパスカル。指先1本の隙間からでも、吹き込む水流は人間の肉体を一瞬で両断するウォータージェットの刃と化す。
「敵は水圧でもなければ、海の魔獣でもない。――我々の油断、そして海水によるコンクリートの塩害腐食のタイムリミットだ」
アレクは双眼鏡を覗き込み、遥か沖合、白波が激しく渦巻くエメラルド海溝の海面を指差した。
「これより、作業台船『原状回復号』、エメラルド海溝直上へ向けて出港する! 全工区、配置につけ! 海神の神殿を、元通りに直して帰るぞ!!」
「「「おおおおおおおおおおおおっ!!!!!」」」
五1000人の雄叫びとともに、100万トンのメガフロートが巨大なスクリューを回転させ、青く輝く大洋の彼方へと力強く舳先を進めていった。
陸を救った職人たちの次なる舞台は、暗黒と水圧が渦巻く深海100メートルの底。
空前絶後の海洋原状回復作戦が、今、ここに幕を開けたのである。




