第146話:出張要請第一号:エメラルド海溝の悲鳴
大陸中央・バベルの断層迷宮の地上坑口前に建てられた、新設の木造二階建て仮設事務所。
『全大陸原状回復コンソーシアム・合同営繕庁本庁舎』の看板が、初夏の爽やかな青空の下、風に揺れていた。
始祖ダンジョン地下100階における奇跡の大改修工事が完了し、10万人の職人たちがそれぞれの故郷へ凱旋してから、ちょうど一ヶ月の月日が流れていた。
事務所の一階、真新しい唐松の香りが漂う執務室。
午後16時45分。
現場最高監理官アレク・ユグレットは、黄色いヘルメットを机の右隅に置き、真鍮の万年筆を走らせて本日の『全大陸ダンジョン日次巡回記録簿』の最終行を記入していた。
『本日管内異常なし。各ダンジョン魔力循環圧、規定値内。残余作業:事務所前の水撒き、工具箱のオイル塗布。所要予定時間:10分。17時0分、定時退社見込み――』
「ふう……。完璧な進捗だ」
アレクは胸ポケットから銀の懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開いた。
長針はきっちり9の文字を指している。あと15分で、1秒の狂いもなく本日の労働時間は完了する。
その隣のデスクでは、首席現場代理人のシエルが、三色ボールペンを手帳から外し、満足そうに伸びをしていた。
「先輩、本日分の工数集計と資材棚卸し表、すべて検算完了しましたわ。誤差ゼロ、1カッパーのズレもありません!」
「ご苦労だった、シエル。手戻りのない事務作業こそが、現場の安全を支える基礎梁だ」
「えへへ、先輩に褒めていただけるのが一番嬉しいです!」
シエルがエルフの長い耳をパタパタと嬉しそうに揺らす。
反対側の流し台では、割烹着を着たルシアが、湯気の立つポットから三杯の湯呑みにお茶を注いでいた。
「アレク主任、シエルさん、定時前のお茶が入りましたわよ。本日は魔界特産のカモミールと乾燥リンゴをブレンドした、神経鎮静ハーブティーですわ。お茶請けには、焼き立てのクルミクッキーを添えてありますの!」
「うむ、適度な糖分補給は、終業時の注意力低下による転倒事故を防ぐ。ありがたくいただく」
「ピキュッ!」
アレクの足元で、小さな黄色いヘルメットを被った水色スライムのポチが、床をピカピカにモップがけしながら跳ね上がった。
平和そのものの、穏やかで規律ある日常。
世界の心臓を救い上げた青年技師たちは、静かに、そして誇り高く平穏な定時退社を迎えようとしていた。
――バァァァァァンッッッ!!
だが、その静寂は、事務所の引き戸を蹴破るような凄まじい勢いで打ち砕かれた。
「大変よ、アレクちゃん!! お茶を飲んでる場合じゃないわ!!」
飛び込んできたのは、冒険者ギルド連盟財務最高責任者兼副ギルドマスター、エレノア・ブラッドフィールドであった。
いつもの妖艶で優雅な微笑みは完全に消え失せ、黒毛皮のコートを乱し、手には汗で湿った真紅の封筒を握りしめている。
その後ろからは、二本線ヘルメットを首に掛けたエドワードが、息を切らしながら駆け込んできた。
「おいアレク! とんでもねえ報せが海から飛び込んできたぞ!!」
「エレノア様、エドワード。執務室への入室時は、まずドアノブを回して静かに開けるのが安全衛生管理の基本です。扉の蝶番にかかる衝撃モーメントが――」
「そんな講釈は後にしてちょうだい!」
エレノアが紫の煙管を机に叩きつけ、真紅の封書をアレクの前に叩きつけた。
「南方のエメラルド海溝よ! 海底100メートルに沈む超古代海洋神殿【ポセイドン・アクアダンジョン】が、たった今、壊滅的な破断事故を起こしたわ!!」
「……エメラルド海溝?」
アレクの碧眼が、鋭く細められた。
エメラルド海溝は、大陸南方の大洋に位置する世界有数の海洋難所である。
1000年前の神話時代、大地と海の魔力バランスを調停するために建造された海底神殿ダンジョン。
人間と魚人族、人魚族が共同管理する神聖な区域であり、外壁は水深100メートルの超高水圧に耐える厚さ5メートルの古代防水花崗岩で密閉されていたはずであった。
「事故の概要は」
アレクは万年筆を置き、冷徹な声で問うた。
エレノアが額の汗を拭いながら、早口で告げる。
「原因は……またしても、救いようのないアホな勇者パーティよ!!」
「な、なんだと!?」
エドワードが目を剥いた。
「王都の貴族が金に糸目をつけずに雇い入れた、自称『大海賊勇者バルバロッサ』率いる重装冒険者クランよ! あいつら、最深部の主神殿の奥にある『海神の秘宝庫』の扉を開けようとしたらしいの。ところが、古代の電子錠が開かないからって……あろうことか、軍用の魔導破砕爆弾『メガ・ダイナマイト』を100個も持ち込んで、外壁ごと思いっきり爆破しやがったのよ!!」
「ば、爆破ですってぇぇぇぇっ!?」
シエルが手帳を取り落としそうになって叫んだ。
「水深100メートルの海底で、外壁を爆破するなんて……! 外の水圧がどれほどか、小学生でも分かりますわ!」
「その通りよ。結果、幅30メートル、高さ20メートルにわたって海底外壁が完全に吹き飛んだわ。現在、毎秒数100トンの海水が怒涛の勢いで神殿内部へ流入中! 既に30000万トンもの海水がダンジョンを水没させ、内部の魔力循環配管に猛烈な水圧負荷がかかっているの! 放置すれば、配管の破裂ショックで海底地盤が連鎖崩落し、南方諸島全域が巨大津波に飲み込まれて壊滅するわ!!」
「現在の現地被害状況は」
アレクの声には、一切の動揺がなかった。
「人魚族の女王様と、現地の海洋ギルドが必死に結界を張って浸水を食い止めているけれど、持つのはあと48時間……いいえ、36時間が限界よ! 人魚族の女王様から、全大陸原状回復コンソーシアム宛てに、正式な『超緊急・原状回復出動要請』が届いたわ!」
エレノアが差し出した書類の末尾には、人魚族の王家の真珠貝の刻印と、震える文字で『世界を救った原状回復士殿、どうか我らの海をお救いください』と記されていた。
執務室に、重苦しい沈黙が落ちた。
水深100メートル。
30000万トンの海水。
これまでの地下迷宮の土木工事とは、まったく次元の異なる『未知の海洋施工』であった。
「おいおい……水深100メートルの海の底だぞ……!?」
エドワードがチタンラチェットを握りしめ、顔を引き攣らせた。
「足場を組もうにも、周りは全部水じゃねえか! 人間が息もできねえ暗闇の海の底で、どうやって穴を塞ぐんだよ!?」
「不可能ではありませんわ!」
ルシアが真紅の瞳を燃え上がらせて前に出た。
「水圧がかかっているということは、流体力学的には高圧パイプの破断と同じです! 適切な排水ポンプと止水材があれば、理論上は塞ぐことができます!」
「ですがルシアさん、海水には高濃度のナトリウムイオンと塩化物イオンが含まれています!」
シエルが青ざめた顔で計算機を弾いた。
「1000年乾燥していた古代コンクリートに海水が浸透すれば、一瞬で塩害腐食が進行します! 内部のミスリル鉄筋が錆びて膨張し、コンクリートが内側から破裂する『ポップアウト現象』が起これば、神殿全体が自重で粉々に砕け散りますわ!」
「シエルの言う通りだ」
アレクが静かに立ち上がった。
その碧眼には、絶望の影など微塵もなかった。
ただ、壊されたインフラの構造力学を冷徹に見透かす、百戦錬磨の現場監督の鋭敏な光だけが宿っていた。
「過失割合は、無免許爆破を行った大海賊勇者パーティが十、海底神殿および人魚族側がゼロだ。――即時出動する」
「アレクちゃん……!」
エレノアの瞳が輝く。
「シエル、直ちに全大陸合同営繕部隊へ緊急動員令を発令。水中溶接工、潜水土木鳶、ドワーフ削岩隊、計五千名を招集しろ」
「了解いたしました、主任!」
「ルシア、魔王軍補給部から超大型多段タービン排水ポンプ、および耐海水用特殊グラウト材の手配を急げ」
「お任せください! 30分で輸送船を手配しますわ!」
「エドワード総棟梁。海の上でも、やるべきことは変わらんぞ」
アレクが元勇者を真っ直ぐに見据えた。
「波と潮流に負けない、前代未聞の『水中耐水流トラス足場』を組んでもらう。貴様のチタンラチェットの出番だ」
エドワードの口元が、ニッと頼もしく吊り上がった。
「へっ! 言ってくれるぜ、アレク! 地上500メートルの足場を組んだオレたちだ! 水深100メートルの海の底だろうが、ピッカピカの足場を組んで、海神の神殿を丸ごと支えてやるよ!!」
「ピキュッ!」
ポチがアレクの肩の上へ飛び乗り、ミニチュアヘルメットの顎紐をキュッと締め直した。
アレクは机の上の黄色い安全ヘルメットを手に取り、頭上へ深く被った。
そして、壁のタイムレコーダーの前に歩み寄り、自らのタイムカードを差し込んだ。
ガシャンッ!
刻印された文字は――『17:00』。
「本日の地上定時業務は、これにて終了。――これより、全大陸出張原状回復ツアー第1号工区、エメラルド海溝へ出動する!」
黄色いヘルメットの青年と、誇り高き職人たち。
世界の心臓を救った原状回復士たちの新たなる伝説が、今、紺碧の海の底へ向けて力強く動き出したのであった。




