第145話:明日も全員、ご安全に!
工期35日目、午前8時00分。
始祖ダンジョン地上メインゲート前――澄み渡る蒼穹がどこまでも広がる、見渡す限りの大平原。
爽やかな初夏の朝風が吹き抜ける緑の大地には、昨夜の大宴会の狂乱など夢であったかのように、整然たる静寂と厳格な現場規律が戻っていた。
数10万人に及ぶ全大陸の民衆と職人たちが集った大宴会の跡地には、ゴミひとつ、空き缶ひとつ、炭の燃えかすひとつ落ちていない。
ポチの生体吸着膜と職人たち自身の手による徹底的な5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)によって、大平原はまるで朝露に濡れた新緑の絨毯のように清々しく磨き上げられていた。
大気中には野花と若草の瑞々しい香りが漂い、解体された足場パイプや高圧ホース、16基の油圧ジャッキなどの大型重機は、それぞれ規格ごとにコンテナへと美しく格納され、すべての資材に『点検済』の緑リボンが誇らしげに朝の光に揺れている。
「直した現場は、来た時よりも美しく」。
原状回復士の鉄則は、地下の迷宮のみならず、この地上の大平原においても完璧に守られていた。
そして――。
東の地平線から昇る力強い朝日の黄金の光を浴びて、整然と隊列を組んでいたのは、黄色い安全ヘルメットを被った10万人の職人たちであった。
「全員、服装点検! ヘルメット顎紐よし! 安全帯フルハーネス、腿ベルト・胸ベルト結合よし! 安全靴先芯よし!」
隊列の先頭で、二本線ヘルメットに『総棟梁』の腕章を誇らしげに巻いたエドワードが、チタンラチェットを手に力強い号令を下した。
その背後で、10万人の職人たちが一糸乱れぬ動作で自らの保護具をポン、ポンと叩いて指さし確認を行う。
ドワーフの鍛冶師たちも、魔王軍の術士たちも、王国兵の鳶たちも、エルフの左官たちも。
彼らの引き締まった瞳には、世界の心臓を完全に直したという揺るぎない誇りと、次なる現場への静かな情熱が宿っていた。
かつて地上で憎しみ合っていた種族の壁は完全に消え去り、そこにはただ、同じ汗を流し、命を預け合った誇り高き職人たちの魂だけが存在していた。
朝礼台の前に、黄色いヘルメットを被り、手入れの行き届いた黒革バインダーを抱えた青年――アレク・ユグレットが静かに登壇した。
その隣には、図面ケースを抱えたシエル、工具手入れ用のオイル缶を持ったルシア、扇子を優雅に揺らすエレノア、そして煙管を燻らせて目を細める師匠ガントが並んでいた。
10万人全員の視線が、彼らの若き現場最高責任者へと注がれる。
「全作業員、整列ご苦労」
アレクの透き通るような声が、静まり返った大平原に響き渡った。
「昨日をもって、始祖ダンジョン地下100階に及ぶ大改修工事は、全数瑕疵なく、完全無事故・無災害にて発注者へ引き渡しを完了した。契約敷金100兆ゴールドの全額没収、ならびに追加修繕費用57兆8000億ゴールドの満額受領も完了し、原状回復士ギルドの歴史において、空前絶後の完全勝利を達成した」
「「「おおおおおおおおっ……!!」」」
10万人の職人たちの胸から、誇らしげな吐息が漏れた。
「だが――」
アレクはバインダーを静かに開き、水平線の向こう――大陸全土の空を見つめた。
「世界の心臓が直ったからといって、我々の仕事が終わったわけではない」
アレクの視線の先には、1000年の戦乱と勇者たちの暴走によって、今なお各地で崩壊の危機に瀕している無数のダンジョンが存在していた。
壁が爆破され、罠がへし折られ、配電盤がショートし、ヘドロが溜まり、悲鳴を上げている地下迷宮たち。
人間連合、魔王軍、ドワーフ王国――世界中のギルド支部から、アレクの元へ届いた『原状回復要請書』は、すでに数千件を超えていた。
「世界にはまだ、壊されたまま放置されている無数の現場が待っている」
アレクはマイクを握り直し、10万人の仲間たちを見据えた。
「誰かがぶっ壊した場所を、元通りに直す。
敷金を全額没収し、理詰めで追加請求を叩きつけ、職人たちに正当な対価を支払う。
そして――誰一人として怪我をすることなく、毎日17時0分に笑って家に帰る。
それが、我々原状回復士の使命であり、永遠の誇りだ」
アレクの言葉に、エドワードがニッと白い歯を見せ、チタンラチェットを天高く突き上げた。
「おうよ! どんなにぶっ壊されたダンジョンだろうが、オレたちが一歩ずつ足場を組んで、ボルトを締め上げて、ピッカピカに直してやるぜ! オレたちがいる限り、この世界は絶対に崩壊させねえ!」
「ふふっ、魔王軍施設営繕課の配管技術も、どこへでもお供いたしますわ!」
ルシアが笑顔でウィンクする。
「今度ぶっ壊した冒険者がいたら、耳の穴をかっぽじって敷金の恐ろしさを叩き込んでやりますの!」
「構造計算と図面作成は、私にお任せください!」
シエルがメガネを光らせて胸を張る。
「1マイクロの狂いもなく積算し、1カッパーの漏れもなく請求書を仕上げてみせますわ!」
「ギルドと商会の資材供給ラインは完璧ですわ」
エレノアが艶やかに微笑んだ。
「何0兆ゴールドの工事でも、世界中の最高級ミスリルとパテを右から左へ調達してみせましょう」
「けっ、バカ弟子どもめ」
師匠ガントが煙を吐き出し、皺だらけの顔を満面の笑みで綻ばせた。
「せいぜい怪我だけはしねえようにな。現場で死ぬ奴は、職人失格だぞ」
「ピキュッ!」と、アレクの足元でポチが誇らしげに飛び跳ねた。
アレク・ユグレットは懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開いた。
午前8時15分。
朝礼終了の時刻であった。
かつて第1話において、薄暗い初級ダンジョンの片隅で、勇者パーティーに壊された石畳を一人黙々とコテで均していた名もなき見習い原状回復士。
勇者に馬鹿にされ、冒険者ギルドから下請けと見下されながらも、図面と定時退社の美学だけを愚直に信じ続けたあの青年は、今や全大陸10万人の職人たちの先頭に立ち、世界の心臓を救い上げた。
だが、その心にある誇りは、あの日と何ひとつ変わっていなかった。
華やかな栄光や爵位に溺れることなく、ただ目の前にある歪みを正し、平穏な日常を取り戻す。
そのひたむきな職人魂こそが、あらゆる種族を動かし、世界の滅亡すら跳ね返したのだ。
ふと、アレクは腰の工具差しに手を触れた。
使い込まれて銀色のメッキが鈍い光を放つ愛用のラチェットレンチ。
かつて、冒険者ギルドの片隅で『雑用係』『役立たずのゴミ拾い』と蔑まれ、冒険者たちが踏み散らかしたダンジョンの泥を泥臭く掻き出していた駆け出しのあの日から、片時も手放さず握り続けてきた相棒だ。
たった一人で始めた、誰も見向きもしない原状回復。
それが今や、10万人もの職人たちと肩を並べ、世界を支える大事業となった。
だが、やるべきことは今も何一つ変わっていない。
目の前の歪みを正し、緩んだボルトを締め、壊された日常を静かに元通りにして帰る。
ただそれだけを、誰よりも誠実に、愚直に繰り返してきただけなのだ。
アレクは深呼吸し、澄み切った大気を胸いっぱいに満たすと、右手を力強く前方に突き出し、人差し指で未来の現場をビシッと指差した。
10万人の職人たちも、一斉に右手を掲げ、人差し指を前へと突き出す。
「始祖ダンジョン大改修工事、完全終了!」
アレクの凛とした号令が、どこまでも広がる青空へと吸い込まれていく。
「これより、全大陸ダンジョン原状回復巡回へ出発する!
足元ヨシ!
頭上ヨシ!
手順書ヨシ!
指さし確認――ヨシッ!!」
そして――10万人の職人たちとアレクの魂がひとつになり、大平原の果てまで届く、最高潮の合言葉が轟き渡った。
「「「「「今日も一日、ご安全にッッッ!!!!!」」」」」
澄み切った青空の下。
黄色いヘルメットの青年と、笑顔の仲間たちは、壊された世界を元通りに直すため、新たなる現場へと力強く歩み出していくのであった。
世界がどれほど理不尽に破壊されようとも、
どれほど強大な魔王や愚かな勇者が暴れ回ろうとも、
図面とラチェットと誇りを持った職人たちがいる限り、
世界はいつだって元通りに直るのだ。
――敷金全額没収の上で、きっちり定時に帰って。
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