第144話:17時00分:タイムカード打刻と定時退社の誓い
工期34日目、午後16時50分。
始祖ダンジョン地上メインゲート前――大平原。
数10万人が歌い踊る打ち上げ大宴会は、いまだ衰えぬ熱気を帯びていた。
大空には薄紅色の夕焼けが広がり、西の山並みに沈みゆく太陽が、長い影を草原の上に落としている。
焚き火の炎がパチパチと心地よい爆ぜる音を立て、ドラムの重低音とエルフのハープの音色が、心地よい晩鐘のように平原を包み込んでいた。
そんな賑やかな木陰のベンチでは、アレク・ユグレットの左右にピタリと張り付いたシエルとルシアが、それぞれ紅茶とタルトを掲げたまま、一歩も引かぬ甘い火花を散らし続けていた。
「アレク主任、もう一口! 冷めてしまいますわ!」
「アレク様、タルトのタルト生地が湿気る前に召し上がってくださいまし!」
至近距離から迫る極上の美少女二人の吐息と視線。
10000万トンの世界の心臓を1ミクロンの狂いもなく矯正した青年技師は、額に微かな汗を滲ませながら、両手を胸の前に突き出して必死に防戦していた。
「待て……! 食物の摂取速度は、消化器官の蠕動運動周期に合わせて最適化されるべきだ。左右から同時に高濃度糖分とカフェインを過密投入することは、内臓への突発的ピーク負荷となり、労働安全衛生基準第15条における疲労回復ガイドラインに明確に抵触する……」
その時であった。
――ピピッ、ピピッ、ピピッ。
アレクの胸ポケットの魔導スマートウォッチ型タイマーが、規則正しい電子音を鳴らした。
時刻は、16時55分。
『定時5分前予告アラーム』であった。
「……時間だ」
アレクの表情が、一瞬にして完璧な「現場最高責任者」の真剣なビジネスフェイスへと切り替わった。
アレクは左右の腕を器用に引き抜くと、折りたたみ椅子からスッと立ち上がった。
「あ、アレク主任……!?」
「アレク様……!?」
腕に抱きついていた二人が、ぽかんと取り残される。
アレクは作業服の埃を払い、黄色いヘルメットの顎紐をカチリと締め直すと、大平原の仮設現場事務所――プレハブ詰所の前へと迷いなく大股で歩き出した。
詰所の前には、真新しい機械式タイムレコーダーが、夕暮れの光を浴びて静かに鎮座していた。
その後ろには、10万人の職人たちが整然と並び、自らのタイムカードを手に終業の時を待っていた。
誰一人として列を乱す者はおらず、酒に酔った者もタイムカードの前では背筋を伸ばしている。
カチリ、カチリ、カチリ。
タイムレコーダーの文字盤の長針が、12の数字へと吸い寄せられていく。
16時59分45秒……50秒……55秒……。
そして――。
――ボォォォォォン……!!
大平原に設えられた仮設本部の終業の鐘が、荘厳に鳴り響いた。
17時00分。
アレクは胸ポケットから、自分の氏名が几帳面に印字された一枚のタイムカードを抜き差し込んだ。
――ガシャンッ!!
澄み切った金属打刻音が、夕暮れの平原に響き渡った。
タイムカードの『退勤』欄に、紫色のインクで刻印された鮮烈な印字。
――『17:00』。
「ふう……。本日の業務、完全終了」
アレクはタイムカードをラックの所定位置にストンと戻し、満足そうに息を吐き出した。
そして、追いかけてきたシエルとルシアに向き直り、穏やかな笑みを浮かべた。
「シエル、ルシア。素晴らしい紅茶とタルトの差し入れ、心から感謝する。だが――17時0分を過ぎた以上、本日の法定労働時間枠は完全に終了した。これより以後の飲食は『時間外福利厚生』に該当する。よって、シエルの紅茶は明朝8時の朝礼前の水分補給として、ルシアのタルトは明日の午前10時の15分休憩において、正式にいただくこととする」
「「えええええええええっ!?!?!?」」
シエルとルシアが、揃ってあんぐりと口を開けて絶叫した。
「そんなぁぁぁっ! 明日の10時までお預けだなんて……!」
「冷めてしまいますわ! 生クリームの鮮度が落ちてしまいますわよアレク様ぁぁぁっ!」
「安心しろ。ルシアのタルトは、ポチの保冷膜で摂氏4度に密閉保存する。シエルの茶葉は、真空脱泡ポットに密閉して酸化を防ぐ。明日の10時、最高のコンディションでいただくことを保証しよう」
アレクは真面目な顔で頷き、ポチに合図を送ってタルトとポットをトレイごと預からせた。
「ピキュッ!」とポチがゼリー状の保冷膜で優しく包み込み、詰所の冷蔵ケースへと運んでいく。
完璧すぎる品質管理の前に、二人はがっくりと肩を落とすしかなかった。
「がっはっはっは!!」
その光景を見ていた師匠ガントが、腹を抱えて大笑いした。
「相変わらずの堅物野郎め! 女の甘い誘惑すら定時退社のルールでねじ伏せやがった! さすがは儂の一番弟子だ!」
「まったく……色気より規律、恋より定時退社ですわね」
エレノアが扇子を口元に当ててクスクスと笑いながら歩み寄ってきた。
その手には、金糸で刺繍された豪奢な巻物と、真紅の封筒が握られていた。
「アレク主任。先ほど、人間連合総宰相閣下、ならびにドワーフ国王陛下、魔王軍ゴルディオス閣下より、正式な『最高名誉救世主叙勲令書』と、王都一等地の大豪邸の権利書、ならびに終身年金貴族の位記が届きましたわ。……どうなさいますの?」
「辞退します」
アレクは1秒の迷いもなく即答した。
「えっ……? 辞退するのか、アレク!?」
エドワードが驚いて目を剥いた。
「大豪邸だぞ!? 一生遊んで暮らせる貴族の年金だぞ!? なんで断るんだよ!?」
「私には、現場の詰所と、手入れの行き届いた工具箱があれば10分です」
アレクは静かに、しかし誇りに満ちた瞳で自らの作業手袋を見つめた。
「豪邸の主になれば、書類の山と貴族の社交界に拘束され、毎日の定時退社すら危うくなる。何より――机の上でふんぞり返るよりも、私は現場で図面を広げ、ボルトの緩みを直し、壊された場所を元通りに直して帰る……その瞬間が、最も誇らしいのです。職人として生き、職人として現場に立つ。それに勝る栄誉など、この世にありません」
アレクの言葉に、エドワードも、ガントも、そして10万人の職人たちも、息を呑み、そして深く頷いた。
世界を救っても、巨額の富を手にしても、この男は最初から最後まで『ダンジョン原状回復士』であった。
己の腕1本で現場に立ち、壊れたものを直し、定時に帰る――その労働の美学こそが、アレク・ユグレットという男の真骨頂であったのだ。
「夕暮れの薄暗がりは、思わぬ転倒事故の元だ」
アレクは懐中時計をしまい、仲間たちを見渡した。
「大宴会は20時完全消灯を厳守せよ。過度の飲酒は明日の作業効率を著しく低下させる。――全員、10分に体を休めろ」
「へっ……了解だ、アレク!」
エドワードが白い歯を見せて笑った。
「明日も朝イチから、道具の手入れがあるからな! オレも深酒はしねえぜ!」
職人たちも口々に笑い合い、ジョッキを掲げながらも、アレクの言いつけ通りに節度を守って宴を楽しんでいた。
仲間と共に汗を流し、正当な対価を受け取り、定時に仕事を終えて、明日への活力を養う。
かつて死に物狂いで世界滅亡と戦っていた人々が手に入れたのは、そんな何気なくもかけがえのない『日常』であった。
17時0分。
世界の心臓を救った奇跡の現場にも、いつもと変わらぬ穏やかな夜が訪れる。
ブレない男の定時退社の誓いは、夕暮れの空にどこまでも高く、力強く刻み込まれたのであった。
そして――明日への新たな一歩が、静かに始まろうとしていた。




