第142話:地上への凱旋:10万人の給与袋とエドワードの涙
工期34日目、午前10時00分。
始祖ダンジョン地上メインゲート――見渡す限りの瑞々しい緑が広がる大平原。
――ズズズズズズズズッ……!!
地下100階から続く巨大な主抗門の三重防護扉が、地鳴りのような重低音を響かせながら、一ヶ月ぶりに外の大気へと大きく開け放たれた。
差し込んできたのは、地底の魔導光とは違う、どこまでも暖かく、どこまでも眩しい、本物の『太陽の光』であった。
吹き抜けるそよ風には、草木の瑞々しい匂いと、大地の生命の香りが満ち溢れている。
一ヶ月間、過酷な閉鎖空間で埃と汗と油にまみれて戦い抜いてきた職人たちの肌を、初夏の心地よい陽光が優しく撫で上げた。
「わ……あ……っ!」
誰かが息を呑んだ。
扉の向こう、見渡す限りの大平原を埋め尽くしていたのは――数10万人に及ぶ、地上の民衆の大群衆であった。
王都の市民、農夫、商人、魔王領から駆けつけた魔族の家族たち、山岳地帯から降りてきたドワーフの同胞たち、そしてエルフの長老たち。
種族の垣根を越えた人々が、手旗を振り、花吹雪を撒き散らしながら、地平線を揺るがすほどの割れんばかりの大歓声で彼らを迎えたのだ!
「「「帰ってきたぞォォォォォッ!!」」」
「「「原状回復士万歳ッ!! 10万人の英雄たち万歳ッッッ!!!!」」」
色とりどりの紙吹雪と花びらが、青空を美しく舞い散る。
抗門の先頭を切って歩み出てきたのは、黄色いヘルメットに作業服姿の青年――アレク・ユグレットであった。
その隣には、煙管を咥えた師匠ガント、扇子を揺らすエレノア、メガネを直すシエル、作業服姿のルシア。
そして――二本線のヘルメットを被り、肩に誇らしげに『総棟梁』の腕章を巻いた元勇者・エドワードが、チタンラチェットを腰に差して堂々と並んでいた。
彼らの背後から、道具箱を抱え、互いに肩を組み合った10万人の職人たちが、胸を張り、誇らしげな足取りで陽光の下へと進軍してくる。
「う、うおおおっ……! すげぇ歓迎だ……!」
ドワーフの職人たちが、民衆から手渡された冷えたエールの樽を掲げて歓声を上げる。
王国兵たちは駆け寄ってきた妻や子供たちと抱き合って涙を流し、魔王軍の術士たちは人間の子供たちから手作りの花の首飾りをかけられて照れくさそうに破顔していた。
かつて地上で互いに憎しみ合い、血を流し合っていた種族の壁など、この場には微塵も存在しなかった。
地下100階の極限の現場で、同じ飯を食い、同じ安全規則を守り、命を預け合って世界の心臓を直した10万人は、もはや分かち難い絆で結ばれたひとつの巨大な家族となっていたのだ。
特設された地上本部の大型仮設ステージの上で、シエルが分厚い木箱の前に立った。
木箱の中には、茶色いクラフト紙でしっかりと封緘された、10万人分の『給与袋』が整然と積まれていた。
「全作業員への給与支給式を執り行います!」
シエルがマイクに向かって、凛とした透き通る声で告げた。
「発注者連合(人間連合・魔王軍・ドワーフ王国)より支払われた正規工事代金に基づき、本日、全33日の基本日当、高所危険手当、特殊技術手当、ならびに無事故皆勤特別ボーナスを、現金にて全額満額支給いたします!」
「「「おおおおおおおおっ……!!」」」
職人たちから、地鳴りのような歓声が上がった。
列をなした職人たちが、一人ずつ給与袋を受け取っていく。
袋の封を開けたドワーフの職人が、中に入っていたずっしりと重い金貨の束を見て、目を丸くして叫んだ。
「お、おい見ろ! 日当だけじゃねえ! 『安全帯二丁掛け完全遵守手当』に『整理整頓5S貢献手当』まで上乗せされてるぞ! 事前の提示額より3割も多いじゃねえか!!」
「当然です」
アレクがステージの上から静かに告げた。
「原状回復士ギルドにおいて、安全を守り、道具を愛し、品質を追求した職人に、正当な対価を支払わないなどあり得ません。それは貴方方の汗と規律が生み出した、完全なる正当な労働の報酬です。胸を張って家族に持ち帰ってください」
そして――シエルが木箱の中から、一段と分厚い、特別に仕立てられた給与袋を両手で持ち上げた。
表書きには、墨黒の力強い文字でこう書かれていた。
『足場架設総棟梁 エドワード殿――金15万ゴールド整』
「エドワード総棟梁、前へ!」
シエルの澄んだ声が響き渡った。
「えっ……? オ、オレか……?」
エドワードが目を白黒させながら、おずおずとステージの中央へと進み出た。
シエルは深々と一礼し、両手でその重厚な給与袋をエドワードへと差し出した。
「エドワード総棟梁。高度500メートルの自立トラス足場架設、油圧暴走時の決死のバルブ遮断、そして全数解体における無事故統率――貴方の卓越したリーダーシップと卓越した鳶技術に対し、規定の時給1500ゴールドに特殊職能手当を加算し、給与を支給いたします。……本当にお疲れ様でした!」
エドワードは、震える両手でその給与袋を受け取った。
ずっしりと重い。
かつて勇者として王宮から施されるように与えられていた、何100万ゴールドもの空虚な報奨金とは、重みがまるで違っていた。
手すりパイプを担ぎ、冷たい魔力風に耐え、泥と油にまみれ、仲間たちの命を守るために必死でチタンラチェットを振り続けた――自らの筋肉と魂で稼ぎ出した、正真正銘の『労働の結晶』であった。
エドワードの膝が、ガクガクと震え始めた。
二本線ヘルメットの鍔の下から、大粒の涙が、ポロポロと給与袋の表面に落ちて染みを作っていく。
「オレ……オレ……稼いだんだな……」
エドワードの声が、嗚咽となって震えた。
「勇者でもねえ、罪人でもねえ……オレの手で、仲間と一緒に汗水流して……世界を直して……150万ゴールド稼いだんだな……!」
エドワードは給与袋を胸に強く抱きしめ、天を仰いで子供のように声を上げて号泣した。
「アレク……! オレ、棟梁になれたんだよな……!? オレ、もう誰かの世界をぶっ壊さずに……ちゃんと、直せる男になれたんだよなァッ……!!」
かつて世界を救うと称して街を壊し、ダンジョンを踏み荒らし、巨額の負債を背負って絶望していた元勇者。
そんな男が、日当1000ゴールドの見習いから始まり、ラチェットの握り方を教わり、安全帯の結び方を叩き込まれ、ついに10万人の鳶職人たちの頂点たる棟梁として認められたのだ。
その姿に、10万人の職人たちの目にも、熱い涙が溢れ出していた。
アレク・ユグレットは静かに歩み寄り、エドワードの肩をガッチリと掴んだ。
「ああ。お前は立派な足場総棟梁だ、エドワード。お前がいなければ、始祖コアの足場は建たなかった。お前が世界を直したんだ。胸を張れ」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」
エドワードの咆哮とともに、背後にいたドワーフと王国兵の鳶職人たちがステージへと雪崩れ込んできた!
「棟梁! 当たり前だろォッ!!」
「オレたちの棟梁は、アンタだけだッ!!」
「野郎ども、棟梁を担げェェェェッ!!」
ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ!!
10万人の逞しい腕が、給与袋を握りしめたエドワードの巨体を、青空高くへと何度も、何度も胴上げした!
紙吹雪が降り注ぐ中、元勇者は涙と笑顔で顔をぐしゃぐしゃにしながら、天に向かって拳を突き上げ続けた。
かつて破壊の象徴だった男の完全なる再生と救済。
真の労働が生み出した奇跡に、平原を埋め尽くす数十万の民衆からも万雷の拍手が鳴り響いた。
大平原を埋め尽くす歓声は、世界の心臓を蘇らせた職人たちの誇りと共に、どこまでも、どこまでも高く澄み切った青空へと響き渡るのであった。




