第140話:初期敷金100兆ゴールド全額没収の宣告
工期33日目、午後17時15分。
地下100階、全高500メートルの世界の心臓『始祖コア』の直下。
鏡のように磨き上げられた床スラブの上に、三人の世界最高権力者たちの悲痛極まりない絶叫が、木霊のように反響していた。
「「「ぜ……全額没収ッッッ!?!?!?!?」」」
人間連合総宰相アルベルトは泡を吹いて胸を押さえ、魔王軍四天王筆頭ゴルディオスは漆黒の魔導鎧を軋ませて後ずさり、ドワーフ国王ガンドルフは自慢の白銀の髭をワシワシと掻きむしりながら絶句していた。
「あ、あり得ん……! あり得んぞ、アレク殿!!」
アルベルト宰相が、血相を変えて床から飛び起き、震える指を突きつけた。
「100兆ゴールドだぞ!? 全大陸の人間諸国、魔王軍、ドワーフ王国が、国家予算の予備費と国庫の金塊を根こそぎかき集めて拠出した、文字通りの天文学的巨額だ! 何かの間違いであろう!? 無事に世界の心臓は直ったのだ! なぜ敷金が全額没収されるのだ!?」
「間違いなど、1カッパーたりとも存在しません」
黄色いヘルメットのアレク・ユグレットは、冷徹な事務的眼差しを崩さず、黒革バインダーから契約書の原本を取り出した。
そこには、三首脳が着工前に震える手で捺印した、各国の玉璽と血判が燦然と輝いていた。
「契約書第8条第3項【事前預託敷金の充当および返還条項】。――シエル検査技師、条文を読み上げろ」
「はい!」
シエルがメガネをキランと光らせ、透き通るような声で朗読を開始した。
「『乙(発注者連合)は、甲(原状回復士ギルド)に対し、工事着工に伴う担保金として100兆ゴールドを事前預託するものとする。ただし、目的物件の損壊が通常損耗(経年劣化)の範囲を逸脱し、乙の故意・過失、管理義務違反、ならびに不法占有者による破壊行為に起因することが判明した場合、甲は敷金の全額を修繕費用へ無条件で充当(没収)できるものとする』! 以上ですわ!」
「ぐ……ぐぬぬっ……!」
アルベルト宰相が言葉を詰まらせる。
「首脳の皆様、お忘れですか?」
アレクは冷ややかに、しかし淀みなく理詰めの刃を突き立てた。
「始祖ダンジョンがこれほどの破滅的状況に陥った根本原因は何ですか? 1000年にわたる無計画な放置。定期的な油圧・配管メンテナンスの完全放棄。それだけではありません。人間連合が派遣した歴代の無謀な討伐隊や勇者パーティーが、罠を力づくでへし折り、隔壁を魔法で爆破し、配電盤をショートさせ、あげくの果てには始祖コアの台座アンカーボルトを叩き折って南西に3.8度傾斜させたのです」
アレクの視線が、エドワードを一瞥した。
エドワードは気まずそうに視線を逸らし、ポリポリと頭を掻いた。
「ま、まあ……オレも昔は『ダンジョンはぶっ壊して攻略するものだ』って思い込んでたからな……。返す言葉もねえよ……」
「これらはすべて、法律上・工学上の『通常損耗』などでは断じてありません」
アレクはバインダーをピシリと叩いた。
「賃貸不動産に例えるならば、『1000年一度も掃除も換気もせず、部屋の中で爆薬を炸裂させ、大黒柱をチェーンソーで切り刻んで傾かせ、床一面にヘドロをぶちまけて退去した』ようなものです」
「ぶ、不法占有者の極みですわね……!」
ルシアが両手を腰に当て、サキュバスの瞳を細めて冷笑した。
「魔王軍の軍規に照らし合わせても、軍法会議で即刻ギロチン送りの重罪ですわ! 敷金を返せなどと、どの口が仰っているのかしら!」
「そのような無責任極まりない管理放棄に対して、敷金の返還を求めるなど、不動産取引の常識に対する冒涜です」
アレクは冷徹に言い放った。
「第50階層までの通路確保、ヘドロ吸引洗浄、配電盤復旧、そして始祖コアの初期損害鑑定――これら契約当初に合意された基礎工事費用として、事前預託敷金100兆ゴールドは、全額きれいに相殺・充当されました。よって、返還額は――『ゼロゴールド』です」
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ……!!」
アルベルト宰相が白目を剥いて卒倒しかけた。
ドワーフ国王ガンドルフも、王冠を両手で押さえながら脂汗をダラダラと流している。
「100兆ゴールドが……丸ごと消えた……! 全額没収じゃと……!?」
「しかし……しかしじゃ、アレク殿!」
ガンドルフ国王が必死に食い下がった。
「100兆ゴールドを全額差し出したのじゃ! 痛手ではあるが……これで、すべての精算は終わったのじゃな!? 世界の心臓は直った! 追加の金はもう一文も払わんでよいのじゃな!? これ以上の支出など、我がドワーフ王国の財政が完全に破綻してしまうわい!」
その問いに、エレノアが扇子をパチンと鳴らし、蠱惑的な笑みを深めた。
「あらあら、ガンドルフ国王陛下。何を甘い夢を見ていらっしゃいますの?」
「な、なんじゃと……!?」
アレク・ユグレットが、黒革バインダーから取り出した『もう一枚の書類』を、スッと三首脳の目の前に掲げた。
そこには、太く、黒く、そして恐ろしいまでの正確さで計算された数字が並んでいた。
「先ほど申し上げた通り、敷金100兆ゴールドは、あくまで『第50階層までの事前合意工事』に対する費用です」
アレクの眼鏡の奥の瞳が、損害鑑定士としての冷徹な光を放った。
「これより――地下51階以降の未知の深部において新たに発生した、未曾有の重大損害に対する『追加修繕費用確定請求書』の明細説明を開始します」
「つ、追加請求だとォォォォォッ!?」
三首脳の絶叫が、磨き上げられたサファイアの巨体を激震させた。
「待て! 待ってくれアレク殿!」
アルベルト宰相が泡を吹きながら手を振った。
「なぜ追加費用が発生するのだ!? 我らは100兆ゴールドもの敷金を納めたのだぞ! その中で全て賄うのが筋ではないか!?」
「契約書第12条【不可抗力および隠れたる瑕疵の追加清算】をご確認ください」
アレクは冷徹に書類を指差した。
「着工前の地上調査では知り得なかった、地下深部の構造破壊――すなわち、地下85階の配電盤漏電、地下90階の整備放棄ゴーレム100台、地下98階の高圧蒸気間欠泉、そして地下100階における始祖コアの南西3.8度傾斜と外殻1842本のプラズマクラック、破断アンカーボルト8本。これらはすべて、調査不能だった『隠れたる重大瑕疵』に該当します」
アレクは一歩踏み込み、三首脳を見下ろした。
「これらを修繕しなければ、世界は滅亡していました。貴方方は、世界存続のために必要な追加工事の施工を、無線を通じて正式に承認されたはずです。……違いますか?」
「うっ……!」
ゴルディオスが喉を詰まらせた。
「た、確かに……通信が入るたびに『承認する、何としても直せ!』と叫んだ記憶が……!」
「発注者の正式承認に基づき、10万人の職人が命を懸けて施工を完遂いたしました」
アレクの声音には、一切の揺らぎも情けもなかった。
「かかった費用は、1ゴールドの狂いもなく全額請求させていただきます。――それが、プロの原状回復士の仕事です」
エドワードが腕組みをしてニヤリと笑い、10万人の職人たちが無言で頷く。
「へっ、オレたちも命張ってボルト締めたんだ。タダ働きさせる気じゃねえだろうな、首脳の旦那方?」
チタンラチェットがカチャリと鳴る。
世界最高権力者3名に、今度こそ逃げ場は存在しなかった。
理詰めと契約条項の前に、武力も権力も完全に無力化されたのである。
大空洞に響くのは、もはや反論の声ではなく、迫り来る天文学的請求額に対する怯えの吐息だけであった。




