第136話:ジャッキ除圧:10万人が見つめた一ミクロン
工期31日目、午前10時00分。
地下100階、全高500メートルの世界の心臓『始祖コア』の真下。
前日までに完了した『深さ50メートル新設アンカー削孔』および『80トン極太ミスリルボルト8本のケミカルアンカー定着』により、台座周囲の基礎岩盤は、完全なる養生期間を経て最高強度を発揮していた。
変性エポキシアクリレート魔導樹脂は、モース硬度10のオリハルコン花崗岩盤とミスリルボルトの螺旋リブを分子レベルで完全に一体化させ、単体引張耐力2000万トン、8本合計で実に『16000万トン』という、神話の時代すら凌駕する超絶強固な根を大地深くに下ろしていた。
そして今――本大改修工事において最も息を呑む、極限の荷重移行の瞬間が訪れようとしていた。
――『16基の油圧ジャッキ除圧(減圧開放)』。
これまで10000万トンの巨体を支え続けてきた、仮設の1000万トン級油圧ジャッキ16基から作動油を抜き、その全荷重を、新たに定着された8本(既存4本と合わせて計12本)のアンカーボルトと基礎コンクリート天端へと完全に移譲するのだ。
もしも、新設ボルトの定着に1本の不良があったり、岩盤内部に微小な滑りが生じれば、荷重を受け止めた瞬間にボルトが抜け、10000万トンの世界の心臓は台座ごと破断・転倒する。
逆に、除圧の速度が不均等であれば、特定のボルトに偏荷重が集中して連鎖破断を引き起こす。
許容される沈下・変位量は――『1ミクロン(0.001ミリ)』以内。
「全計測班、定位置につけ!」
地上50メートルの中央計測デッキで、アレク・ユグレットの研ぎ澄まされた声がマイク越しに響き渡った。
「シエル、全周囲レーザー変位計および超音波歪みセンサーのゼロ点同期を確認せよ!」
「はい! 第1番から第16番計測点、すべて光軸ロック完了! 変位測定分解能0.1マイクロメートルで待機中です!」
シエルが青白く光る大型ホログラムモニターを展開した。
モニターには、台座の12本のアンカーボルトと16基のジャッキの応力分散グラフが、リアルタイムの3Dグラフィックで描かれている。
「初期圧力、全ジャッキ平均185メガパスカル。メカニカルロックスリーブの緩め代、0.5ミリを確保しました!」
「ルシア課長、減圧マニホールドの制御弁はどうなっている?」
「全系統、比例電磁リリーフ弁の同調キャリブレーション完了しておりますわ!」
中央配管デッキで、ルシアが両手で精密コントロールレバーを握りしめ、凛とした声で応えた。
「16基のジャッキから、毎秒0.5メガパスカルの等速ステップで徐々に作動油をドレンタンクへ逃がします! 全基の圧力偏差は0.1パーセント以内に自動同期されますわ!」
「よし」
アレクは胸元の真鍮ホイッスルを咥えた。
地下100階、外径600メートルの足場と大空洞の床を埋め尽くす10万人の作業員たちが、唾を飲み込み、固唾を呑んで中央デッキを見つめている。
大空洞を吹き抜ける風の音すら掻き消えたかのような、完全なる静寂が地底を支配していた。
――ピィィィィィッ!!
鋭い笛の音が、静寂を切り裂いた。
「除圧開始! リリーフ弁微開、一次減圧ステップへ移行!」
プシュウウウウウウウウ……ッ。
ルシアがレバーをミリ単位で倒すと、16基の極太シリンダーから、深紅の作動油が音を立てて排出され始めた。
圧力計の針が、ゆっくりと左へと回り始める。
「圧力185メガパスカルから150へ降下!」
ルシアが計器を読み上げる。
「120……100メガパスカル! 荷重の50パーセントが新設アンカーボルトへ移譲開始!」
ギギギギギ……ッ!!
台座の周囲から、金属と岩盤が噛み合う重々しい軋み音が響いた。
直径5メートル、長さ55メートルの8本の新設ミスリルボルトが、初めて10000万トンの巨体の重みを全身に受け止め始めたのだ。
ボルトの表面に刻まれた螺旋リブが、孔底の変性エポキシアクリレート樹脂を介して、神話岩盤をガッチリと掴み込む。
「圧力50メガパスカル……30……10メガパスカル!」
シエルの声が極度の緊張で震えていた。
「ジャッキ内圧、ほぼゼロへ! 油圧支持、完全喪失! 全荷重10000万トン――新設基礎アンカーへ100パーセント移行完了ッ!!」
ガチンッッッ!!
最後の作動油が抜けきり、ジャッキのピストンが完全に受圧面から離れた。
世界の心臓が、自立した。
「変位量はどうだ!?」
基底部のステージで命綱を握りしめていたエドワードが、絶叫した。
「コアは沈んだか!? ボルトは耐えてるのか!?」
10万人の視線が、シエルのホログラムモニターへと集中した。
モニター上に、レーザー変位計のリアルタイム測定グラフが大きく拡大表示される。
初期基準値からの沈下量を示す針。
それは――。
「……沈下量、測定……!」
シエルが息を呑み、メガネを押し上げた。
「第1番ボルト変位……プラスマイナス0.0マイクロメートル!
第2番ボルト……0.0マイクロメートル!
第3番から第8番……すべて――変位量ゼロ!! 針は、1ミクロンも動いていません!!」
「なっ……!?」
エドワードが目を剥いた。
「レーザー全周囲変位測定、終了!」
シエルがモニターを叩き、涙声で絶叫した。
「全高500メートル、重量10000万トン世界の心臓『始祖コア』――自立沈下量、完全に『ゼロミクロン』! 新設基礎アンカー群、極限引張耐力に完全適合! 世界の心臓は、自らの足で永遠の安定を獲得しました!!」
数秒の静寂。
そして――。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」」」
地下100階、直径3キロメートルの大空洞を埋め尽くす10万人の作業員たちから、天井の岩盤を粉々に打ち砕かんばかりの地鳴りのような大歓声が爆発した!
「立った……! ジャッキなしで、山が真っ直ぐ立ってるぞォォォッ!!」
「1ミクロンも沈まねえ! オレたちの打ったボルトが、10000万トンを完全に受け止めてるんだ!!」
「やった……! 世界が……世界の心臓が元通りになったんだ!!」
ドワーフたちは互いの作業着を引っ張り合って男泣きし、王国兵たちはヘルメットを天高く放り投げた。
魔王軍の術士たちも、サキュバスたちも、抱き合って飛び跳ねていた。
1000年、崩壊の危機に怯え、南西に3.8度傾いて死にかけていた世界の心臓が、今や1000年前の神話の時代すら凌駕する完全無欠の剛性を備え、大地の底に永遠の根を下ろしたのだ。
「へっ……へへっ……1ミクロンも動かねえ、かよ……!」
エドワードがステージの上に座り込み、天井のサファイア色に輝く巨体を見上げて、涙をボロボロと零しながら笑った。
「すげぇよ、アレク……。お前の言う通り、図面通りにボルトを締めたら……1ミクロンも揺らがねえで、山が立ち上がりやがった……!」
「ああ」
アレク・ユグレットは、胸元のホイッスルを静かに指先で撫で下ろし、穏やかな、しかし誇りに満ちた笑みを浮かべた。
「物理法則は、決して嘘をつかない。正しく計算し、正しく施工された構造物は、神話の巨体すら完全に支え切る」
アレクはマイクを手に取り、歓声に沸く10万人へ向けて通達を放った。
「全作業員に通達! 始祖コア基底部姿勢復元および基礎アンカー新設定着工事――これをもって完全完了とする! 10万人の卓越した技術と不屈のプロフェッショナリズムに、心より感謝する!」
地鳴りのような拍手が、いつまでも、いつまでも地下大空洞に木霊していた。
だが、アレクの視線は、すでに次の工程――原状回復工事の真骨頂へと向けられていた。
「祝勝の余韻に浸るのも束の間だ。諸君、我々の仕事はまだ終わっていない。――これより、全高500メートル足場の全数解体、ならびに『完璧なる5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)』を開始する!」




