第128話:垂直度公差ゼロコンマ零3ミリ:姿勢復元完了
工期22日目、午後15時15分。
地下100階、全高500メートルの世界の心臓『始祖コア』の真下。
第9番ジャッキの油圧暴走事故をエドワードの決死のバルブ遮断とルシアの背圧制御によって乗り越えた現場には、張り詰めた極限の緊張感とともに、奇跡の瞬間を迎えようとする熱気が満ちていた。
南西側の受圧座は、目標リフト量120.00ミリのうち、すでに『118.50ミリ』まで押し上げられていた。
残り、わずか1.50ミリ。
それは、人間の爪の厚みほどの極小の世界であった。
だが、重量10000万トン・全高500メートルの超高層構造物において、この1.5ミリの傾きは頂部において数10センチの偏心を意味する。
妥協は一切許されない。
「全ジャッキ手動操作班、最終微動モードへ移行!」
地上50メートルの中央計測デッキで、アレク・ユグレットの研ぎ澄まされた指示が響いた。
「ニードルバルブを10度ずつパルス操作せよ! 1ストロークあたりの上昇量は0.1ミリ厳守! オーバーシュート(目標値超過)は絶対に許されないぞ!」
「各班、了解! バルブ微動パルス入力開始!」
ルシアが分配マニホールドの微調レバーを慎重に指先で弾いた。
16基の1000万トン級ジャッキから、プシュッ、プシュッという超高圧作動油の微細な排出音が規則正しく鳴り響く。
各ジャッキに張り付いたドワーフと魔王軍の術士たちが、固唾を呑んでミリ単位の目盛りに視線を集中させていた。
シエルが青白いホログラムモニターに張り付き、レーザー変位計の数値を叫び続けた。
「南西側リフト量、119.20ミリ……! 119.50ミリ……! 残り0.50ミリ!」
10000万トンの巨体が、目に見えないほどの超微動で最後の角度を正していく。
基底部の16箇所に設置された高精度水銀平衡水準器の気泡が、外周の目盛りから中央の赤線へと、ゆっくりと、確実に吸い寄せられていく。
周囲の10万人の作業員たちも、息を吸うことすら忘れてその針の動きを見つめていた。
「残り0.20ミリ……! 0.10ミリ……! 0.05ミリ……!」
シエルの声が上ずり、息が止まる。
「0.02……0.01……――目標値120.00ミリ、完全到達ッ!!」
――ピピピピピピピピッ!!
中央計測器から、姿勢復元完了を告げる澄んだ電子音がけたたましく鳴り響いた。
「メインポンプ、昇圧完全停止! 全シリンダー油圧ロック弁、全閉!」
アレクが鋭く号令を下した。
「シエル、全周囲レーザーによる垂直度三次元測定を実施せよ!」
「了解です! 全波長レーザー走査、開始!」
シエルが魔導水晶のキースイッチを叩き込んだ。
足場全周の500メートルにわたって設置された数百台の光学スキャナーから、目も眩むようなエメラルドグリーンのレーザーグリッドが始祖コアの外殻全周へと照射された。
球体の中心軸と、地下岩盤の地軸座標系との相対角度が、瞬時に有限要素解析によって演算されていく。
モニター上に、巨大な解析結果のダイアログが浮かび上がった。
『始祖コア中心軸垂直度測定結果:
設計基準傾斜角:0.000度(完全鉛直)
実測傾斜角:0.0004度
頂部最大水平変位:18.2ミリ(許容公差50.0ミリ以内)
基底部受圧座垂直度公差:実測値『0.032ミリ』(目標許容値0.050ミリ以内)
判定:――完全適合(PASS)』
「測定完了……!」
シエルがメガネを外し、震える両手で顔を覆った。
「垂直度公差、実測値『0.032ミリ』! 目標0.05ミリを大幅にクリア! 世界の心臓『始祖コア』は、1000年前の竣工時と同じ完全なる垂直姿勢を取り戻しました!!」
「よしッ!」
アレクは小さく拳を握りしめ、即座に現場へ次の号令を飛ばした。
「バルガン親方! メカニカルロックピンを挿入せよ! 荷重を油圧から機械固定へ完全に移管しろ!」
「おうよ! 任せとけェッ!!」
基底部デッキで待機していたバルガン親方とドワーフ部隊が、特製のクレーンを操作した。
16基の油圧シリンダーの外周に刻まれた巨大な台形ネジ(スクリュージャッキ部)へ、厚さ300ミリのミスリル鍛造製『安全ロックスリーブ』がガッチリとねじ込まれていく。
さらに、直径500ミリの焼入れ鋼製メカニカルロックピンが、基礎ベースのアンカー孔へと油圧ハンマーで一撃のもとに叩き込まれた。
――ドォォォォンッ!! ガチンッッッ!!
金属と岩盤が完全に噛み合い、10000万トンの巨体が物理的な機械ストッパーによって強固に大地へ固定された。
油圧が万が一抜けたとしても、もはや1ミリたりともコアが沈むことはない。
その瞬間であった。
――ゴォォォォォォォォォォォ……!!
始祖コアの中心部から、大地を揺るがすような重低音の唸りが響き渡った。
3.8度傾いていたことで1000年間滞っていた内部の超高圧エーテル流が、垂直姿勢を取り戻したことによって、本来の主循環ルートへと一気に流れ込んだのだ。
コア全体が、濁りのない清冽なコバルトブルーの光を放ち、規則正しい生命の鼓動を脈打ち始めた。
数秒の静寂。
そして――。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」」」
地下100階、大空洞を埋め尽くす10万人の作業員たちから、天井の岩盤を突き破らんばかりの地鳴りのような大歓声が爆発した!
「立った……! 山のようなコアが、真っ直ぐ立ったぞォォォッ!!」
「やった……! オレたちが、世界の心臓を元の位置に戻したんだ!!」
「エドワード棟梁! アレク主任! 万歳! 原状回復士万歳ッ!!」
ドワーフたちは互いの肩を組み、酒樽のような太い腕で抱き合って涙を流した。
王国兵たちはヘルメットを空へ放り投げ、魔族の術士たちと手を取り合って飛び跳ねていた。
人間、魔族、ドワーフ、エルフ。
かつて地上で血を流し合っていた種族の壁など、この場には微塵も存在しなかった。
10000万トンの奇跡を成し遂げた10万人の職人たちは、ただひとつの巨大な家族となっていたのだ。
「へっ……へへっ……立ちやがったな、バカでかい水晶玉がよ……」
作動油まみれのエドワードが、足場のパイプに背中を預けて座り込み、天井を仰ぎ見て笑った。
その隣に、アレクが静かに歩み寄ってきた。
「エドワード」
「よう、アレク。……見たかよ。0.03ミリだぜ。お前の引いた図面通り、寸分の狂いもなく直立させてやったぞ」
「ああ、見事だった。第9ジャッキの危機をお前が防がなければ、この成功はあり得なかった。総棟梁として、最高の働きだ」
アレクは腰のポーチから清潔なウエス(作業用布)を取り出し、エドワードに手渡した。
「顔を拭け。油が目に入ると角膜を傷める」
「ふっ……相変わらず現場安全規則にうるせえ奴だな」
エドワードは苦笑しながらウエスを受け取り、油まみれの顔をゴシゴシと拭った。
その目尻には、油ではない熱い涙の跡が光っていた。
「おい、アレク。これで……世界は救われたのか?」
「いや」
アレクは首を静かに横に振った。
そして、直立した始祖コアの表面を見上げた。
「姿勢は戻った。だが――本当の修繕工事は、ここからだ」
アレクの言葉を裏付けるように、始祖コアの表面から、不気味な熱気とプラズマのパチパチという放電音が響き始めた。
垂直に戻ったことで、内部の魔力圧力が一気に定格圧力まで跳ね上がったのだ。
その圧力に耐えきれず、外殻結晶に刻まれた無数の亀裂が、白熱した光を放ち始めていた。
「姿勢復元は、あくまで第一段階に過ぎない。次なる工程は、外殻に刻まれた『1842本のクラック』の完全密閉補修だ」
アレクは黄色いヘルメットの鍔を直し、冷徹な目で青白き巨体を見据えた。
「10万人の職人たちよ、歓声はここまでだ。世界の心臓の完全原状回復へ向けて――これより外殻結晶補修工程を開始する!」
その引き締まった声が、新たな挑戦の合図となったのであった。




