第126話:全数同期リフティング:ミリ単位の極限操作
工期22日目、午後14時30分。
地下100階、全高500メートルの世界の心臓『始祖コア』の真下。
直径300メートルの円形基礎の周囲を取り囲む16基の1000万トン級油圧ジャッキには、すでに50メガパスカルの初期圧力が負荷され、10000万トンの巨躯が大地から微かに浮き上がろうとする寸前の『ゼロ負荷平衡状態』が形成されていた。
周囲の空気が、高密度のエーテルと作動油の独特な機械油の匂いで満ちている。
誰もが唾を飲み込み、胸元に掲げた無線機や工具を握りしめていた。
失敗すれば、10000万トンの結晶巨体が台座から滑落し、大空洞はおろか大陸全土のダンジョンが連鎖崩壊を起こす。
成功すれば、人類が神代の遺産を自らの手で矯正する、前代未聞の原状回復の金字塔となる。
10万人全員の視線が、地上50メートルの中央計測デッキに立つ、黄色いヘルメットの青年に注がれていた。
「シエル、全16箇所のレーザー変位計、通信チェックを」
アレク・ユグレットが、中央操作盤のマイクに向かって静かに命じた。
「はい! 第1番から第16番センサー、光軸調整すべて完了! サンプリング周波数1000ヘルツ、変位分解能0.001ミリ(1マイクロメートル)で稼働中です!」
シエルが青白く光る大型魔導ホログラムモニターを展開した。
そこには、始祖コアの円周16箇所の受圧座のリアルタイム変位グラフが、精密な数値とともに表示されていた。
「初期傾斜角、南西方向に3.782度。姿勢復元のための目標上昇量は、南西側の第8番・第9番ジャッキが最大『120.00ミリ』、対角の北東側第1番・第16番ジャッキが『0.00ミリ(ヒンジ支点)』となります!」
「うむ。南西側を押し上げ、北東側を支点として回転させる『偏心チルトアップ工法』だ」
アレクは手元の図面バインダーを指先でなぞった。
「各ジャッキの上昇速度は、円周上の位置角度に応じて厳密に比例配分される。全基の同調許容誤差は――『0.05ミリ』以内。これを超えた瞬間、受圧座に局所的な曲げモーメントが発生し、結晶に致命的なクラックが入るぞ」
「全ジャッキ手動操作班、配置完了しておりますわ!」
ルシアが中央マニホールドの巨大な分配レバーを両手で握り、凛とした声で報告した。
「ドワーフのベテラン鍛冶師と魔王軍の精密術士が、各ジャッキのニードルバルブに2名1組で張り付いております! アレク様のカウントに合わせて、ミリ単位でバルブを開閉いたします!」
「よし」
アレクは首から下げた真鍮のホイッスルを咥えた。
大空洞を埋め尽くす10万人の作業員たちが、固唾を呑んで中央デッキを見つめている。
風の音さえ止まったような静寂の中、秒針の進む音だけがやけに大きく響いた。
――ピィィィィィッ!!
鋭い笛の音が、静まり返った大空間を切り裂いた。
「リフティング開始! メイン油圧ポンプ、昇圧開始! 目標圧力180メガパスカルへ!」
ゴオオオオオオオオオッ……!!
ルシアが魔導バルブを一気に開くと、地下90階から直結された高圧配管が激しく脈動した。
深紅の超高圧作動油『クリムゾン・フルード9000』が、太さ200ミリのミスリルホースを通じて、16基のシリンダー内部へと均等に圧送されていく。
ギギギ……メキメキメキメキッ……!!
地底の岩盤が、かつて聞いたこともない凄まじい軋み音を立てた。
16本の太さ1.8メートルの積層鍛造ミスリルピストンが、ミリ単位で頭をもたげていく。
球面調心座金に挟まれた積層テフロンゴムが極限まで圧縮され、摩擦音を響かせながら角度を変えていく。
それは、重力という世界の絶対法則に、人間の計算と機械の力が真っ向から挑みかかる瞬間であった。
「圧力120メガパスカル! 140……160……180メガパスカル到達!」
ルシアが計器を見つめながら叫ぶ。
「第8番、第9番ジャッキ、リフト量10ミリを突破! 第7番、第10番ジャッキ、9.2ミリ! 第6番、第11番、7.1ミリ!」
シエルがホログラムの数値を読み上げながら、狂ったように指示を飛ばす。
「第5番ジャッキ、進度が0.03ミリ遅れています! バルブを0.2度開いてください! 第12番ジャッキ、0.02ミリ先行しています! ニードルを絞って!」
「第5番、了解! バルブ微開!」
「第12番、絞り込みました! 同調率99.8パーセントに復帰!」
無線機越しに、各ジャッキに張り付いた職人たちの必死の叫びが交錯する。
ズズズズズズ……ッ!
持ち上がっている。
全高500メートル、重量10000万トン。
山ひとつ分に匹敵する世界の心臓が、人間の手のひらよりも細い作動油の膜に乗って、大空洞の空へとゆっくりと、ミリ単位で姿勢を正し始めていた。
「すげぇ……本当に持ち上がってやがる……!」
第9ジャッキの脇で、安全監視員として目を光らせていたエドワードが息を呑んだ。
「あの重たい巨体が、まるで羽毛みたいに静かに……! アレクの計算通りに起き上がってきてるぞ!」
「油圧のパスカルの原理を舐めるな」
隣で腕組みをしていた師匠ガントが、煙管を咥えたままニヤリと笑った。
「どれほど巨大な質量だろうと、断面積を広げて圧力を均等に配れば、指1本の力で山だって動かせる。それが道具を使うってことだ。……だが、一番恐ろしいのは、持ち上がった瞬間じゃねえ。『重心が移動する過渡期』だ」
ガントの言葉通りであった。
始祖コアの傾斜角が3.7度から2.5度、2.0度へと減少するにつれ、内部で偏っていた超高圧エーテルの流動バランスが激変を起こし始めたのだ。
ドクンッ……!! ドクンッ……!!
始祖コアの巨大結晶が、まるで心臓の鼓動のように激しい脈動を打ち始めた。
内部の魔力圧力が乱高下し、10000万トンの重心が南西から中心へ向かって、振り子のように激しく微動を繰り返す。
「アレク主任! 重心移動に伴う偏荷重が発生! 第8番、第9番ジャッキの内圧が急上昇! 210メガパスカルを記録しました! 設計耐圧の限界に近づいています!」
シエルが悲鳴のような声を上げた。
モニター上の第8番・第9番のバーグラフが、危険を示す真紅の警告色へと染まる。
「慌てるな。ルシア、第8・第9系統の作動油の一部を、クロスオーバーバイパスを通じて第1・第16系統へ逃がせ! 油圧のシーソー効果(荷重分散)を利用して内圧を均等化させろ!」
「了解ですわ! クロスオーバー弁、開度15パーセント!」
ルシアの熟練のバルブ捌きによって、噴き上がりかけた圧力が一瞬で対角側のシリンダーへと逃がされた。
針の先を通すような繊細な流体制御。
16基の油圧シリンダーは、まるでひとつの生き物の筋肉のように協調し、激震する巨体をしっかりと受け止め続けた。
「リフト量、南西側80ミリを突破! 傾斜角、残り1.2度!」
シエルの声に、熱い希望が宿り始めた。
「同調誤差、最大0.021ミリ! 許容値を完全にクリアしています!」
「あと40ミリ……! あと40ミリ押し上げれば、1000年前の完全直立姿勢に戻るぞ!」
エドワードが拳を握りしめ、咆哮した。
周囲の職人たちからも、思わず拳を突き上げる歓声が漏れかけた。
だが――神話の時代の遺物は、そう簡単に人間に降伏する気はなかった。
――バキィィィィィィィィンッッッ!!!!
大空洞の空気を切り裂く、雷鳴のような金属破壊音が炸裂した。
北東側の台座で極限の張力に耐えていた、残存アンカーボルトのうちの1本――太さ800ミリのミスリル鋼製『第6号アンカーボルト』が、重心移動の衝撃荷重に耐えきれず、根元から爆発的に破断したのである。
ちぎれた数100トンのボルトの頭が超音速で弾け飛び、地底の岩壁に激突して粉々になった。
「きゃあああっ……!?」
「うわああああっ!?」
ボルトの破断によって拘束を失った数100万トンの衝撃荷重が、解放された反動として、南西側の油圧ジャッキ群――とりわけ『第9番ジャッキ』へと、一極集中で容赦なく叩きつけられたのである。




