第123話:定時退社17時00分の絶対防衛線
工期20日目、午後16時40分。
世界の心臓『始祖コア』の周囲を取り囲む超高層自立式立体トラス足場は、猛烈な施工スピードを維持したまま、ついに全高500メートルの8割に相当する『高度400メートル』に到達していた。
地下100階の巨大空洞は、徐々に夕闇に似た静けさ――いや、魔力鉱石の周期減光による「擬似的な薄暮」に包まれ始めていた。
天井の苔と発光結晶の照度がゆるやかに低下し、足場の銀色の骨組みが淡い群青色へと染まっていく。
そんな中、高度400メートルの最前線、風が吹き荒れるキャットウォークの上で、一人の男が憑りつかれたような勢いでチタンラチェットを振り回していた。
――カカカカカンッ! ガチンッ!!
――カカカカカンッ! ガチンッ!!
「おい、次の単管パイプ持ってこい! あとブレース20本だ! 第4工区のリングビーム接合部、あと少しで第1セクションが完全に繋がるぞ! 急げ、手を休めるな!」
エドワードであった。
二本線ヘルメットの下の額から大粒の汗を滴らせ、元勇者としての底なしの体力を総動員して、猛烈なスピードでボルトを締め上げていた。
その背後では、8000名の鳶職人たちも息を切らしながらパイプを運び、クランプを噛ませている。
職人たちの動きは確かに迅速だった。
しかし――その足取りには、明らかな『鈍さ』と『ブレ』が混じり始めていた。
腕を伸ばすたびに微かな震えが生じ、工具を握る指先が滑り、呼吸の乱れが周囲の静寂に混じって響く。
ピピッ――ピピッ――ピピッ。
エドワードの胸元の魔導スマートウォッチ型タイマーが、16時45分を告げる電子音を鳴らした。
「棟梁! 16時45分です! 定時15分前のアラームが鳴りました!」
若手の鳶職人が息を切らしながら叫んだ。
「通常なら、今すぐ作業を中断して工具の片付けと清掃に入らなければならない時刻です!」
「うるせえ! あと1時間……いや、たった30分あれば、この第4工区の外周リングが完全に一周繋がるんだ!」
エドワードはラチェットを振り下ろしながら怒鳴り返した。
「コアの寿命は残り10日を切ってんだぞ!? ここで作業を止めて明日へ持ち越すより、今日中にこのリングを閉合させた方が、足場全体の剛性だって格段に跳ね上がるはずだ! 全員、残業だ! あと30分だけオレに付き合え! 残業手当はオレの時給1500ゴールドから全員分出してやる!」
「「「お、おおおおっ……!!」」」
元勇者の凄まじい熱気に押され、職人たちからも興奮交じりの雄叫びが上がりかけた。
誰もが「世界を救う突貫工事」の興奮に酔いしれ、限界を超えて前へ進もうとしていた。
だが――その熱狂を、冷や水を浴びせかけるように切り裂く声が響いた。
『――作業中止。全作業員、その場で直ちに工具を置け』
高度400メートルの全スピーカーから、静まり返った氷のような声音が響き渡った。
それは拡声器を通した、アレク・ユグレットの絶対的な命令であった。
「ア、アレク……!?」
エドワードがトランシーバーを掴んで叫んだ。
「邪魔するな! あと30分なんだ! あと30分残業すりゃあ、第4工区が繋がって、明日の朝イチから第5工区へ突入できる! オレたちの気合を削ぐなよ!」
『却下する』
アレクの声音には、一切の躊躇も妥協もなかった。
『16時45分。本日の作業終了時刻まで、残り15分。これより『作業後5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)』および『工具員数点検(員数確認)』へ移行せよ。直ちにボルト締めを中止し、工具を腰袋に収めろ』
「なんでだよッ!?」
エドワードが悔しげに手すりパイプを叩いた。
「世界が滅びかけてるんだぞ!? コアが自壊したら10万人全員死ぬんだ! たかが30分の残業くらい、命懸けの現場なら当たり前だろうが! オレは元気だ! まだまだラチェットを振れる!」
その時であった。
ヒュオオオオオッ……と風を切る音とともに、高速魔導リフトが高度400メートルのデッキに滑り込んできた。
ケージから降り立ったのは、黄色いヘルメットを被り、図面バインダーを小脇に抱えた現場監督――アレク・ユグレットその人であった。
隣には、血圧計と赤外線体温スキャナーを抱えたシエルと、冷えた麦茶のポットを持ったルシア、そして苦笑いを浮かべた師匠ガントが従っていた。
「アレク……わざわざここまで上がってきたのかよ……」
エドワードが息を呑む。
アレクは無言のまま、スタスタとエドワードの元へと歩み寄った。
そして、エドワードの背後に並ぶ鳶職人たちを一瞥した。
「シエル、バイタルデータを読み上げろ」
「はい!」
シエルが水晶板のグラフを指差した。
「第4工区作業員8000名中、筋疲労係数レッドゾーンが62パーセント。血中乳酸濃度は基準値の2.8倍。瞳孔反射速度が通常の40パーセントまで低下しています。この状態で薄暮時の高度400メートル作業を続行した場合、今後30分以内の重大墜落災害発生確率は――実に『87.4パーセント』に達します!」
「なっ……!?」
エドワードが言葉を失った。
「聞いたか、エドワード」
アレクは静かに、しかし鋼のように重い言葉を突きつけた。
「夕暮れ時の薄暗がり、そして終業間際の疲労と焦り――これこそが、建設現場における『魔の時間』だ」
アレクはエドワードの足元を指差した。
「お前は『あと30分』と言った。だが、その30分の間に、誰か一人が疲労で足を踏み外し、高度400メートルから墜落したらどうなる?」
「そ、それは……安全帯をしてるから……!」
「安全帯があっても、高度400メートルの突風の中で宙吊りになれば、ショックアブソーバーの衝撃で内臓破裂や骨折を起こす。さらに落下の反動で跳ねた単管パイプが直下の作業員を直撃すれば、10万人の現場は一瞬で大混乱に陥る」
アレクは一歩踏み込み、エドワードのヘルメットの鍔をコンと人差し指で弾いた。
「事故が一件でも発生すれば、原因究明と現場検証、安全対策の見直しのために、全工事は最低でも3日間完全にストップする。お前が欲しがった『たった30分の前進』のために、現場全体が『3日間の停滞』を支払うことになるんだ。――それが、施工管理者としての計算だ」
「ぐっ……」
エドワードは言葉に詰まり、唇を強く噛み締めた。
「エドワード」
師匠ガントが煙管をポケットに仕舞い、進み出て元勇者の肩にゴツゴツとした掌を置いた。
「儂も昔はな、おめえと同じだった。若い頃、工期に追われて夜業(徹夜作業)を強行し、儂の一番優秀だった相棒を地上100メートルの梁から落とした。……あいつは死ななかったが、二度とラチェットを握れねえ体になっちまった」
ガントの瞳に、10年前の深い悔恨の光が揺らめいていた。
「焦って夜遅くまで工具を振り回すのは、職人の根性じゃねえ。ただの怠慢だ。明日の朝、昇る太陽の下で万全の体調で挑む……それができねえ奴は、一流の職人とは呼ばねえんだよ」
「ガントのジジイ……」
エドワードの目から、張り詰めていた殺気がフッと消え去った。
「エドワード、お前の熱意は評価する」
アレクの表情が、わずかに柔らかくなった。
「だが、原状回復士の最大の使命は、工期を守ることだけではない。『作業員全員を、無傷で、笑って定時に家に帰すこと』だ。誰一人欠けても、この始祖ダンジョンの原状回復は完成しない」
アレクは懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開いた。
「現在時刻、16時50分。全班、工具を片付けろ。トルクレンチとラチェットの本数を指さし確認し、整理整頓を実施せよ。17時0分、完全定時退社とする!」
一瞬の静寂の後――エドワードが深々と息を吐き出し、チタンラチェットをホルスターにカチリと納めた。
そして、顔を上げて破顔した。
「……へっ! 完敗だ! アレク、お前の言う通りだよ! おい、野郎どもッ!!」
エドワードは振り返り、喉が裂けんばかりの声で号令を下した。
「工具を片付けろ! ボルト1本、ワッシャー1枚たりとも空中に置き去りにするな! 道具箱をロックして、全員で17時0分ちょうどに地上へ降りるぞ! 今夜はルシアの野戦炊事場で、美味い飯を食ってぐっすり寝るんだ!」
「「「アイアイサーッ!!!!」」」
職人たちの顔に、安堵と晴れやかな笑顔が広がった。
キビキビとした動きで工具が点検され、足場の通路は塵ひとつない清潔な状態へと整えられていく。
16時59分50秒――。
「5、4、3、2、1……17時0分! 本日の作業、完全終了!」
アレクの宣言とともに、終業の鐘の音が大空洞の隅々まで澄み渡るように響き渡った。
10万人の作業員たちが、夕暮れの淡い光に包まれながら、整然とリフトやタラップを使って地上へと帰還していく。
無事故、無災害。
世界滅亡のタイムリミットが迫る地下100階の最深部において、何よりも尊い『絶対防衛線・17時0分の定時退社』が、本日も完璧に死守されたのであった。




