第119話:師匠ガントとの合流:10年の孤独な戦い
地下100階『始祖コアの間』。
全高500メートルの青白き巨大結晶が放つ莫大な神聖魔力と、基部から漏れ出す摂氏200度の高圧蒸気が渦巻く最深部。
アレク・ユグレットは、黄色いヘルメットの紐を締め直し、手元に愛用の真鍮製スケールを握りしめて、蒸気の帳を掻き分けながら歩みを進めていた。
後方からは、息を呑んで見守るエドワード、シエル、ルシア、リリアナ、そして10万人の作業員たちの視線が注がれている。
シューッ……ギギギギギッ……!
コアの直下、玄武岩の基盤と巨大結晶が接する直径50メートルの支持台座。
そこには、破断した太さ200ミリメートルのアンカーボルトの残骸が散乱し、1000年前の油圧配管から噴き出す蒸気が白煙となって立ち込めていた。
足元には、すり減った何10本ものヤスリ、千切れたゴムパッキン、そして空になった油脂缶の山が転がっている。
この10年間、どれほど過酷な戦いがこの暗闇の中で繰り広げられてきたのか、散乱する道具の残骸が雄弁に物語っていた。
そして――その白煙の中心に、その男はいた。
油と煤で真っ黒に汚れた、擦り切れだらけの革製作業服。
白髪交じりの無精髭を蓄え、額には幾筋もの古傷が刻まれた筋骨隆々の老人。
男は、破断寸前で激しく振動する主幹バイパス制御バルブに、身の丈ほどもある超特大の鋼鉄パイプレンチを噛ませ、両足を踏ん張って、たった一人で全体重をかけて抑え込んでいた。
ギチ……ギチ……と、レンチの柄が悲鳴を上げる。
老人の両腕の血管が太く浮き上がり、歯を食いしばる口元からは、赤い血が微かに滲んでいた。
背中には、熱傷と火花によって焼け焦げた無数の痕跡。
それでも老人の瞳は、1ミリたりともバルブの針から逸れることなく、獲物を狙う猛禽のようにギラギラと輝いていた。
「くそっ……踏ん張りな、世界の心臓……! まだだ……まだ折れるんじゃねえぞ……!」
老人が嗄れた声で怒鳴り、バルブの逆流を腕力だけでねじ伏せている。
10年間。
地上からの補給も、交代要員もなく。
誰に褒められることもなく、歴史書に名前が載ることもなく。
世界の滅亡をその双肩だけで押し留め、暗闇の中でたった1本のレンチを握り締め続けてきた老職人――師匠ガントの姿が、そこにあった。
「……師匠」
アレクの静かな声が、蒸気音を切り裂いて届いた。
老人の背中が、ピクリと止まった。
だが、老人はバルブを抑え込む両腕の力を微塵も緩めることなく、煙草の吸い殻を咥えた口の端を歪めて、振り向きもせずに怒鳴り散らした。
「遅えぞバカ弟子!! 煙草のシケモクもとっくに切れちまったぜ!!」
「「「あっ……!」」」
後方で息を呑んでいたエドワードたちが、目を見張った。
アレクは一切歩調を乱すことなく、老人の隣へと歩み寄った。
そして、自らの腰のホルダーから超特大ラチェットレンチを抜き放つと、老人が抑え込むバルブの反対側のフランジボルトへ、ガキンッと完璧な噛み合わせで叩き込んだ。
「遅くなりました。地上から地下100階までの資材搬送ライン、全工区開通。――作業員10万人、点検重機百台、古代竣工図面千二百枚を連れて参りました」
カチ、カチ、カチッ!
アレクがレンチの柄に体重を預けると、老人の腕にかかっていた数トンの逆流圧力が瞬時に2分され、暴れ狂っていたバルブがピタリと安定した。
「……ふん」
ガントは横目で弟子の顔を睨みつけ、鼻を鳴らした。
「ヘルメットの二本線……相変わらずチリひとつついてねえ綺麗な被り方しやがって。図面も持ってきただと? 儂の手計算と答え合わせは済んだのか?」
「はい。師匠が地下95階の壁に遺された計算式と、1000年前の竣工原図の設計値は、剪断応力・固有振動数ともに小数点以下第3位まで完全に一致していました。――手戻りゼロ、計算ミスの欠片もありません」
「当たり前だ、阿呆が。誰が仕込んだ弟子だと思ってやがる」
ガントは咥えていた消えかけの煙草を吐き捨て、フッと口元を緩めた。
だが、その濁った瞳の奥には、10年の孤独と激闘を乗り越えて目の前に現れた愛弟子に対する、言葉にできない熱い誇りと安堵が宿っていた。
「おい、エドワード! そこに突っ立ってるアホ面の元勇者!」
突然名前を呼ばれ、エドワードがビクッと跳び上がった。
「は、はいっ!? ガントの親方!」
「二本線のヘルメットに、時給1500ゴールドの腕章か。少しは足場鳶の面構えになったじゃねえか。……おい、腰のラチェットは飾りか? このバルブのフランジ、締め付けトルク600ニュートンメートルで増し締めしろ! ボヤボヤしてると時給を800ゴールドに減給するぞ!」
「へ、へいっ! ただいま!!」
エドワードが駆け寄り、叫びながらチタンラチェットをボルトへ噛み合わせた。
ダダダダッ!と甲高い打撃音が響き、バルブが完全に固定される。
プシュゥゥゥ……。
10年間、老人の全身を焼き続けていた高圧蒸気の漏洩が、三人の職人の手によって、ついに完全に止まった。
ガントはレンチからゆっくりと両手を離し、ガクンと膝をつきそうになった。
その肩を、アレクの白手袋の手がしっかりと支える。
「……10年間、お疲れ様でした、師匠。世界の心臓の維持、ここからは私たちが引き継ぎます」
「……ああ」
老棟梁は弟子の肩に手を置き、深く息を吐き出した。
「任せたぜ、アレク。てめえの現場だ。――好きに元通りに直して帰れ」
そこへ、救護班のリリアナと、炊事班のルシアが駆け寄ってきた。
「親方様! 動いてはいけません、全身が火傷と脱水症状です!」
リリアナが両手から眩い神聖治癒光を放ち、ガントの傷だらけの腕と肩を包み込む。
「ふん……聖女の小娘か。生ぬるい光なんぞ浴びせおって……」
「文句を言わないでください! アレク様がどれほど心配されていたと思っているのですか! ……もう、頑固な職人さんはこれだから困ります♡」
リリアナのプンプン怒りながらの慈愛の治療に、老棟梁は苦笑いしながら身を任せた。
「ガント様、温かい麦茶と、特製の塩分補給スープです! 召し上がってください!」
ルシアが湯気の立つ木製椀を差し出すと、ガントはゴクゴクと喉を鳴らして飲み干し、ふうと息をついた。
「……五臓六腑に染み渡るぜ。魔王領の娘の飯も、悪くねえもんだな」
「はいっ! 魔王領営繕部・施設管理課長ルシアです! 地下95階の配管切り替えは、私が指揮しました!」
「がっはっは! アレクの野郎、魔王軍の施設課長まで部下に引き入れやがったか! 痛快だぜ!」
シエルもまた、胸の前で1200枚の古代図面ケースを抱きしめて涙ぐんでいた。
「親方様……本当によく、ご無事で……! 先輩も、私たちも、親方の遺してくださった計算式を道標にして、ここまで辿り着けたんです!」
「泣くんじゃねえ、小娘。……図面を抱えてるその腕、一人前の施工管理技士の顔つきだ。アレクをしっかり支えてやってくれ」
「はいっ!!」
「師匠、救護テントで横になって休んでいてください。ここから先は私の仕事です」
アレクが静かに告げると、ガントは煙草の代わりにルシアの麦茶をすすりながら、ニッと笑った。
「休めだと? バカ言え。てめえのボルト締めの腕前が落ちてねえか、特等席で見届けさせてもらうぜ。……おいアレク、敷金は全額ぶんどる腹づもりなんだろうな?」
「当然です。1ゴールドの端数も残さず回収します」
「がっはっは! それでこそ儂の一番弟子だ!」
白煙が晴れた地下100階の台座。
第1話から張り巡らされてきた最大の伏線、10年の時を超えた師弟の再会。
老いた巨人の不屈の闘志を受け継いだ東西合同原状回復隊は、世界の心臓を蘇らせる前人未到の大工事――『全高500メートル自立トラス足場架設』へと、一丸となって突撃を開始するのであった。




