第115話:最深部到達前夜:10万人の道具手入れ
工期18日目の午後18時00分。
地下98階の地獄の間欠泉地帯を突破した東西合同原状回復隊は、最深部直前の『地下99階最終集積基地』へと全軍の展開を完了させていた。
そこは、地下100階・始祖コアの間に通じる巨大封印隔壁の直前に広がる、直径1キロメートルの円形ホールであった。
整然と並ぶ100台のアブソリュート・ゴーレムの足元には、5000トンに及ぶミスリルトラス鉄骨、128本の特大ケミカルアンカーボルト、16台の超高圧10000万トン同調油圧ジャッキ、そして数十万ドラム缶に及ぶ魔導接着樹脂が、寸分の狂いもなく区画ごとに集積されていた。
天井からは高輝度魔導照明が吊り下げられ、白銀の金属床には黄色と黒のトラ縞テープで整然と歩行帯と資材仮置き場が区分けされている。
だが、この夜の基地には、宴会の騒ぎ声も、大声を上げて騒ぐ者も一人としていなかった。
ホールを満たしていたのは、ただ静かにパチパチと爆ぜる無数の篝火の炎と、規則正しい金属の手入れ音だけであった。
シュッ、シュッ、シュッ……。
カチ、カチ、カチ……。
10万人の職人たちが、篝火の灯りを囲んで車座になり、膝の上に置いた己の道具を黙々と磨き上げていた。
ドワーフの鍛冶師は、明日始祖コアの亀裂を削るための特注タガネを、油砥石で一筋の狂いもなく研ぎ澄ましている。
王国の重装兵たちは、高所作業用の安全帯のベルトを1本ずつ指先でなぞり、縫い目のほつれやD環フックのバネの戻りを念入りに点検していた。
魔王領の屈強なオークたちもまた、巨大な両口ハンマーの樫の木柄にクサビを打ち込み、グラつきが1ミリたりともないことを入念に確かめている。
エルフの精密技師たちは、マイクロメーターやノギスのゼロ点校正をルーペで覗き込みながら、ダイヤルの狂いを微細調整していた。
「……静かだな」
見回りの途中で足を止めたエドワードが、静寂に包まれた10万人の男たちを見渡して呟いた。
「明日は世界の心臓を丸ごと持ち上げる、前代未聞の大改修だっていうのに……誰一人、怖がって震えてる奴も、浮かれて騒いでる奴もいねえ」
「道具を手入れしている職人は、迷わない」
隣を歩くアレク・ユグレットが、穏やかな声で答えた。
「不安や恐怖は、準備不足から生まれるものだ。だが彼らは、自らの手で道具を研ぎ、ボルトの噛み合わせを確かめ、明日自分が果たすべき役割を指先で理解している。道具に油を差す行為は、己の心を研ぎ澄ます儀式と同じだ」
二人は、基地の中央に設けられた管理本部のテントへと戻った。
テントの中では、小さな野戦ランタンの灯りの下、シエル、ルシア、そしてリリアナが車座になって温かい飲み物を口にしていた。
「先輩、エドワードさん、おかえりなさい」
シエルが立ち上がり、二人に湯気の立つ木製マグカップを手渡す。
「野草と干し果実を煮出した特製のリラックスティーです。精神安定と血行促進の効果がありますよ」
「ありがとな、シエルちゃん。……ふう、五臓六腑に染み渡るぜ」
エドワードが腰を下ろし、一気に飲み干す。
「エドワード様、背中の作業着、綺麗に縫い直しておきましたよ」
リリアナが丁寧に畳まれた作業着を手渡した。
「解れやすい縫い目には、聖別された強靭な絹糸を三重に織り込んでおきました。明日の高所作業で、絶対に破れたりしませんように」
「お、おう……! サンキューな、リリアナ。お前、聖女なのに裁縫までできるんだな」
「当然です。神殿の祭服の繕い物は、見習い時代からの日課でしたから。……それに、命を預かる足場棟梁の服ですから、粗末な仕事はできません」
リリアナの柔らかな微笑みに、エドワードは照れ臭そうに作業着を抱きしめた。
「アレク様、明日の工程表の最終チェックはお済みですか?」
ルシアが膝の上に広げた1200枚の古代図面の束を見上げ、尋ねる。
「ああ。すべて完了した」
アレクは手元のバインダーを静かに閉じた。
「工期は残り12日。明日の午前8時00分、地下100階への三重封印扉を開放し、直ちに始祖コア基部への『全高500メートル自立式トラス足場』の架設を開始する。初日の目標は第1層から第5層、高さ100メートルまでの骨組み立ち上げだ」
「高さ100メートル……! たった1日でそこまで組み上げるのか!?」
エドワードが目を丸くする。
「100台の点検ゴーレムがクレーンとして稼働し、10万人が一糸乱れぬ連携をとれば、物理的に完全に可能な工数だ」
アレクの瞳には、絶対の確信が宿っていた。
「そして何よりも――明日は、10年間たった一人でコアを支え続けてきた師匠ガントと合流する日だ」
アレクの瞳には、絶対の確信と、恩師への熱い思慕が宿っていた。
「ガントの親方……」
エドワードが唾を呑み込む。
「10年もたった一人で、あの化け物みてえなコアを支えてたんだもんな。……オレたちが行ったら、なんて言うかな」
「『遅えぞバカ弟子、煙草のシケモクも切れちまったぜ』――そう毒づくに決まっている」
アレクが珍しく懐かしむように小さく微笑んだ。
「師匠は昔から、弱音や愚痴を一切口にしない男だった。どんな過酷な現場でも、ハンマーを握り、図面を睨み、背中で仕事を教えてくれた。……10年待たせた無礼を詫びるには、完璧な仕事で応える以外にない」
そこへ、通信水晶モニターが青白く輝き、地上の副ギルドマスター・エレノアの端正な顔が映し出された。
『アレク、聞こえるかしら? 地上からの最終兵站連絡よ』
「エレノア様。全工区、予定通り地下99階への集積を完了しました」
『素晴らしいわ。地上でも、王都と魔王領の全首脳陣が固唾を呑んで見守っているわよ。……あなたが要請した追加の極太ミスリルワイヤーロープ800本と、最高純度の魔導エポキシ硬化剤1万缶、先ほど地下90階の軌道トロッコで前線へ向けて発車したわ。明朝の作業開始前には、確実にあなたの足元へ届くはずよ』
「感謝いたします、エレノア様。敷金枠の追加拠出も滞りありませんか?」
『ふふ、心配いらないわ。王国議会の貴族たちも、魔王城の強硬派の魔族たちも、あなたたちの圧倒的な進軍速度と事故ゼロの安全実績を見て、もはや誰一人異論を唱える者はいなくなったわ。「原状回復士アレクの請求書には、即座に全額判子を押せ」というのが、今の最高評議会の合言葉よ』
「結構です。不当な値引き要求がない限り、我々は完璧な施工で返します」
『頼りにしているわ。……明日は世界の心臓を開放する日。くれぐれも定時退社の精神を忘れず、10万人全員を生かして帰しなさい』
「了解です」
通信が切断された後、アレクは立ち上がり、テントの出口から外を見つめた。
篝火の温かい光が、10万人のヘルメットを照らし出している。
ドワーフも、エルフも、人間も、オークも、かつての敵味方の区別など跡形もなく、ただ一つの「明日を創るチーム」として静かに眠りへと就こうとしていた。
「皆、明日の朝礼は午前7時30分だ。今夜は余計なことを考えず、泥のように眠れ」
アレクが全員に向かって静かに告げると、仲間たちは温かな笑みを浮かべて頷き合った。
外の広場からは、なおも夜の静寂を刻むように、道具を磨く澄んだ金属音が微かに響いていた。
研ぎ澄まされた刃先、油を差されたラチェットの歯車、そして固く結ばれた安全帯。
10万人の職人の誇りが集結した地下99階の夜は、静かに、そして力強く更けていくのであった。




