第113話:エドワード、時給1500ゴールドへの昇給査定
工期16日目の午後16時30分。
地下95階の前線詰所ヤードでは、本日の作業終了と安全点検を控えた10万人の職人たちが、道具の員数確認を終えて広場に集まっていた。
朝礼台の上に立った現場総監督アレク・ユグレットは、手元の査定バインダーを開き、静かにメガホンを手にとった。
「定時退社点呼の前に、1点、人事査定の発表を行う。王都復興ギルド連合および魔王領営繕局の合同人事評価委員会による、厳正なる能力審査結果の通達だ」
アレクのよく通る声に、10万人の視線が一斉に朝礼台へと集まった。
「足場架設班長、エドワード。前へ」
「……えっ!? オ、オレ!?」
朝礼台の脇でパイプを拭いていた二本線ヘルメットのエドワードが、素っ頓狂な声を上げた。
「な、なんだよアレク! オレ、今日はボルトの締め忘れも手抜きも一切してねえぞ! ヘルメットの二本線、剥奪されるようなヘマはしてねえはずだ! 安全帯も二丁掛けで完全にロックしてたし、KY活動(危険予知)だって毎朝声出してやってたぞ!」
「いいから登壇しろ」
アレクに促され、エドワードはおっかなびっくり朝礼台の階段を上がった。
全身泥とグリスまみれ、破れた作業着をリリアナに応急処置してもらった元勇者が、アレクの正面に直立不動で立つ。
アレクは白手袋の手で、一枚の公的な羊皮紙――原状回復ギルド公式の人事辞令書を広げた。
そこには副ギルドマスター・エレノアの金箔印と、魔王領代表の承認印が誇らしげに押印されていた。
「辞令。エドワード殿。貴殿は工期初日の地下50階突破から本日地下95階に至るまで、危険高所における仮設トラス足場架設、カンチレバー工法による谷越え連絡橋の迅速施工、さらには古代点検巨兵に対する目隠し足場構築など、現場の安全確保と工期短縮において極めて顕著な功績を挙げた」
「あ、功績……?」
エドワードが目を白黒させる。
「よって、本日付を以て、貴殿の現場職階を『見習い作業員』から『上級足場架設主任』へと昇格させる。それに伴い、基本賃金を現在の時給1200ゴールドから――『時給1500ゴールド』へと改定する」
「「「おおおおおおおおっ……!?」」」
10万人の職人たちから、地鳴りのような歓声が沸き起こった!
「じ、時給……1500ゴールド……!?」
エドワードは辞令書を見つめたまま、雷に打たれたように硬直した。
時給1500ゴールド。
一般的な王国の平民の平均日給が約1000ゴールドであるこの世界において、わずか1時間の労働でその1.5倍を稼ぎ出すという、超一流の特級職人だけに許された破格の待遇であった。
「かつてお前は、迷宮をただ力任せに破壊し、多額の損害賠償を請求されるだけの『借金勇者』であった」
アレクの碧眼が、エドワードの真っ直ぐな瞳を捉えた。
「だが今のお前は、他者の命を守るために命綱を握り、仲間の足元を支えるために誰よりも早く高所へ登る、本物の足場鳶だ。この昇給は温情でも施しでもない。お前が流した汗と技術に対する、正当な対価だ」
「アレク……」
エドワードの二本線ヘルメットの下から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
手にした辞令書が、震える指先でくしゃりと音を立てる。
「オレ……最初は、借金を返すためだけに足場を担いでた……。勇者の肩書きを失って、泥水すすって、なんでオレがこんな鉄パイプなんか運ばなきゃならねえんだって、腐りそうになったこともあった……」
元勇者は鼻をすすり、泥だらけの袖で涙を拭った。
「だけどよ……! オレが組んだ足場の上を、ドワーフの爺さんやオークの兄ちゃんたちが笑いながら歩いて、重い荷物を運んでいくのを見たとき……胸の奥が熱くなったんだ! 誰かを傷つけるための剣を振るうより、誰かが歩くための道を作る方が、百倍誇らしいって分かったんだよ……!」
エドワードは朝礼台の上で、10万人の仲間たちに向かってヘルメットを高く掲げ、涙声で絶叫した。
「時給1500ゴールド……! ありがとなアレク! ありがとな、みんな! オレ、地下100階の始祖コア周りには、世界で一番頑丈で、誰一人落ちねえ最高の500メートルトラス足場を組んでやるからなァッ!!」
「「「うおおおおおおおおっ!!!! エドワード主任!!!」」」
「「「棟梁! ついていくぜぇぇぇっ!!!」」」
10万人の現場男たちが、ヘルメットを宙に投げ上げて叫び、拍手と指笛を鳴らした。
オークの職人が号泣し、ドワーフの親方たちがエドワードの背中をバンバンと叩く。
シエルが笑顔で会計帳簿を開いて書き添えた。
「エドワードさん、現在の時給1500ゴールド、1日8時間労働で日給1万2000ゴールドです! 残りの損害賠償残高も、この調子で現場が無事故で完了すれば、完済が見えてきますよ!」
「ほ、本当かシエルちゃん!? オレ、本当に借金を全額返せるのか……!?」
「はい! 借金を完済した暁には、エドワードさんは名実ともに『自由な特級鳶職人』として、全大陸のあらゆる大工事から引っ張りだこになります!」
朝礼台の脇で、聖女リリアナがハンカチでそっと目元を拭っていた。
「ふふ……本当に、立派な職人さんになりましたね、エドワード様。……時給が上がったのですから、今夜の夕食代くらいは奢っていただかなくては困りますね♡」
「おいリリアナ、台無しだよ! ……けどよ、奢ってやるぜ! ルシアちゃんの特製大盛りスタミナ肉鍋、お前の分もオレの奢りだ! 一番高い肉を腹一杯食え!」
「あら、嬉しいです。言質は取りましたからね♡」
聖女の愛らしい微笑みに、エドワードは顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべた。
「現在の時刻は午後16時55分。定時退社まで残り5分だ」
アレクが懐中時計をパチンと閉じた。
「これより本日の終礼を行う。全工区、足元よし、火気なし、明日への備えよし! 本日も一日、ゼロ災で終了、ヨシ!」
「「「ゼロ災で終了、ヨシ!!!!」」」
誇りと喜びに満ちた10万人の声が、地下95階の灼熱を吹き飛ばすように響き渡った。
その夜、第2詰所の大食堂は、エドワードの昇給祝いと明日の最終決戦への決起大会を兼ねた大宴会に包まれた。
ルシアが腕を振るった『魔界極上牛のスタミナ味噌煮込み鍋』が湯気を立て、職人たちが互いの健闘を称え合いながら杯を交わす。
宴会の喧騒から少し離れた機材ヤードでは、エドワードが一人、真新しい『上級主任』の腕章を付けた作業着の袖を撫でながら、手入れしたばかりのラチェットレンチをじっと見つめていた。
「時給1500ゴールド……。オレの人生で、こんなに嬉しい1500ゴールドはねえよ」
「浮かれるな。明日の地下98階は、この迷宮最大の難所の一つだ」
背後から、野草茶のマグカップを手にしたアレクが静かに歩み寄ってきた。
「地下98階には、超高圧の魔力蒸気が噴出する間欠泉地帯が広がっている。温度は摂氏300度、噴出圧力は30メガパスカル。一歩でも足を踏み外せば、昇給した賃金を使う暇もなく蒸発するぞ」
「へっ、分かってるよアレク」
エドワードはラチェットを腰のホルダーにカチリと収め、頼もしい笑みを浮かべた。
「オレはもう、無謀に突っ込むだけのバカな勇者じゃねえ。お前の指示を信じて、ガントの親方の計算を信じて、足元を一歩ずつ固めて進むだけだ。任せとけよ、現場総監督殿!」
「頼りにしている、エドワード主任」
二人の男が静かに拳を突き合わせる。
元勇者が手に入れた『時給1500ゴールド』の誇りは、明日から始まる最深部への最終決戦に向け、東西合同原状回復隊の士気を最高潮へと押し上げたのであった。




