第112話:ルシアの配管知識と魔王軍の誇り
地下95階『ガント第2詰所』を前進拠点として確保した東西合同原状回復隊は、工期16日目の午前9時00分、最深部へ向かう主配管坑道の大規模なバイパス切り替え工事に着手していた。
その場所は、地下100階の始祖コアから汲み上げられた莫大な熱流体が、迷宮全域の熱交換器へと分配される『第4中央魔力分岐ヘッダー室』。
天井高25メートルの巨大な玄武岩ドームの中に、直径2メートルを超える極太の古代ミスリル配管が数10本、まるで絡み合う大蛇のように複雑に交差していた。
「おいおい……! バルブの数が多すぎて、どれがどの系統に繋がってんのかサッパリ分からねえぞ!」
「主幹弁をいきなり回したら、下流の配管が吹き飛ぶんじゃねえか!?」
ドワーフの配管鍛冶師たちや王国軍の工兵たちが、巨大な手動ホイールバルブを取り囲んで額の汗を拭いながら怒鳴り合っていた。
配管の内部からは、ゴォォォォ……という地鳴りのような不気味な流動音が響いている。
管内の流体圧力は、実に45メガパスカル。
もしもバルブの開閉手順を一つでも間違えれば、超高圧の蒸気流が配管内で急激な圧力波を引き起こし――いわゆる『水撃作用』によって、厚さ50ミリメートルのミスリル鋼管すら紙屑のように破裂させる危険性があった。
「アレク主任はどこだ!? 図面を見て指示を仰ぎたいが、後方の軌道敷設の最終確認で手が離せねえ!」
職人たちが焦りの色を濃くした、その時であった。
「皆様、そこから一歩下がってください!」
凛とした、しかしどこか甘やかな澄んだ声がヘッダー室に響いた。
作業服の上から黒革のエプロンを締め、手首に油汚れ防止の腕抜きを装着した少女――魔王領営繕部・施設管理課長のサキュバス令嬢ルシアが、現場用黒板とチョークを抱えて早足で歩み出てきたのだ。
「ル、ルシアのお嬢ちゃん……!? ここは危険だ、下がってな! いくら魔王軍のお偉いさんの娘だからって、素人が口を出せるような配管じゃねえんだ!」
ドワーフの棟梁が慌てて制止しようとする。
「素人ではありません!」
ルシアは琥珀色の瞳を毅然と見開き、ドワーフ棟梁を真っ直ぐに見据えた。
「私は魔王城地下迷宮で、三万基の配管バルブと空調ボイラーの維持管理を3年間任されてきた、現役の『施設営繕課長』です! 配管の血流を見る目なら、誰にも負けません!」
カッカッカッ!
ルシアは手にした白チョークを滑らせ、黒板の上に驚異的なスピードで流体回路図を描き始めた。
迷いのない直線、正確な配管記号、流体方向を示す無数の矢印。
先ほどアレクが保管庫から回収した1200枚の古代竣工図面のうち、地下95階ヘッダー部分の流路網が、彼女の驚異的な記憶力によって寸分の狂いもなく黒板上に完全再現されていく。
「な、なんだと……!? あんな複雑怪奇な系統図を、そらで描きやがった……!?」
ドワーフたちが目を丸くして息を呑む。
「よく聞いてください、鍛冶班の皆様!」
ルシアはチョークの先で、黒板中央のバイパス弁をトントンと叩いた。
「主幹第1バルブをいきなり開放してはいけません! 下流側の温度は現在摂氏38度、配管内壁が冷却された状態です。そこへ摂氏300度の高温魔力流体を一気に流し込めば、激しい凝縮が起きて秒速1000メートルのウォーターハンマーが発生し、配管エルボ(曲がり部)が粉砕されます!」
「う、ウォーターハンマー……! 配管が爆発するのか!?」
「はい! ですから正しい開閉シーケンスは――まず、第3小口径バイパス弁を20パーセントだけ開け、管内のドレン(凝縮水)を完全に排気弁から逃がします! そして内壁の温度が摂氏180度まで予熱されたのを確認してから、第2背圧弁を徐々に開放! 最後に主幹バルブを全開にするのです!」
理路整然とした完璧な流体熱力学の説明。
職人たちの顔から、疑念の色が一瞬で消え去った。
「す、すげえ……! 完璧な手順だ……! お嬢ちゃん、いや、ルシア課長! アンタ本物の配管技師だ!」
ドワーフ棟梁が脱帽し、深々と頭を下げた。
「全配管班に通達! ルシア課長のシーケンス通りに動くぞ! まず第3バイパス弁のハンドルにラチェットをかけろ! 開度20パーセント、指さし呼称ヨシ!」
「「「開度20パーセント、ヨシ!!!」」」
ギギギ……と巨大なバルブがゆっくりと開かれる。
プシュゥゥゥゥ……!
配管末端のドレン抜きバルブから、溜まっていた黒褐色の凝縮水と高圧蒸気が勢いよく噴き出し、管内の不気味な脈動がスゥッと収まっていった。
「温度センサー確認! 管内温度、摂氏180度到達!」
「第2背圧弁、開放! 主幹バルブ、全開投入――ヨシッ!」
ゴォォォォォォ……!
大地を揺るがすような巨大な魔力流が、何一つ異常な振動を起こすことなく、滑らかに下流の熱交換器へと吸い込まれていく。
圧力計の針は、設計基準値の45メガパスカルでピタリと静止した。
「「「お、おおおおおおおおっ!!!!」」」
ヘッダー室に集まった数100人の職人たちから、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった!
「やった……! 成功しました……!」
ルシアは胸に手を当ててホッと息をつき、チョークで汚れた手をエプロンで拭った。
「見事な現場指揮だったぞ、ルシア」
拍手の中を歩み寄ってきたのは、図面バインダーを抱えたアレク・ユグレットであった。
「流体予熱シーケンスの組み立て、配管応力の逃がし方、作業員への指示出し。――どれをとっても一級の施設管理技術者の仕事だ」
「ア、アレク様……!」
ルシアの白い頬が、パッと朱に染まった。
「私……お役に立てたでしょうか……? アレク様や皆様のお荷物になりたくなくて、必死で図面を頭に叩き込んできたんです……!」
「荷物などととんでもない。お前がいなければ、今日の配管切り替えで半日の工程遅延が発生していた」
アレクは白手袋の右手を伸ばし、ルシアの頭の上にそっと乗せ、優しく撫でた。
「魔王軍施設営繕課長ルシア。お前は我が原状回復隊の誇るべき中核戦力だ」
「ふぇ……あ、ありがとうございます……っ!」
ルシアは嬉しそうに目を潤ませ、赤くなった顔を両手で覆った。
普段は控えめなサキュバスの少女が、技術者として認められた喜びに全身を震わせている。
「むむむっ……! アレク主任、私も! 私も地下94階の給水ポンプの流量計算を完了させました!」
そこへ、青焼き図面を抱えたシエルが小走りで割り込んできた。
「熱交換器の冷却水循環量は、毎分1万2000リットルでバッチリです! 主任、私の頭も撫でてください!」
「お前もよくやった、シエル。手戻りゼロの優秀な計算だ」
アレクが苦笑しながらシエルの頭にもポンと手を置くと、シエルは「えへへ……♡」と蕩けたような笑みを浮かべた。
「あらあら、アレク様は本当に罪作りですね」
救護班のリリアナが、お盆に冷たい麦茶を載せて歩み寄ってくる。
「職人の娘さんと魔王軍の令嬢を両手に侍らせて、まるでハーレムの王様気取りですか? ……ちなみにエドワード様には、麦茶の代わりに泥水でも飲ませておきましょうか♡」
「おいリリアナ! オレへの扱いが年々酷くなってねえか!?」
汗だくでパイプを担いできたエドワードが絶叫する。
「オレだってさっき、上流の配管固定ブラケットを完璧なトルクで締め上げてきたんだぞ! 少しは褒めろよ!」
「はいはい、ご苦労様でした。……ですがエドワード様、作業着の背中が破れていますよ。後で縫って差し上げますから、脱いでおきなさい」
「えっ……縫ってくれるのか? ……へへ、ありがとな、リリアナ」
元勇者が照れ臭そうに鼻の下を擦ると、現場にドッと温かな笑い声が広がった。
種族の壁も、敵味方の境界も存在しない。
泥と油にまみれ、技術と誇りで結ばれた職人たちの絆が、深淵の闇を確実に照らし出していた。
最深部への道は、もはや恐怖に怯える探検行ではなく、頼もしい仲間たちと共に進む誇り高き『原状回復ロード』となっていた。




