第011話:ギルドの女帝、煙管をくゆらせて
ギルド連盟本部は、王都の中央広場に建つ白い塔だった。
外壁は磨き上げた大理石で、陽の光を浴びると眩しいほどに白く輝く。入口には、剣と盾を組み合わせた金の紋章。階段を上る冒険者の靴音が、高い天井に反響して、ざわざわと波のように広がっていた。
アレクは、その吹き抜けのホールを、いつものツナギ姿で歩いていた。
午後2時50分。ヘルメットは小脇に抱えている。隣には、ピンクのツナギのシエルが、緊張した面持ちで並んでいた。肩の上のポチは、広いホールの天井の高さに、きょろきょろと首を回している。
「主任、本当に、最上階まで上がるのですか」
「呼ばれたからな」
「財務最高責任者の執務室です。私も、管理局の研修で一度、前を通っただけで」
「そうなのか」
「はい。ギルド連盟の副ギルドマスターで、実質的な運営の全権を握っていらっしゃる方です。通称は、その、ギルドの女帝と」
「女帝」
「お会いした者は、二種類に分かれると聞きます。魂まで搾り取られて泣いて帰る者と、財布まで差し出して喜んで帰る者に」
「どっちも嫌だな」
受付の若い女性が、アレクたちに気づいて、慌てて立ち上がった。
「アレクさん! お待ちしておりました! 最上階までは、あちらの専用昇降機で……あっ」
彼女の視線が、シエルのツナギに止まる。一瞬だけ、目が泳いだ。
「あの、そちらの方は、管理局の」
「首席監査官のシエル・フォン・シルフィードです」
「し、失礼しました! どうぞ、ご一緒に!」
シエルは、ピンクの袖を握りしめて、小さく会釈した。
受付嬢は、笑いをこらえるように、口元を手で覆った。
最上階までは、魔導式の昇降機で1分もかからなかった。
扉が開くと、そこは別世界だった。足元には、深い紅の絨毯が敷き詰められている。壁には、歴代のギルドマスターの肖像画が並び、廊下の突き当たりに、黒檀の大きな両開きの扉が見えた。扉の脇には、鋭い目つきの護衛が二人、微動だにせず立っている。
アレクが近づくと、護衛が、無言で扉を開けた。
甘い香りが、ふわりと流れ出した。
白檀と、かすかな煙草の匂い。
執務室は、広かった。
正面の巨大な窓からは、王都の街並みが一望できる。部屋の中央には、重厚な執務机。その後ろの棚には、分厚い帳簿がびっしりと並び、背表紙の金文字が静かに光っていた。
そして、窓辺に、一人の女性が立っていた。
波打つ黒髪が、腰のあたりまで流れている。目元には小さな泣き黒子。唇には、深い紅のルージュ。体の線に沿った黒のスーツは、スカートの横に大胆なスリットが入り、細い足首まで伸びた脚が、窓の光を受けて白く浮かんでいた。
細身の煙管を指に挟み、薄い紫煙をくゆらせている。
女性は、ゆっくりと振り返った。
「あら」
声は、蜜のように甘く、ほんの少し掠れていた。
「ちゃんと、いらしてくださったのね。アレクちゃん」
「請求書を倍にされたくないので」
「まあ、正直」
エレノア・ブラッドフィールドは、くすくすと喉を鳴らした。
煙管を灰皿に置き、優雅な足取りで机をまわってくる。ヒールの音が、絨毯に吸い込まれて、ほとんど聞こえない。アレクの前で足を止めると、彼女は、少しだけ顔を傾けて、彼を見上げた。
「ずいぶんと、お疲れの顔」
「いつも通りです」
「そうね。いつも通り、素敵な隈」
彼女の指先が、ふっとアレクの目の下に伸びかけて、寸前で止まった。
「失礼。つい」
「…………」
アレクは、一歩、下がった。
その瞬間、エレノアの視線が、後ろに立つシエルに向いた。
「あら、こちらは」
「迷宮管理局の、シエル・フォン・シルフィードです!」
シエルが、背筋を伸ばして、勢いよく頭を下げる。
「お目にかかれて光栄です、ブラッドフィールド副ギルドマスター!」
「ああ、噂の首席監査官様ね。シルフィード伯爵のお嬢様」
エレノアの目が、すうっと細くなった。
頭のてっぺんから、爪先まで。
ピンクのツナギ。団子に結んだ髪。ぶかぶかの黄色いヘルメット。肩の上のスライム。
「……素敵な装いだこと」
「こ、これは、現場の作業着で」
「ええ、よく似合っているわ。とても、可愛らしい」
「ありがとうございます……?」
シエルは、耳まで赤くして、小さくなった。
ポチが、ぷるっ、と同情するように震えた。
ソファに案内されると、エレノアは、自ら紅茶を淹れ始めた。
最高級の磁器のカップから、琥珀色の液体が立ちのぼる。柑橘と薔薇の香りが、室内に漂った。
「召し上がれ。南方の茶葉よ」
「いただきます」
シエルは、背筋を伸ばして、カップを両手で受け取った。一口飲み、目を丸くする。
「……おいしい」
「でしょう? アレクちゃんも、どうぞ」
「はい」
アレクは、ためらいなくカップを傾けた。
悪くない。シエルのコーヒーと同じくらい、良い味だった。
エレノアは、向かいのソファに腰を下ろし、足を組んだ。スリットから覗く脚線が、嫌でも目に入る。アレクは、視線を天井の梁に固定した。
「さて。本題に入りましょうか」
彼女は、机の上から一枚の書類を取り上げた。
「これを、見てちょうだい」
差し出された紙には、几帳面な字で数字が並んでいる。
アレクは受け取って、目を通した。
「……今月の、収支報告書ですか」
「ええ。ギルド連盟全体の、ね」
数字の列の最後に、赤い線で囲まれた一行があった。
『今月の迷宮修繕費 差引収支:黒字 2300万ゴールド』
「黒字、ですか」
「そう。黒字」
エレノアは、うっとりとした表情で目を閉じた。
「ギルドが設立されて以来、迷宮の修繕費で黒字を出した月なんて、一度もなかったのよ。毎月毎月、勇者だの英雄だのが好き放題に壊して、その費用が赤字になって、わたくしの胃を痛めつけていたの」
「はあ」
「それが、あなたが現場に入ってから、今月が初めての黒字。全額回収、損害賠償の即時天引き。素晴らしいわ。まるで、砂漠で水が湧いたみたい」
「規約通りに、やっただけです」
「その規約を、誰も運用しなかったのよ」
エレノアの目が、ゆっくりと開いた。
紅い唇が、薄い笑みを浮かべる。
「アレクちゃん。勇者エドワードの報奨金口座から、500万ゴールド。一滴残らず、回収してくれた。あの傲慢な坊やの」
「あの、副ギルドマスター」
「エレノアでいいわ」
「エレノア……さん」
「あら、他人行儀」
「エレノアさん、勇者様のことを、そんな風に」
「だって、可愛いじゃない? あんなに自信満々で、世界を救う気でいるのに、その後始末を全部誰かに押しつけて、笑っているのよ」
彼女は、肩をすくめた。
「でも、もう終わり。これからは、壊した人間が払うの」
「それは、ギルドの方針ですか」
「わたくしの方針よ」
きっぱりと言い切った声に、アレクは、一瞬、息を呑んだ。
甘い香りの奥に、鋼のような芯がある。
この女は、ただの守銭奴ではない。
「それで、お願いがあるの」
エレノアは、身を乗り出した。
「アレクちゃん。あなた、もっと上の地位に、興味はない?」
「上の地位」
「迷宮管理局の、施設管理部長。それとも、ギルド連盟の、迷宮財産管理官。年収は、今の十倍」
「十倍」
「部下は、100人。専用の執務室。馬車と、秘書つき」
シエルが、ごくりと唾を飲んだ。
ポチが、カップの中から顔を出して、アレクを見上げた。
アレクは、カップを置いた。
「お断りします」
「あら、早い」
「残業が増えるので」
「…………」
エレノアの目が、ぱちくりと瞬いた。
「残業」
「部下が100人もいれば、毎日、誰かが問題を起こす。会議も増える。書類も増える。現場に出る時間が、なくなる」
「……ええ、そうでしょうけれど」
「現場に出られなくなるくらいなら、今のままでいいです。定時に帰れるので」
沈黙。
窓の外で、鳥が鳴いた。
エレノアは、数秒間、アレクの顔を見つめたまま、固まっていた。
それから。
「ふ、ふふ……あはははははっ!」
腹を抱えて、笑い出した。
「ああ、おかしい! 十倍の年収を断る理由が、残業! なんて素敵なの!」
「そんなに、おかしいですか」
「ええ、とっても!」
彼女は、目尻の涙を指で拭った。
「いいわ、アレクちゃん。気に入ったわ。決めた」
「何をですか」
「今後、あなたの請求書には、わたくしが直接、最高決済印を押します。どんな金額でも、どんな相手でも。誰にも、文句は言わせない」
「それは、ありがたい」
「その代わり」
彼女の笑顔が、ふっと、妖しいものに変わった。
「たまには、お茶に付き合ってちょうだいね。今日みたいに」
「……考えておきます」
「ええ、楽しみにしているわ」
エレノアは、にっこりと微笑んだ。
シエルが、横で、小さく咳払いをした。
「あの、副ギルドマスター」
「あら、なあに?」
「主任は、現場の責任者ですので、現場の時間を優先していただければ」
「分かっているわよ。お嬢さん」
エレノアは、ふふっ、と笑った。
「安心なさい。取って食べたりしないわ」
「た、食べ……!?」
「冗談よ」
シエルは、真っ赤になって俯いた。
ポチが、ぷるぷると震えながら、シエルの頬に、ぺたりと貼りついた。励ましているらしい。
そのときだった。
階下から、遠く、地鳴りのような音が響いてきた。
最初は、ただのざわめきだった。しかし、それは、見る間に、怒号に変わっていった。
『——どこだぁぁぁ!』
エレノアの眉が、わずかに上がった。
窓の外の廊下から、慌ただしい足音が駆けてくる。扉が、どんどんと激しく叩かれた。
「副ギルドマスター! 大変です!」
若い職員が、息を切らして飛び込んできた。
「勇者エドワード様が、ロビーで、暴れております!」
エレノアは、組んでいた足を、ゆっくりと解いた。
煙管を手に取り、ふうっと、細い煙を吐く。
「あらあら」
その声は、まるで、待ちわびていた客がようやく来たかのように、楽しげだった。
「やっぱり、来たわね」




