第107話:アレクのスライディング注油と強制リセット
地下90階『古代中央整備回廊』。
エドワードの神速チタン足場によって頭頂部の光学複眼センサーを遮光ネットで塞がれたアブソリュート・ゴーレム隊長機は、視界喪失のインターロック(安全制御)が作動し、腕のプラズマ溶接トーチを停止させたまま、激しい金属軋み音とともにその場に立ちすくんでいた。
「グガガガガ……! ギギギ……!」
だが、停止したのは両腕の作業マニピュレータのみであった。
巨兵の足腰を司る超重量油圧ピストンは、1000年の油切れによる激痛と摩擦熱で暴走状態にあり、巨体を震わせながら盲目的に巨大な鋼鉄の脚を踏み鳴らしている。
ズシンッ! ズシンッ!
一歩踏み込むごとに、ミスリルチタンの床面が激しく波打ち、衝撃波が10万人の合同隊の足元を揺さぶる。
一撃でも踏み抜かれれば、人間の肉体など防具ごとペシャンコの鉄板と化すことは明白であった。
「アレク! 早くしろ! ネットの下で首を振り回してやがる! オレの足場が根元からねじ切れそうだ!」
巨兵の肩口に取り付いたエドワードが、チタンパイプを必死に抑え込みながら絶叫する。
「慌てるな。足の踏み込み周期は正確に2.4秒間隔だ」
アレク・ユグレットの眼光は、一切の動揺なく巨兵の足元のリズムを完璧に捉えていた。
「左右の歩行ピッチの切り替わり、滞空時間は0.8秒。――そこが唯一の安全進入経路だ」
アレクは白手袋を締め直し、右腕に高圧グリスガン形態に変形したポチを構え、左手に超ロングラチェットレンチを握り込んだ。
「突入する!」
次の瞬間、アレクは低く沈み込み、鏡面のように磨かれた銀色の金属床の上を、滑走するように低空スライディングで滑り込んだ!
巨大な鋼鉄の足の裏が、アレクの頭上わずか30センチメートルの空間をズドォォォンと踏み抜く。
巻き起こる突風と摩擦熱の突風をものともせず、アレクは隊長機の股下の死角へと完璧に滑り込み、背部メインフレームの真下でピタリと制動をかけた。
「クロ、照明!」
「合点だ! 超高輝度閃光水晶、照射!」
頭上を旋回するカラスのクロが投下した光玉が、巨兵の背部装甲を白昼のように照らし出す。
そこにあったのは、直径80センチメートルの頑丈な真鍮製メンテナンスハッチであった。
1000年の年月を経て、表面の六角防護ボルトは高熱と酸化によって激しく固着し、赤錆が隙間を完全に塞いでいた。
「固着トルク800ニュートンメートル……手動工具の許容限界値ギリギリか」
アレクは冷徹に呟き、超硬クロムモリブデン鋼製のソケットレンチをボルト頭部へ叩き込んだ。
ガキンッ!
「ポチ、浸透潤滑ノズルでボルト座面に魔導ナノ粒子を浸透圧入! 固着酸化膜を瞬時に分解しろ!」
「ピキュッ!」
ポチの先端から、驚異的な浸透力を持つ超低粘度ケミカル液がシュッと高圧噴射される。
ジュワワワッと煙が上がり、1000年の赤錆が一瞬でサラサラの微粒子へと分解された。
「インパクト増幅魔法連動――解除トルク、一撃入力!」
アレクは全身の体重と背筋の力をレンチの柄へ叩きつけた。
――バキィィィィンッ!!
ドーム内に銃声のような金属破壊音が響き、固着していた特大ボルトが旋回を始めた。
アレクの神速の指先がレンチを猛回転させ、わずか4秒でハッチがパカリと開放される。
ハッチの奥に露わになったのは、超高圧油圧ラインのメインポンプ室と、直径500ミリメートルの主軸ベアリングユニットであった。
内部は完全に干上がり、ベアリングの鋼球は赤黒く変色し、熱膨張で焼き付き寸前の悲鳴を上げていた。
「見つけたぞ。油圧給油ポート、および主軸潤滑ノズルだ」
アレクはポチの先端ノズルを、奥深くに位置する給油口のワンタッチカプラーへと一撃で直結させた。
「シエル! 高圧耐熱スピンドルオイル、全開圧入開始!」
「はい、主任! 加圧ポンプ起動、充填圧力25メガパスカル!」
後方でタンクを操作するシエルの魔力注入とともに、ポチの柔軟な体内を通じて、黄金色の高粘度魔導潤滑油が怒涛の勢いで巨兵の心臓部へと送り込まれた!
ドババババッ! ギュルルルルッ!
焼き付いていたベアリングの鋼球に、黄金の油膜が一瞬で浸透していく。
金属同士が削り合っていた不快な金切り音が、瞬く間に滑らかな「シュルルルル……」という心地よい水流のような回転音へと変化していく。
各部の油圧シリンダーに圧力が満ち、全身を苛んでいた激痛の痙攣が、まるで奇跡のように鎮まっていった。
「全身の油圧回路内圧、規定値の18メガパスカルへ復帰! ベアリング温度、摂氏320度から摂氏65度へ急降下!」
シエルの歓喜の報告が響く。
「よし。最後に――暴走制御ループを遮断する」
アレクはポンプ室の最深部にある、黄色と黒のトラ縞模様に塗られた『フェイルセーフ・強制リセットスイッチ』に指をかけた。
「1000年の過酷なパトロール、ご苦労だった。――安全停止、リセット完了!」
カチリ。
アレクがレバーを垂直に押し下げた、その瞬間であった。
巨兵の全身から、プシュゥゥゥゥ……という心地よい圧縮空気の排気音が響き渡った。
胸部パネルで狂ったように明滅していた血のような警告文字【ERROR CODE E-042】がフッと消灯。
それに代わって、穏やかな翠緑の文字が静かに浮かび上がった。
――【SYSTEM ALL GREEN: MAINTENANCE COMPLETED】
――【THANK YOU, CHIEF ENGINEER】
「「「あ……消えた……!?」」」
10万人の作業員たちが息を呑む中、エドワードが頭部の遮光ネットを取り外した。
現れた巨兵の巨大な単眼は、もはや怒りと狂乱の赤ではなく、深く澄み渡った優しいエメラルドグリーンに輝いていた。
巨兵はゆっくりと向きを変えると、股下から埃を払って出てきたアレク・ユグレットを見下ろし――。
ズシン……。
巨大な右膝を金属床につき、巨大な油圧マニピュレータを胸に当てて、まるで最高位の王に対する臣下のように、深々と最敬礼の礼を捧げたのであった。
「「「お、おおおおおおおおっ……!?」」」
10万人の合同隊から、息を呑むようなどよめきが地鳴りのように広がった。
「す、すげえ……! あの神話の破壊巨兵が、本当に膝をついて頭を下げたぞ!」
「倒すどころか、油を差して撫でただけで懐いちまった!」
屈強なオークの職人も、歴戦の重装騎士たちも、信じられないものを見る目で立ち尽くしている。
さらに、隊長機の翠緑の単眼から発信された近接無線信号によって、周囲を取り囲んでいた残り99体のゴーレムたちの動きが一斉に止まった。
各機の胸部パネルが、怒りの点滅から「メンテナンス待機モード」を示す黄色点滅へと切り替わり、腕のプラズマ溶接機を地面に向けて一列に整列し始めたのだ。
その姿はまるで、長蛇の列を作って腕のいい名医の診察を待つ患者たちのようであった。
「がはははっ! おい見ろよアレク!」
エドワードが巨兵の肩から軽やかに飛び降り、腹を抱えて笑った。
「あいつら全員、順番待ちの番号札を欲しがってる患者面してやがるぞ! オレたちをミンチにしようとしてた化け物が、すっかりお行儀のいい子犬ちゃん揃いだ!」
「機械に悪意などない。整備不良による激痛を訴えていただけだ」
アレクは作業着の油汚れをウエスで拭いながら、手元のバインダーに点検記録を書き留めた。
「隊長機の主軸ベアリングおよび油圧ラインの蘇生完了。だが、残り99体のベアリング温度も危険領域寸前だ。直ちに全機体の緊急メンテナンスを行わなければ、二度と動かなくなる」
「主任、作動油の予備タンクなら、トロッコ後方に120ドラム缶分確保してあります!」
シエルが駆け寄り、目を輝かせながら報告する。
「ドワーフ鍛冶班と工兵部隊の手を借りれば、並行して整備を進められますよ!」
「よし」
アレクはメガホンを手に取り、前哨ドームに整列する10万人の職人たちに向かって、前代未聞の号令を下した。
「全工区に通達! 武器を工具に持ち替えろ! これより東西合同原状回復隊総力を挙げて、『古代点検巨兵100体一斉定期車検大会』を開催する!」
「「「うおおおおおおおおっ!!!!」」」
敵を殲滅するための戦場が、一瞬にして大陸史上最大規模の「巨大重機整備工場」へと塗り替えられた瞬間であった。




