第101話:有毒ガス層の検知とポチの化学吸着
地下80階の前線兵站基地の設営を完了し、地上から届いた20万トンの補給物資を受け入れた東西合同原状回復隊は、工期11日目の早朝、地下85階へと続く長大な連絡回廊へと足を踏み入れていた。
だが、地下82階を通過したあたりで、先頭の上空を飛んでいた黒曜石ガーゴイルのクロが、急激にバタバタと忙しなく羽ばたいてホバリングを始めた。
「おい主任! 止まりな! ストップだ、全員その場で一歩も動くんじゃねえぞ!」
手のひらサイズの毒舌現場監督クロが、尖ったクチバシを突き出して叫んだ。
「空気がおかしいぜ! 鼻の奥がチクチク刺すような嫌な腐乱臭だ! この先の空間、完全にヤバい気体が充満してやがる!」
「全工区、歩行停止。火気厳禁、足元の摩擦にも警戒しろ」
現場総監督アレク・ユグレットは即座に右手を挙げ、胸元から四成分複合ガス検知器を取り出した。
検知プローブを前方の暗闇へ差し伸べた瞬間――。
ピピピピピピピピ……!!
けたたましい高周波の警報音が鳴り響き、赤色警告ランプが激しく点滅した。
「数値を読み上げます!」
シエルが手帳を構え、防毒マスク越しに青ざめた声を上げた。
「硫化水素濃度、350ppm! 魔力活性メタンガス濃度、体積比で6.8パーセントを検知! ……主任、メタンガスの爆発下限界(LEL)は5パーセントです! すでに爆発限界濃度を完全に突破しています!」
「爆発限界突破だと……!?」
二本線ヘルメットのエドワードが息を呑み、慌てて腰のチタンラチェットを両手で押さえつけた。
「おいおい、ちょっとでも金属同士がぶつかって火花が散ったら、この回廊全体がドカンと大爆発するってことか!?」
「その通りだ。静電気の放電一つ、鉄パイプを床に落とした衝撃火花一つで、地下82階から85階までの回廊全域が超巨大な爆発筒と化す」
アレクの声は氷のように冷徹だった。
「爆風圧力は推定15メガパスカル。衝撃波によって作業員10万人は一瞬で内臓破裂、天井のアーチは全断面崩壊して全員が生き埋めになる。労働安全衛生規程における危険度S判定だ」
「ひぃぃぃっ! 生き埋め!?」
背後で重装騎士たちやドワーフたちが息を殺した。
誰もが金縛りに遭ったように足を止め、身動き一つ取れなくなる。
煙草を吸おうとしていたガントも、慌てて火打ち石を懐の奥深くへ引っ込めた。
「どうすんだよアレク! 送風ファンで吹き飛ばせばいいんじゃねえのか!?」
エドワードが小声で尋ねるが、アレクは首を横に振った。
「送風ファンを回せば、モーターのブラシ接点から微小な火花が散る。ファンを起動した瞬間に大爆発だ。無防備な機械換気は自殺行為に等しい」
「魔法の風で押し出すのはどうだ?」
魔導士がおずおずと提案するが、シエルが一喝した。
「風魔法の詠唱時に発生する魔力励起光も、高濃度メタンに引火するトリガーになります! 魔法も機械も一切使えません!」
火気厳禁。機械厳禁。魔法厳禁。
あらゆる手段を封じられた、死のガス室地獄。
一歩も進めず、息をすることすら命懸けの極限状況。
だが――現場総監督アレク・ユグレットは、平然と足元の相棒を見下ろした。
「火花を出さずにガスを消し去る方法は、ただ一つ。――化学的な常温無火花吸着沈降工法だ」
アレクが軽く膝をつくと、ヘルメットを被ったレモンイエローのスライムが、トテトテと前に進み出た。
「ポチの出番だ」
「ピキュッ!」
ポチが胸を張り、つぶらな瞳をキリリと引き締めた。
「ポチの体内には、弱アルカリ性の多孔質高分子魔導ゲルが大量に共生している。このゲルを空気中に微粒子ミストとして無動力自然拡散させれば、酸性ガスである硫化水素を中和抱合し、メタンガスの炭化水素分子を包接(クラスレート化)して、重たい無害な白色結晶として床面へ強制沈降させることができる」
「な、なるほど……! 電気も火花も使わない、純粋な生体化学吸着ですね!」
シエルが感嘆の声を上げた。
「ポチ、散布シーケンス開始。回廊全域のガスを吸着しろ」
「ピキュウウウッ!」
ポチが大きく体を震わせ、風船のように直径2メートルまで膨らんだ。
そして――プシュウウウウゥゥッ!!
ポチの体表の無数の微細気孔から、冷涼なミントの香りを放つ乳白色の超微粒子ミストが、音もなく回廊の奥深くへと広がっていった。
静寂の中を漂う、白い霧のカーテン。
ミストが有毒なガス層と接触した瞬間、化学反応の神秘が幕を開けた。
パチリとも音を立てず、空気中に漂っていた透明なメタンと硫黄の分子が、ポチのゲルミストに次々と捕獲されていく。
サラサラサラ……。
重たくなった分子が、まるで春の粉雪のように、白い粉末となって石畳の床一面へと静かに降り積もっていった。
「メタン濃度……4パーセント……2パーセント……0.3パーセントへ降下!」
シエルが濃度計の数値を小声で読み上げる。
「硫化水素濃度、ゼロppm! 爆発下限界を完全に下回り、空気中の引火性ガス、消滅しました!!」
「ふう……! 生き返ったぜ!」
クロがパタパタと飛び回り、胸を張って啼いた。
「空気清浄ヨシ! ガス濃度ヨシ! 指さし確認、ヨシ!!」
10万人の作業員たちが、一斉に胸を撫で下ろして深い安堵の息を吐き出した。
「す、すげえ……! 爆発の危機を、スライム一匹のミストだけで完全に消し去っちまった!」
「ポチ様だ! ポチ大明神様だ!」
騎士たちやドワーフたちがポチに向かって手を合わせる。
だが、アレクの安全管理はそこで終わりではなかった。
「喜ぶのは早い。床に降り積もったこの白い粉末を見ろ」
アレクがしゃがみ込み、床の粉末を指でつまみ上げた。
「これはメタンと硫黄を閉じ込めた魔導石膏結晶だ。放置して湿気を吸えば、数時間後に再気化してガスが漏洩する恐れがある。ルシア、直ちに湿式集塵バキューム隊を投入しろ」
「了解いたしました、主任!」
ルシアがゴム手袋をはめた輜重隊を率いて駆け寄ってきた。
「防爆仕様の手押し式バキュームスイーパー20台、稼働します! 床面の結晶粉末を一粒残らず吸引し、密閉ドラム缶へ回収します!」
シュゴオオオオッ……!
職人たちが一列に並び、床を磨き上げるように粉末を吸引していく。
回収された石膏粉末は、ルシアの手配により、魔王領の不毛な火山灰地を肥沃な土壌へと改良する最高級の土壌改良剤としてリサイクルされる手筈が整えられた。
「回収完了! 床面清掃率100パーセント、残留ガス濃度完全ゼロを確認しました!」
シエルが手帳に大きく合格の二重丸を書き込んだ。
「ピキュッ♡」
通常サイズに戻ったポチが、満足そうにアレクの肩の上へ飛び乗り、誇らしげにヘルメットを直した。
アレクは白手袋でポチの丸い頭を優しく撫でてやり、懐中時計を確認した。
「よくやった、ポチ。ルシア、シエルも迅速な初動だった」
アレクは立ち上がり、拡声メガホンを口に当てた。
「全工区に通達。ガス層の完全突破を確認した。これより地下85階へ向けて前進を再開する!」
「「「応ッ!!!!」」」
死の爆発ガス室を、一滴の火花も散らさずに無傷で突破した東西合同原状回復隊。
しかし――連日の過密工事と極限の緊張感により、10万人の作業員たちの肉体と精神には、目に見えない疲労の澱が確実に蓄積していた。
そして翌朝、現場総監督アレク・ユグレットは、全首脳陣の度肝を抜く『前代未聞の現場管理命令』を下すことになる。
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