2_04 配られたカードで勝負するかどうかはあなた次第
狼煙が見え、獣人側が急いで去ったあと、澪と人類側はやや気まずい空気が流れていた。
さっきまで、種がどうとか、畝がどうとか、乾かした葉がどれくらい保存できるとか、そういう穏やかな話をしていたはずだった。
だが急にシリアスというとアレだが、あまり軽くない空気になってしまった。
ログハウスの前でぬるくなったお茶を持ったまま、遠くの森を見て、とりあえず難しそうな顔をしている面々に話しかける。
「何があったんでしょうね」
ぽつりとそう言うと、グラーフさんはまだ森の方を見たまま、鍬を肩にかけ直した。
「何かあったんでしょうな。だが、あの様子だ。あまり楽しい話ではないだろうな……」
「まあ、ですよね」
ドーンさんは基本的に相手に何かを悟らせないように動く。まあ、たまに逆にそれがわかりやすかったりするのだが。
あの時は明らかに取り繕う余裕をなくしていた。
「ラントさんは、何か知ってます?」
少し離れたところで、畑の道具をまとめていたラントに話しかける。
「まあ、知ってると言えるほどのことはないな。この前から特に新しい情報もない」
ラントさんは道具を置いてから、少し考えるように息を吐いた。
「獣人側の本国で揉めているという話は聞いてる。王同士の話だとか、肉食と草食の話だとか、噂はいろいろあるが、どれも確かな話じゃない」
「王様同士……。連合国みたいな感じなんですか?」
「ああ、そこからか。獣人族はまあ、見ての通り肉食が多くて、あまり定住しないんだ。だから小国の集まりみたいな感じになって、えーっと、その中でも有力な5人の会議で方針が決まっている、らしい。まあ、あんまり俺も詳しくないんだが」
急に大きな話になると、かえって実感が薄くなる。遠い国のニュースを見ているみたいだ。いや、テレビも新聞もないから、ニュースよりもっと曖昧で、誰かの噂話を聞いただけに近い。
実際こちらの世界の国々がどういった運営をしているのかを澪は知らない。
「まあ、噂なら噂で済む。問題は、そうでもなさそうな時だ。ようは今だな」
グラーフさんが、低い声で言った。
「それは、そうですね」
私はそう返したけれど、実のところ、このあとどう転ぶかさっぱりわからない。
この区域は平和なため、戦争やお互いの感覚の実際のところは、異物である私には判らない。
ふと、ティッシさんの方を見た。
珍しく無表情で、道具を持ったまま、遠くの森を見ている。手に力が入っているのか、指の節が少し白くなっていた。
「ティッシさん?」
声をかけると、少し遅れてこちらを向いた。
「あっ……なんでもないっす」
それだけ言って、また視線をそらす。
いつもなら、ここで何か軽口が入る。新しい果物の気配っすかね、とか、狼煙って焼き芋にも使えるんすかね、とか、そういうことを言いそうな気がするが……
けれど、今日は何も言わなかった。
グラーフさんはちらっとティッシさんの方を見て、畑の方へ戻りかけて、もう一度だけ森を見た。
「今日は、もう上がろう」
「何かあるんですか?」
「何もないように、ってやつだな」
そう言って、グラーフさんは土のついた鍬を担いだ。
獣人側の拠点では、夜とは思えないほどの明るさで明かりが焚かれている。
負傷者のうめき声、湯を沸かす音、布を裂く音、誰かが小声で指示を出す声。普段なら静かになるはずの時間だが。
ヒ・オルザムは、奥の一室に運ばれていた。
草食王はまだ生きている。だが、意識ははっきりしない。
出血で体力を削られ、傷から来る熱で、時折うわごとのように何かを口にする。甥のベロームが近くに寄ると、目を開けることはある。だが、その目が今の状況を正しく見ているかは分からなかった。問にまともに答えることが出来ていない。
草食王はいる。だが居るだけだ。
現場の判断はできない。
その事実だけが、静かにベロームの肩へ乗っており、眉間にシワを刻む原因となっていた。
レ・パルディオは、隣の部屋で応急処置を受け、一息ついていた。命に別状はない。だが、服の裂け目や血の乾き方を見れば、無事という言葉を使うのはためらわれる。全治3か月といったところか。
それでも、本人はいつもの調子で笑っていた。
「いや、皆さんの腕が良くて助かりました。なにせ肉食系はガサツな人が多くてね」
「前線は症例に事欠きませんからな。腕も上がるというものです」
ベロームは、手元の報告書から顔を上げずに答えた。
「ふむ、聞いていたよりは中々安定はしていないのですかな?」
「耳はお早いようだが、雑音が多いようですな」
パルディオは肩をすくめた。
ベロームはパルディオという人間をだんだん分かってきていた。これは、おそらく本性ではない。いや、本性の一部ではあるのだろうが、すべてではない。軽く振る舞うことで、自分も周囲も崩れないようにしている。
少なくとも、この男はオルザムを助けて連れてきた。
まあ、気を使われているのだろう。
ベロームは書類を置いた。
「異常事態は森の中央部に限ります。厳密に言うとそこから離れるほど縛りが緩くなる、といった方がよいでしょうか」
「何度聞いても理解が出来ませんな」
「でしょうね」
「この前までは、ね」
パルディオはすっと目を細める
「ヴァルガ殿が同じ力を得たと?」
ベロームの問いに
パルディオは少しだけ目を細め、それから小さく笑った。
「さて、知識不足の私には判りかねますが、卑小な我が身と比べますと同類に感じます」
ベロームは片眉を上げてパルディオを見る。
パルディオは小さくため息をついて、肩をすくめた。
「まあ、お互い荒唐無稽な話には慣れているでしょう」
ベロームは頷いた。
「確かにその通りですな」
その時、外が騒がしくなった。
伝令ではない。
使者だった。
ヴァルガ側から来た使者は、一人ではなかった。
肉食系の獣人が三人。いずれも体格がよく、鎧の下からのぞく腕は妙に太い。だが、それ以上に気になったのは目だった。
焦点が合っているようで、合っていない。
こちらを見ているのに、こちらの奥にある何かを見ているような目をしていた。
そして夜なのに妙に赤く光っていた。
ベロームが応対の場へ出ると、中央の使者が一枚の文書を差し出した。差し出した、というより、突きつけた。
「ハ・ヴァルガ王より通告である」
声は大きくない。
けれど、やけに響いた。
ベロームは文書を受け取った。
「承ります」
「先に言う。返事は不要だ」
使者は、こちらの返事を待たなかった。
「森側の部隊は、ただちにヴァルガ王の指揮下へ入れ。ヒ・オルザムを引き渡せ。レ・パルディオを引き渡せ。従えば処遇は考慮する。拒めば反逆とみなす」
周囲の者たちが息を呑んだ。
ベロームは、文書を持ったまま静かに立っていた。
「内容は承りました。こちらで確認の上――」
言い終える前に、使者が動いた。
近くに立っていた大木へ歩み寄る。
それは、この拠点が作られた時から残されていた木だった。太さは、成人した獣人が両腕を回しても届かないほどある。日陰を作るために残され、荷運びの目印にもなっていた。
使者は、その幹に片手を当てた。
次の瞬間、木が鳴った。
軋む、というより、悲鳴に近い音だった。
幹がへし曲がり、根元に近い部分が割れ、土が盛り上がる。何人かが思わず後ずさった。ばきり、と乾いた音がして、枝が落ちる。
使者は、折れた幹から手を離した。
「返事は明日の日没まで。返事が遅れた場合の未来は、これだ」
その目は、やはりどこか合っていなかった。
怒りではない。
脅しに酔っているわけでもない。
ただ、そうするのが当然だとでも思っているような目だった。
ベロームは表情を変えなかった。
「……承りました」
使者たちは、それ以上何も言わずに去っていった。
背を向ける時も、誰かを警戒する素振りはなかった。まるで、この場の全員が逆らえないと、最初から決まっているかのようだった。
彼らの姿が森の向こうへ消えるまで、誰も動かなかった。
やがて、隠れていたパルディオが出てきて、小さく息を吐いた。
「ずいぶん、分かりやすい挨拶ですね。ヴァルガ殿も思うところでもあったのでしょうかね」
パルディオの軽口を聞き流し、ベロームは折れた木を見た。
怒りは、あまり湧いてこなかった。
それよりも先に、困惑が出てきた。
「……これは、困りましたね」
パルディオの妄言であればよかったが、澪の同類と考えるととれる手が本当に分からない。
軍学校でも人外との戦い方等教えられていない。そんな科目があれば教師の正気を疑うが。
「いやあ困った」
ドーンはその声を聞いて、ベロームを二度見した。ベロームは薄笑いを浮かべていた。
「ベローム殿は何かいい思いつきでも?」
パルディオは珍しく困惑した声でベロームに尋ねた。
「いやあ、ブラックジャックで8が2枚来た気分ですよ。最悪ですね」
「その割には楽しそうに見えますが?」
「困ったらもう笑うしかないでしょう。それに取れる手段が全くないわけではありません」
ベロームはパルディオを見て首をすくめる
「私も、ずいぶん人気者になったものですが」
「その人気者を引き渡せば、話は済みますか」
「済まないでしょうね」
パルディオは即答した。
「私とオルザム殿を渡して終わるなら、まだ分かりやすい。ですが、彼らが欲しいのは、たぶん首ではなく、形です。草食王系が従ったという形と、森側が膝をついたという形」
「でしょうね。まあそれだけでもなさそうですが……」
ベロームは目を伏せた。
使者は帰した。
だが、返事を保留できる時間は短い。
ベロームはドーンへ視線を向けた。
「ガルドを呼んでください。監視はそのままで構いません」
「分かりました」
「それと、マーヤも」
ドーンが一瞬だけ目を動かす。
ベロームは、折れた木を見たまま続けた。
「人類側へ話を通す必要があります。まずは、レナート殿との会談を申し入れます」
「誰を使いに」
「ガルドとマーヤに行ってもらいましょう」
「ガルドを、ですか」
「ええ」
ベロームはようやく顔を上げた。
「肉食と草食が割れた、という見え方は避けたい。少なくとも、森側はそうではないと見せる必要があります」
ドーンは頷いた。
それは、理屈としては分かる。
「なに、取れる手段が殆ど無いというのは考えることが少なくて楽でいいですね」
ベロームはそう言って自室に戻っていった。
残った面々はそれを見て顔を見合わせていた。
ガルドは、折れた木を見て、何かを言いそうになったが、とりあえず黙ることにした。
文書も読んだ。使者の振る舞いも聞いた。だが、何よりその惨状が雄弁だった。
「あの親父が……」
ガルドは、小さく呟いた。
ハ・ヴァルガは暴力を嫌う男ではない。必要なら殺す。必要なら戦う。必要なら血も流す。だが、意味の薄い示威行為を好む男ではなかった。
脅すなら、もっと静かに脅す。本気で森を落とすつもりなら、パルディオの家族の首でも投げ込んでくるくらいのことはする。
素手で木をへし折って帰るなど、蛮族でもやらない頭が悪すぎる。
だからこそ効果覿面でもあったのだが……。分かりやすすぎて、逆に分からない。
「どう見ますか」
ベロームが聞いた。
ガルドは、すぐには答えなかった。
文面をもう一度見る。言葉の置き方を見る。使者の行動を思い返す。
「……理解が出来ません」
やがて、ガルドは低く言った。
「これは、俺の知っている親父のやり方ではないです」
ベロームの目が、わずかに細くなる。
「ふむ。違う、ですか」
「はい。少なくとも、俺が知っている親父なら、本気で敵対するなら猶予なんて与えません。今すぐ出すか死ぬか。使者なんてものを使うほど上品じゃない」
ガルドは文書を机に戻した。
「使者の振る舞いも妙です。それに、親父は、無意味に相手を怖がらせることを好みません。怖がらせるなら、怖がらせた後にどう動かすかまで考える。今回のこれは……」
言いかけて、止まる。
「これは?」
ベロームが促した。
「拒まれても構わない、ように見えます。あるいは、拒ませたいのかもしれません」
部屋の中が、少しだけ冷えた気がした。
「いや、どうでもいいのか……?」
ベロームは、ガルドを通してヴァルガの意図を読もうとしていた。
怒っているのか。
脅しているのか。
交渉の余地を残しているのか。
それとも、本当に何かが変わってしまったのか。
返ってきた答えは、「読めない」だった。
ベロームは、静かに息を吐いた。
「ザンガとボルグを殺したこと自体、普通なら大博打です。親父は強いですが、五王すべてを力でねじ伏せるほど突出していたわけではありません。なのに、それをやった。やれた。そこがわからない」
ベロームは沈黙した。
未知のヴァルガ。
それは、ベロームにとって最も避けたいものだった。
既知の敵なら、まだ対処できる。強くても、冷酷でも、目的が読めるなら手はある。だが、何を考えているか分からない相手に、重傷者と避難民を抱えたまま向き合うのは、悪すぎる。
そして、もう一方にいる人類側は、少なくとも読める。
信用できるという意味ではない。
ただ、計算はできる。
ガルドが顔を上げた。
「オルザム様とパルディオ殿を引き渡せば、一旦森側は終わります。拒めば、いずれこちらに来ます。ですが、人類側を敵に残したままでここでドンパチやるなんて正気じゃない」
「でしょうね」
ベロームは黙って聞いていた。
ガルドははっと何かに気づいた顔をして、ベロームを見る。
「あなたは……、つまり人間側に?」
ガルドのセリフにベロームはにっこりと笑う。
「やはりあなたは為政者側に回ったほうがいいですね」
それを聞いてガルドは苦虫を嚙み潰したような顔をする。
マーヤは、両手を膝の上で握っていた。
ドーンは、何も言わずにベロームを見ている。
ベロームは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「さて、分かりました」
その一言で、方針は決まった。
「マーヤ」
「はい」
「ガルドと一緒に、人類側へ行ってください。用件は、レナート殿との会談の申し入れです。場所は澪様のログハウスの近くで。ただ意図的に澪様を巻き込まないように。ようは澪様を敵に回さないように」
「承知しました」
マーヤは固い顔をして頷く。
「ガルド」
「はい」
「もちろんあなたにも出てもらいます。しばらく姿を見せていませんでしたからね。ここであなたがマーヤと並んで出ていけば、少なくとも森側が肉食と草食で割れているという見え方は薄まります」
ガルドは少しだけ眉を動かした。
「内情は?」
「ディーラーに手札を見せるプレイヤーは居ないでしょう」
「……」
ガルドはそれ以上言わなかった。
ベロームは続ける。
「こちらから伝えるのは、天災に伴う避難民の発生、負傷者の保護、食糧と通行の整理が必要になったということです。内紛とは言わない。五王制の話もしない。ヴァルガ殿の名前も、こちらからは出さない」
「天災……ですか」
ドーンが言った。
「天災みたいなものでしょう、急な乱心なんて。まあ、聞かれたら正体不明の魔獣が出た位にしましょうか」
ベロームは穏やかに言った。
「嘘をつきすぎると、後で面倒になります。ですが、すべてを言う必要もありません」
パルディオが、椅子の背にもたれたまま小さく笑った。
「政治ですね」
「あなたも得意でしょう」
「いえいえ、勉強になります」
「ではついでにパルディオ殿にも同行してもらいましょう。その方が信ぴょう性が増しますね」
パルディオは一瞬だけ目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「これはこれは。承知しました」
マーヤとガルドは、翌朝早くに澪の谷へ向かった。
ガルドには見張りが二人ついている。あからさまに縄をかけられているわけではないが、自由な護衛とも違う。分かる者には分かる距離だった。そのうちの一人はパルディオである。二人とも深いフードを被って顔は見せないようにしている。
それでも、久しぶりにガルドが姿を見せたことには意味があった。
畑にいた人類側の兵たちが、見覚えのない二人を見て少しざわつく。
ティッシは遠くで足を止めた。
ラントは、表情を変えずにガルドを見た。
澪は、ちょうどログハウスの前でお茶を飲んでいた。
「あ、ガルドさん。お久しぶりです」
「……澪様」
ガルドは少しだけ頭を下げた。
「お元気でしたか?」
「ええ。おかげさまで。少しだけ鈍っちまいましたが」
そういってガルドは苦笑し、それを見て澪は少し安心した顔をする。
「少し、用があって来ました」
「用?」
澪が首を傾げると、マーヤが丁寧に説明する。
「人類側の責任者の方と、お話ししたいことがありまして。澪様のところを通る形になり、申し訳ありません」
「それは、大変ですね」
澪はそう言ってから、少しだけ周りを見る。
ラントが近づいてきた。
「澪さん、俺が聞く」
「あ、お願いします」
澪は素直に任せた。自分が入るとややこしくなりそうな話だと、何となく分かったからだ。
ラントはガルドとマーヤを見た。
「レナート様に話を通せばいいのか」
「可能であれば」
マーヤが答える。
「緊急か」
「はい」
ラントはそこでガルドを見る。
「無事だったんだな」
「見ての通りだ」
ガルドの返事は短い。
だが、いつものように荒くはなかった。
ラントはそれ以上聞かなかった。
「グラーフ殿にも伝える。今から行って帰ってくる」
「お願いします。それまでこちらで待たせていただきます」
マーヤが答えた。
ガルドは、遠くにいるティッシの方を一瞬だけ見た。
ティッシは目を逸らさなかった。
けれど、近づきもしなかった。
ガルドも、何も言わなかった。
翌日、会談の場は、澪のログハウスから少し離れた場所に設けられた。
澪の家の前ではない。
人類側の畑の中でもない。
獣人側が持ち込んだ種を試している場所でもない。
どこにも寄りすぎない、ただの木陰だった。
人類側からはレナート、グラーフ、そして少し後ろにラント。
獣人側からはベローム、マーヤ、ガルド。
パルディオは従者の一人のような顔をして、ベロームの少し後ろに控えていた。フードを深くかぶった若干の不審者スタイルだがやむを得ない、立ち姿にも疲れが残っている。だが、黙っていれば、ただの付き添いに見えなくもない。
レナートは、いつもの柔らかい顔で頭を下げた。
「急な会談の申し入れでしたが、ご事情があるのでしょう。伺います」
ベロームも、穏やかに頭を下げた。
「感謝します。こちらで少々、想定外の混乱がありまして」
「混乱」
「ええ。天災に近い事故と、それに伴う避難民が発生しました。負傷者も出ています。しばらくの間、森周辺の通行や物資の整理が増える見込みです」
レナートは表情を変えなかった。
「それは、大変なことです」
「はい。兵の姿も一時的に増えるかもしれませんが、これは攻勢のためではありません。避難民と負傷者の保護のためです」
「なるほど」
レナートは静かに頷いた。
言葉だけなら、ただの災害対応だった。
だが、グラーフの目は笑っていない。
ラントも何も言わない。
パルディオは、従者のふりをしたまま、じっとレナートを見ていた。
レナートは続けた。
「つまり、不要な衝突を避けるために、通行や見張りの扱いを調整したい、ということでしょうか」
「はい」
ベロームは、少しだけほっとしたように頷いた。
「こちらとしても、誤解は避けたいと考えています」
「誤解は、なるべく避けたいものですね」
レナートの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、どこまで信じているのか分からない。
ガルドが一歩だけ前に出た。
「人類側へ攻撃する意図はありません。少なくとも、森側にいる者については」
「森側にいる者については」
レナートが繰り返す。
ガルドは頷いた。
「はい。森以外ですと、正直我々では人類の皆様の区別がつかないもので」
正直すぎる言い方だった。
だが、レナートはその正直さを嫌がらなかった。
「分かりました。では、こちらも言い方を合わせましょう。セレファス側としても、森側の避難民や負傷者へ攻撃を加える意図はありません。少なくとも、この谷周辺、ようはこの”区域”では休戦をしましょう」
「ええ。それが有難いですね」
それから、こまごました話が続いた。
普段の道の使い方。
護衛の数。
避難民は澪のログハウス周辺に留まらないこと。
畑の近くで揉めそうな時は、先に人を呼ぶこと。
物資の移動を攻撃準備と誤認しないための知らせ方。
とはいえ、すべてをその場で文書にするわけではない。
レナートとベロームが骨組みを作り、グラーフが現場で破綻しそうな部分を短く指摘し、ラントとマーヤが実際の動線を確かめる。ガルドは、必要なところだけ口を挟んだ。
パルディオは、奥で黙って聞いている。
やがて、話はまとまっていった。
これまでの経緯が嘘のように、すんなりと。
もちろん、誰も互いを信用したわけではない。
味方になるわけでもない。
助け合うと言い切るわけでもない。
ただ、しばらく撃たない。
少なくとも、間違って撃つ理由を減らす。
決まったことは、その程度だった。
だが今は、その程度が必要だった。
レナートが静かに言った。
「では、避難民保護に伴う通行整理と、谷周辺での誤認防止の申し合わせ、ということで」
ベロームは深く頭を下げる。
「感謝します」
「いえ、何かあったときはお互い様です。それにこちらも、澪様の生活域が乱されないことを望んでいます」
「もちろんそこは、こちらも同じです」
その時、パルディオがほんのわずかに視線を動かした。
レナートは気づいていたのか、いないのか、何も言わなかった。
会談は、それで終わった。
その日の夜、ベロームはオルザムの部屋に入った。
部屋の中は薬草と血の匂いが混ざっていた。
オルザムは眠っているように見えたが、呼吸は浅い。額には濡れた布が置かれている。
ベロームは寝台のそばに立った。
しばらく、何も言わなかった。
それから、静かに頭を下げる。
「叔父上。しばらく、私の判断で動きます」
返事はない。
熱に浮かされた指が、ほんの少しだけ動いた。
それが返事だったのか、ただの震えだったのかは分からない。
ベロームはもう一度だけ頭を下げ、部屋を出た。
廊下には、まだ人の気配が多い。
避難者。負傷者。護衛。使者。見張り。
処理しなければならないものが、山ほどある。
ベロームは、いつもの温和な顔に戻った。
戻した、と言った方が正しいかもしれない。
そして、静かに歩き出した。




