ソル
隠れた弱さ
夜のシェイン王国は静かだった。
昼間は兵士たちの足音や訓練の掛け声が響く城も、この時間になると別の場所のように見える。
長い廊下には魔法灯の淡い光だけが浮かび、窓の外では雲に隠れた月が時折顔を出していた。
トーマは自室へ戻る途中、廊下の角で足を止めた。
何かが聞こえた。
金属が触れ合う、小さな音。
訓練場の方角ではない。
音は、城の奥にある小さな調理室から聞こえていた。
この時間に誰かが料理をしているのだろうか。
トーマは扉へ近づく。
中から、また音がした。
今度は金属ではない。
何かが床に落ちる、鈍い音。
続いて。
「……失敗した」
聞き覚えのある声だった。
トーマは扉を開く。
「ソル?」
調理室の中央に、ソルが立っていた。
普段の戦闘服ではない。
薄い灰色の部屋着に、簡素な前掛けをつけている。
長い髪は後ろでまとめられていたが、何本かの髪が頬へかかっている。
机の上には、小麦粉。
卵。
砂糖。
牛乳。
そして、形の崩れた焼き菓子らしきもの。
床には木の匙が落ちていた。
ソルはトーマを見る。
数秒、完全に動かなかった。
「……見たか」
「何を?」
「全部」
トーマは机を見る。
「焼き菓子を作ってるのか?」
「違う」
「でも材料が」
「訓練だ」
「料理の?」
「手先の制御訓練」
ソルは真顔で答えた。
トーマはもう一度、机の上を見る。
形の崩れた生地。
少し焦げた焼き菓子。
砂糖が必要以上に振りかけられた皿。
「甘そうだな」
「魔力制御には糖分が必要だ」
「食べるために作ったんじゃないのか?」
「違う」
「そうか」
トーマは素直に頷いた。
その反応が予想外だったのか、ソルは少しだけ目を細める。
「疑わないのか」
「ソルが訓練だと言うなら、訓練なんだろ」
「……そうか」
ソルは机へ視線を戻した。
だが、何となく不満そうだった。
トーマは床の匙を拾う。
「手伝おうか?」
「必要ない」
ソルは即答した。
その直後。
机の端に置かれていた卵が一つ、ゆっくり転がった。
ソルが手を伸ばす。
間に合わない。
卵が机から落ちる。
トーマが横から手を出し、床へ落ちる前に受け止めた。
「危なかった」
「……必要ない」
「うん」
トーマは卵を机へ戻した。
「でも、ここにいていい?」
ソルは答えなかった。
断られると思ったが、追い出されもしなかった。
トーマは調理室の端にある椅子へ座る。
ソルは黙って作業を再開した。
卵を割る。
今度は慎重だった。
殻は入らない。
牛乳を計る。
砂糖を入れる。
さらに砂糖を入れる。
トーマは見ていた。
「多くないか?」
ソルの手が止まる。
「普通だ」
「最初にも入れてた」
「見間違いだ」
「三回入れた」
「二回だ」
「そうか」
トーマはまた頷いた。
ソルは少し黙る。
「……甘い方がいい」
「好きなんだな」
「嫌いではない」
「好き?」
「普通だ」
ロイドと同じ答えだった。
トーマは少し笑う。
ソルがこちらを見る。
「何がおかしい」
「ロイドも甘いものを普通って言ってた」
「私はロイドほど入れない」
「今、四回目を入れた」
ソルは砂糖の容器を静かに置いた。
「今のは調整だ」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
ソルはトーマの顔を見る。
からかわれているのか確認しているようだった。
しかし、トーマは本当に納得しているだけだった。
ソルは目を逸らした。
「……変なところで素直だな」
「よく言われる」
「褒めていない」
「そうか」
また少しだけ、ソルの口元が緩んだ。
──
生地を混ぜる作業に入る。
ソルは木の匙を持ち、器の中を回す。
動きは正確だった。
戦場なら、ソルの剣はどんな角度からの攻撃も受け流す。
相手の癖を読み、力を殺し、最短の軌道で斬り返す。
だが、生地を混ぜるとなると話は違った。
力が強すぎる。
器が揺れる。
中身が跳ねる。
「……」
ソルは無言で力を弱めた。
今度は慎重になりすぎて、生地がほとんど混ざらない。
トーマは椅子から立ち上がる。
「やってみてもいい?」
「料理できるのか」
「分からない」
「では、なぜ」
「ソルよりは力が弱い」
ソルは少し考えた。
否定できないらしい。
木の匙をトーマへ渡す。
「ゆっくり」
「ああ」
「外側から内側へ」
「分かった」
「こぼすな」
「努力する」
トーマは生地を混ぜ始めた。
綺麗とは言えない。
だが、器は揺れない。
生地も外へ飛ばない。
ソルは隣でじっと見ている。
距離が近い。
トーマが少し右へ動くと、ソルも同じだけ動く。
「見づらい?」
「確認している」
「何を?」
「手順」
「ソルもやってみる?」
「あとで」
しばらくして、生地が滑らかになってきた。
ソルは少し感心したように言う。
「上手い」
「本当?」
「私よりは」
「ソルにも苦手なことがあるんだな」
ソルの目が細くなる。
「ある」
「意外だった」
「私は何でもできるように見えるか」
「戦うことなら」
「戦うことしかできないように見える?」
トーマは手を止めた。
ソルの声には、わずかな硬さがあった。
トーマは彼女を見る。
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味だ」
「ソルは、何でも一人でできるように見える」
ソルは黙った。
それは褒め言葉のようでいて、彼女にとっては少し違った。
何でも一人でできる。
何でも一人でやる。
誰にも頼らない。
誰にも弱いところを見せない。
だから、誰も隣に来ない。
最強とは、そういう場所だった。
「……できる」
ソルは小さく言う。
「大体のことは」
「うん」
「これも、何度かやればできる」
「そうだと思う」
「なら、手伝いは必要ない」
「でも、今日は一緒にやってる」
ソルはトーマを見る。
「嫌か?」
「嫌ではない」
「なら、いいだろ」
トーマはまた生地を混ぜ始める。
ソルはその横に立ったまま、何も言わなかった。
だが、離れもしなかった。
──
生地を型へ流し入れ、焼き窯へ入れる。
あとは待つだけだった。
調理室の中に、静かな時間が流れる。
トーマは机の上に置かれた、最初の焼き菓子を一つ手に取った。
形は歪んでいる。
一部が焦げ、別の部分は生焼けに見える。
「食べるな」
ソルが言った。
「どうして?」
「失敗作だ」
「でも、食べられそうだ」
「駄目だ」
「毒?」
「違う」
「なら」
トーマが一口かじる。
ソルが止める前だった。
固い。
甘い。
かなり甘い。
焦げた苦みもある。
「どうだ」
ソルの声は平静だった。
だが、少しだけ緊張していた。
トーマはゆっくり噛む。
「甘い」
「それは分かる」
「固い」
「それも分かっている」
「でも、食べられる」
ソルの眉が動く。
「おいしくはないのか」
その問いは、普段のソルからは想像できないほど弱かった。
トーマはもう一口食べる。
「最初にしては、おいしいと思う」
「最初ではない」
「何回目?」
ソルは答えない。
トーマは皿を見る。
歪んだ焼き菓子が十数個。
焦げ方も、形も少しずつ違う。
「何日か練習してた?」
「……三日」
「一人で?」
「そうだ」
「どうして焼き菓子を?」
ソルは机の端を見る。
「大会の後」
「うん」
「皆が互いに菓子を渡していた」
閉会後の交流。
ベイルの者たちが持ってきた保存菓子。
テリアの焼き菓子。
リトルヴァルキリーたちが奪い合うように食べていた。
ソルは少し離れた場所から、それを見ていた。
「私も、何か作れればと思った」
「誰かに渡すため?」
「……別に」
「誰に?」
「決めていない」
ソルは即座に答える。
しかし、視線はトーマから逸れている。
トーマは机の上の材料を見る。
「俺に?」
ソルの肩がわずかに跳ねた。
「なぜそう思う」
「今、ここに俺がいるから」
「偶然だ」
「そうか」
トーマはまた頷く。
ソルはしばらく黙っていた。
「……候補の一人ではあった」
「候補がいたのか」
「皆だ」
「皆に作るつもりだった?」
「そうだ」
「何個?」
「一つ」
「一つを皆で分けるのか?」
ソルは答えに詰まった。
「候補は」
声が小さくなる。
「一人だけだった」
「俺?」
長い沈黙。
焼き窯の中で、火が小さく鳴る。
「……そうだ」
ソルは諦めたように答えた。
「どうして俺に?」
「褒めるから」
「俺が?」
「お前は、よく私を褒める」
ソルは腕を組む。
「戦いが上手い。強い。すごい。届いた。よく見ている。そんなことを、何度も言う」
「本当のことだから」
「皆も思っている」
「でも、言わない?」
ソルは少しだけ頷いた。
最強のソル。
強くて当然。
勝って当然。
敵を倒して当然。
誰もが信頼している。
だからこそ、わざわざ褒める者は少ない。
彼女が傷ついても、立つのが当然。
孤独でも、耐えるのが当然。
ソルはそれを否定しなかった。
自分から求めることもしなかった。
けれど、トーマは違った。
勝てばすごいと言う。
少し笑えば、嬉しそうだと言う。
傷つけば心配する。
些細なことまで見つけて、口にする。
「褒められるの、好きなのか?」
トーマが聞く。
ソルはすぐに答えなかった。
「……嫌いではない」
「レナと同じだな」
「一緒にするな」
即答だった。
「レナは十回言われても足りない。私は一度でいい」
「一度で?」
「正確には」
ソルは少し視線を逸らす。
「本当に思っているなら、何度でも構わない」
「じゃあ、好きなんだな」
「普通だ」
またその答えだった。
トーマは笑う。
「ロイドと同じ」
「私はロイドより素直だ」
「そうかな」
「そうだ」
ソルは真顔だった。
トーマは否定しなかった。
──
焼き窯から甘い匂いが漂い始める。
ソルはすぐに立ち上がった。
「そろそろだ」
窯を開ける。
熱気が広がる。
中には、小さな丸い焼き菓子が並んでいた。
形は完全ではない。
大きさも少し不揃い。
だが、先ほどの失敗作よりずっと綺麗だった。
ソルは慎重に取り出す。
一つずつ皿へ並べる。
最後の一つを置いた時、ソルはほんの少しだけ満足そうな顔をした。
「できた」
「上手くいったな」
「まだ食べていない」
「でも、見た目はいい」
ソルはトーマを見る。
「本当に?」
「ああ。最初のよりずっと綺麗だ」
「最初ではない」
「三日目の最初?」
ソルは少し考える。
「それならいい」
焼き菓子が冷めるまで待つ。
ソルは何度も皿を見ていた。
戦闘前でも、これほど落ち着かない姿は見たことがない。
トーマは少し可笑しくなった。
「緊張してる?」
「していない」
「何度も見てる」
「状態確認だ」
「手も少し震えてる」
ソルは手を握る。
「熱のせいだ」
「そうか」
「そうだ」
しばらくして、ソルは一つをトーマへ差し出した。
「食べろ」
「いいのか?」
「そのために作った」
言った後、ソルの目が少し大きくなる。
隠すのを忘れたらしい。
トーマは受け取る。
「ありがとう」
一口かじる。
外側は少しだけ固い。
中は柔らかい。
甘さは強い。
だが、先ほどのように苦くない。
「おいしい」
ソルは動かない。
「本当に?」
「ああ」
「気を遣っていないか」
「使ってない」
「どこがいい」
「中が柔らかい」
「ほかは」
「甘い」
「それは分かっている」
「形も可愛い」
ソルの頬がわずかに赤くなる。
「菓子の話か」
「焼き菓子の話」
「……そうか」
なぜか少しだけ残念そうにも見えた。
トーマはもう一口食べる。
「ソルが作ったと思うと、もっとおいしい」
ソルの顔が完全に止まった。
「それは」
「何?」
「……ずるい言い方だ」
「どうして?」
「分からないなら、そのままでいい」
ソルは自分の分を一つ取る。
一口食べる。
静かに噛む。
「どう?」
「甘い」
「おいしい?」
「悪くない」
「もっと喜んでもいいんじゃないか」
「作った本人が喜ぶのは変だ」
「三日も練習したんだろ」
ソルは黙る。
トーマは笑う。
「すごいな」
「何が」
「戦い以外でも、できるようになるまで続けたこと」
「大したことではない」
「俺にはできるか分からない」
「教える」
ソルはすぐに言った。
「次は、お前が作れ」
「ソルが教えるのか?」
「三日分の経験がある」
「じゃあ頼む」
「その時は」
ソルは少し考える。
「二人で作る」
「皆の分も?」
「皆の分も」
その言葉とは裏腹に、声は少し不満そうだった。
トーマは気づかない。
「ミアはいっぱい食べそうだな」
「ミアの分は小さくする」
「どうして?」
「数を増やすためだ」
「レナもたくさん食べる」
「レナの分も小さくする」
「ノアは?」
「少し甘さを抑える」
「ユナは木苺味が好きだ」
「混ぜられる」
「ロイドは砂糖三つ」
「二つと言っていた」
「知ってるのか?」
「皆知っている」
ソルは焼き菓子をもう一つ取った。
「でも」
「うん?」
「今日の分は、トーマだけだ」
「全部?」
「全部」
「多いぞ」
「食べられなければ、明日食べろ」
「皆には?」
「秘密だ」
ソルは真剣だった。
トーマは皿を見る。
二人では多い。
だが、ソルが三日間かけて作ったものだ。
「分かった」
トーマは頷く。
「全部食べる」
「無理はするな」
「でも、ソルが作った」
「無理をして食べると、嬉しくない」
「じゃあ少しずつ食べる」
「それがいい」
ソルは満足そうに頷いた。
──
焼き菓子を食べながら、二人は調理室で話した。
普段のソルは、必要なことしか話さない。
けれど今夜は違った。
甘いものが好きなこと。
雨の日は訓練場の匂いが変わるので、少し好きなこと。
髪を結ぶのが面倒で、時々切りたくなること。
けれど短くすると似合わない気がして、そのままにしていること。
眠れない夜には、城の一番高い塔へ行くこと。
高い場所から明かりを見るのが好きなこと。
「一人で?」
トーマが聞く。
ソルは頷く。
「一人の方が静かだ」
「寂しくない?」
「慣れている」
「慣れてるのと、寂しくないのは違うだろ」
ソルの手が止まる。
「誰に聞いた」
「自分で思った」
「そうか」
ソルは皿の上の焼き菓子を見る。
「寂しくないと思っていた」
「今は?」
「時々、寂しい」
素直な答えだった。
「昔は一人が普通だった。誰も近づかなかった。私も、それでいいと思っていた」
「強すぎたから?」
「それもある」
ソルは窓の外を見る。
「誰かと親しくなれば、守るものが増える」
「うん」
「失うのが怖くなる」
以前、ソルはトーマに言った。
名前が増えるのは重い。
覚えるほど、失うのが怖くなる。
「あまり近づかなければ、失っても痛くないと思っていた」
「本当に?」
「違った」
ソルは静かに答える。
「離れていても、誰かがいなくなれば痛かった」
「じゃあ、離れてた意味は?」
「なかった」
その言葉には、自分への小さな呆れが混じっていた。
「今は皆といる方がいい?」
「……悪くない」
「好き?」
「普通だ」
「またそれか」
「便利な言葉だ」
トーマは笑う。
ソルもほんの少しだけ笑った。
「でも、二人きりの方が話すんだな」
トーマが言う。
ソルの笑みが消える。
「皆の前では、言う必要がない」
「俺には?」
「お前は」
ソルは言葉を選ぶ。
「何を言っても、私を弱いとは思わない」
「弱いと思うこともあるぞ」
ソルがトーマを見る。
「どこが」
「今、皆に焼き菓子を食べられたくなくて秘密にしてるところ」
「それは弱さではない」
「寂しいって言ったところ」
「……撤回する」
「もう聞いた」
「忘れろ」
「忘れたくない」
ソルは目を細める。
「どうして」
「本当のソルを知れたから」
その言葉に、ソルは何も返せなかった。
本当の自分。
強くない自分。
誰かに褒めてほしい自分。
一人が寂しい自分。
甘い菓子を一人のために作り、うまくできたか不安になる自分。
そんな姿を知られるのは、怖いと思っていた。
最強ではなくなれば。
価値がなくなる気がしていた。
だが、トーマは何も変わらない顔で隣にいる。
「強くないソルでもいい?」
ソルは静かに聞いた。
トーマは少し驚いた。
「強くない時もあるだろ」
「そういう意味ではない」
「じゃあ?」
「戦えなくても。勝てなくても。何もできなくても」
言葉が少しずつ弱くなる。
「私を見つけるか」
トーマはすぐに答えた。
「見つける」
「どうして」
「ソルだから」
「強くなくても?」
「強いのはソルの一部だろ」
トーマは焼き菓子を一つ取る。
「甘いものが好きで、褒められると嬉しくて、一人だと寂しい時があって、料理はまだあまり上手くない」
ソルの眉が寄る。
「最後は余計だ」
「でも三日で上手くなった」
「そこは残せ」
「そういうソルも、全部ソルだ」
トーマは言う。
「俺は強いソルも好きだし、今のソルも好きだ」
沈黙。
調理室の火が、小さく鳴る。
ソルは完全に固まっていた。
やがて、耳まで赤くなる。
「……好き?」
「仲間として」
ソルは目を閉じた。
「そこは言わなくていい」
「どうして?」
「今だけは、言わなくていい」
トーマは意味が分からない。
ソルはしばらく顔を伏せていたが、やがて小さく息を吐いた。
「トーマ」
「何だ?」
「もう一度、言え」
「何を?」
「今の」
「料理がまだ上手くない?」
ソルの目が鋭くなる。
「その前だ」
「三日で上手くなった?」
「もっと前」
トーマは考える。
「強いソルも、今のソルも好き?」
「……そうだ」
「好きだよ」
ソルは顔を逸らす。
「もう一度」
「好きだ」
「もう一度」
「何回言うんだ?」
「レナは十回でも足りないと言った」
「一緒にするなって言ってた」
「今は同じでいい」
トーマは少し笑った。
「ソルが好きだ」
「もう一度」
「ソルが好きだ」
「あと一度」
「ソルが好きだ」
ソルは満足したように、ほんの少しだけ笑った。
普段の静かな微笑ではない。
子どもが欲しかったものをようやくもらえた時のような、無防備な笑顔だった。
「ありがとう」
その言葉も、小さかった。
「どういたしまして」
トーマが答える。
ソルは机の下で、自分の手を握っていた。
胸がうるさい。
剣を交える前よりも。
ロイとの決着の瞬間よりも。
ずっと落ち着かない。
褒められるのが好きだと思っていた。
だが、トーマから欲しかったものは、褒め言葉だけではなかった。
強いから認めてほしいのではない。
ソル自身を見てほしかった。
その願いに、今初めて気づいた。
──
夜も更け、二人は調理室を片づけた。
トーマは残った焼き菓子を布で包む。
ソルは器を洗う。
先ほどまでの不器用さが嘘のように、片づけは手際がよかった。
「こういうのは上手いんだな」
「汚れを落とすのは戦場でもする」
「同じなのか?」
「似ている」
全てを片づけ終える。
トーマは焼き菓子の包みを持った。
「部屋まで持っていく」
「落とすな」
「大丈夫」
「崩すな」
「気をつける」
「ミアに見つかるな」
「難しそうだ」
ソルは少し考え、包みへ小さな隠蔽術式をかけた。
「これで見えない」
「匂いは?」
ソルがさらに術式を重ねる。
「消した」
「そこまでするのか」
「必要な措置だ」
本気だった。
二人は廊下へ出る。
調理室の灯りを消すと、また城の静けさが戻ってくる。
ソルはトーマの隣を歩く。
普段なら少し前か、少し後ろ。
完全に並ぶことは少ない。
今夜は肩が触れそうなほど近かった。
「トーマ」
「何だ?」
「部屋へ戻ったら、すぐ寝るか」
「たぶん」
「少しだけ、塔へ行かないか」
「一番高い塔?」
「そうだ」
「夜の明かりを見る場所?」
ソルは頷く。
「一人で行く場所じゃなかったのか」
「今日は二人でいい」
「分かった」
二人は城の階段を上る。
高い塔。
ソルが一人で静けさを守ってきた場所。
そこへ、初めて誰かを連れていく。
階段を上りながら、ソルは何度かトーマを振り返った。
いる。
ちゃんとついてきている。
それを確認すると、また前を向く。
最上部の扉を開く。
夜風が二人を迎えた。
眼下には、シェイン王国の明かりが広がっている。
家々の灯火。
城壁の見張り火。
遠い街道を照らす魔法灯。
空には星。
地上にも星。
「綺麗だな」
トーマが言う。
「そうだろ」
ソルは少し誇らしげだった。
「ここ、好きなんだな」
「普通だ」
「好きなんだな」
「……好きだ」
今度は認めた。
二人は塔の縁に座る。
夜風は少し冷たい。
ソルは肩を寄せる。
ほんの少しだけ。
トーマは気づいていないのか、何も言わなかった。
ソルにとっては、それでよかった。
大げさに心配されるより。
理由を聞かれるより。
ただ隣にいてくれる方がよかった。
「トーマ」
「うん?」
「今夜の私は、記録するな」
「どうして?」
「皆に見られたくない」
「焼き菓子のことも?」
「特にそれだ」
「甘いものが好きなことは?」
「それも」
「寂しいことは?」
ソルは少し黙る。
「……それは、一番書くな」
「じゃあ、覚えておく」
「お前だけ?」
「ああ」
ソルは夜の街を見る。
「それならいい」
「でも、忘れるかもしれない」
「忘れたら」
ソルはトーマを見る。
その目は、戦場のものではなかった。
ただ一人の少女の目だった。
「もう一度、二人で焼き菓子を作る」
「思い出せる?」
「思い出せなくても、また同じことをする」
「それなら、新しい記録になるな」
「そうだ」
ソルは少し笑う。
「何度忘れても、何度でも私を知ればいい」
「ミアと同じことを言うな」
「一緒にするな」
「でも、同じだ」
ソルは反論しようとした。
だが、やめた。
「……少しだけなら、同じでいい」
トーマは笑った。
ソルも笑う。
二人きりの塔の上。
誰も見ていない。
だからソルは、強くなくてもよかった。
孤高でなくてもいい。
寂しいと言っても。
甘いものが好きだと認めても。
好きな相手に、何度も好きと言わせても。
誰にも知られない。
トーマだけが知っている。
それが、ソルには嬉しかった。
「トーマ」
「何だ?」
「今日は帰るな」
トーマは目を瞬かせる。
「城の中にいるぞ」
「そういう意味ではない」
ソルは少し言葉に迷う。
「もう少し、ここにいろ」
「ああ」
トーマは頷く。
「眠くなるまで?」
「私がいいと言うまで」
「長そうだな」
「嫌か」
「嫌じゃない」
ソルは満足そうに、街へ視線を戻した。
二人は長い間、そこにいた。
話す時もあった。
黙る時もあった。
焼き菓子を一つずつ食べた。
夜風に吹かれた。
ソルは途中で少し眠くなり、何度か頭が揺れた。
最後には、トーマの肩へ頭を預けていた。
「ソル?」
「起きている」
「寝てたぞ」
「目を閉じていただけだ」
「戻る?」
「まだ」
ソルはトーマの服の袖を軽く掴む。
「もう少し」
「分かった」
ソルは目を閉じる。
今度は本当に眠り始めた。
最強の戦乙女は、眠っている間だけ、完全に無防備だった。
トーマは起こさないよう、動かなかった。
夜の終わりまで。
ソルが目を覚ますまで。
そこにいた。
トーマの記録帳
ソル。
シェインで一番強いヴァルキリー。
強いだけではない。
本当は
そこから先は空白だった。
ソルとの約束を思い出し、トーマが筆を止めたからだ。
代わりに、別の一文だけが書かれていた。
昨夜、ソルと大事な時間を過ごした。
内容は秘密。
忘れたら、もう一度同じ時間を過ごす。
そのページには、誰の追記もなかった。
ロイドも。
ユナも。
ミアも。
ノアも。
不思議なほど、誰も開かなかった。
ただ、ページの間には、小さな焼き菓子の包み紙が挟まれていた。
そこにはソルの細い字で、一言だけ書かれていた。
次は、もっと上手く作る。
その下に、トーマの字が加わっていた。
今回もおいしかった。
さらに後日。
ソルが誰にも見られていないことを確認してから、もう一言だけ書き足した。
なら、また褒めろ。
その約束は、最後へ至るまで。
何度も、静かに繰り返されることになる。




