ロイド
記録にない顔
深夜。
シェイン王国の作戦資料室には、まだ明かりが灯っていた。
トーマはその扉の前で立ち止まる。
廊下の魔法灯は、すでに夜間用の淡い光へ切り替わっている。
城内のほとんどは眠っていた。
それでも、資料室の扉の隙間からは、青白い光が漏れている。
誰がいるのか、考えるまでもない。
トーマは扉を軽く叩いた。
返事はない。
「ロイド?」
もう一度呼ぶ。
やはり返事はない。
トーマは少し迷ってから、扉を開いた。
資料室の中には、数え切れないほどの記録板と書類が並んでいた。
大会の戦闘記録。
合同訓練の結果。
各国のヴァルキリーの能力分析。
記録喰いに関する調査資料。
忘却の剣の封印状況。
机の中央には、開かれた記録板がいくつも重ねられている。
そして、その間にロイドがいた。
机へ突っ伏し、眠っている。
「……寝てる」
トーマが小さく呟く。
いつものロイドなら、誰かが扉を開ける前に気づいていたはずだった。
それほど疲れていたのだろう。
トーマは近づいた。
ロイドは眼鏡を外していた。
普段はきっちりとまとめられている髪も少し解け、頬へかかっている。
眉間には、眠っていても薄く皺が寄っていた。
片手には筆。
もう片方の手は、小さな記録帳の上に置かれている。
トーマは机の端に散らばった紙を見る。
最初に目に入ったのは、自分の名前だった。
トーマ
精神状態:大会後は比較的安定。
忘却の剣への依存傾向は低下。
他者の名前を反復することで自己認識を維持。
無理を自覚しても一人で行動する可能性あり。要監視。
最後の一行に、トーマは少し眉を寄せた。
「要監視……」
その下には追記がある。
「監視」という表現は不適切かもしれない。
「帰還支援」に修正予定。
トーマは少し笑った。
さらに次の紙を見る。
レナ
待機命令の成功率が上昇。
褒めると極端に機嫌が良くなる。
治療中でも走ろうとするため注意。
ソル
ロイ戦後、表情が以前より柔らかい。
本人へ指摘すると否定する可能性が高い。
ノア
魔力制御は精神状態に強く左右される。
一人で抱え込ませないこと。
ミア
怪我を隠した前例あり。
朝の訓練場を定期確認。
ユナ
周囲を支える側に回りすぎる。
本人の負担についても確認が必要。
どの記録にも、戦術とは関係のない言葉が混じっていた。
体調。
感情。
好きなもの。
嫌がること。
褒めるべき点。
注意すべき癖。
ロイドは、皆をよく見ている。
ただ勝つためではない。
誰も失わないために。
トーマは、ロイドの手の下にある小さな記録帳へ目を向けた。
表紙には何も書かれていない。
公的な記録ではないらしい。
勝手に見るべきではない。
そう思い、視線を逸らそうとした時。
ロイドが小さく呟いた。
「……トーマ」
トーマの動きが止まる。
「起きた?」
返事はない。
寝言だった。
ロイドの眉間の皺が深くなる。
「戻って……」
掠れた声。
「名前を……」
その手が、何かを掴もうとするように動いた。
地下闘技場。
忘却の剣に乗っ取られたトーマ。
仲間を次々と打ち倒し、ロイドにも刃を向けた。
あの時の光景が、今も残っている。
トーマは机の向こうから、ロイドの手へ自分の指を触れさせた。
「戻ってる」
小さく言う。
「俺はトーマだ」
ロイドの指が、トーマの手を掴んだ。
強く。
眠っているとは思えないほど。
「ロイド?」
その声で、ロイドの目が開いた。
焦点の合わない瞳が、トーマを捉える。
数秒。
そして、自分が彼の手を握っていることに気づく。
ロイドは勢いよく手を離した。
「な……!」
椅子から立ち上がろうとして、机の角に膝をぶつける。
「痛っ……!」
「大丈夫か?」
「問題ありません!」
ロイドは即座に答える。
しかし、膝を押さえている。
トーマは机に置かれていた眼鏡を手に取った。
「眼鏡」
「自分で取れます」
「はい」
差し出す。
ロイドは受け取ろうとして、位置を少し外した。
トーマは目を瞬かせる。
「見えてない?」
「見えています」
「俺の手と違うところを掴んでる」
ロイドの指は、眼鏡ではなくトーマの袖を掴んでいた。
一瞬、沈黙が落ちる。
ロイドはゆっくり手を離した。
「……少々、焦点が合っていないだけです」
「見えてないんだな」
「見えています」
「指、何本?」
トーマは三本の指を立てる。
ロイドは目を細めた。
「二本」
「三本だ」
「あなたは夜中に何をしているのですか」
「ロイドが寝てたから」
「それと指の本数に何の関係が?」
「眼鏡がないロイドは珍しい」
「観察しないでください」
ロイドは少し赤くなった顔を逸らした。
いつもの鋭い視線も、眼鏡がないと少し弱く見える。
トーマは眼鏡を手渡そうとした。
だが、ロイドがまた少し違う方向へ手を伸ばす。
「動かないでください」
「動いてない」
「では、もう少し右へ」
「ロイドから見て?」
「私から見てです」
トーマは眼鏡を近づける。
ロイドの指が、今度はトーマの手に触れた。
二人とも止まる。
距離が近い。
眼鏡をかけていないロイドの瞳が、すぐ目の前にある。
普段よりずっと柔らかく、少しだけ不安そうだった。
ロイドの頬が、ゆっくり赤くなっていく。
「……近いです」
「眼鏡を渡してるから」
「渡し方というものがあります」
「見えてないから近づけた」
「その言い方は撤回してください」
「見えてる?」
「撤回してください」
トーマは少し笑いながら、眼鏡を彼女の手に置いた。
ロイドは素早く眼鏡をかける。
見慣れた鋭い目が戻った。
ただし、顔の赤みは消えていない。
「それで」
ロイドは咳払いをする。
「なぜあなたがここにいるのですか」
「眠れなかった」
「また夢ですか」
「今日は違う。喉が渇いたから水を取りに来た」
「水場はこの階ではありません」
「明かりが見えた」
「なるほど」
ロイドは机の上を見た。
散らばった記録板。
書きかけの資料。
そして、トーマの前に開かれている人物記録。
彼女の表情が固まる。
「読みましたか」
「少し」
「どこまで?」
「俺が要監視って書かれてるところまで」
ロイドは目を閉じた。
「忘れてください」
「俺にそれを言うのか?」
ロイドは言葉に詰まった。
トーマは過去を忘れている。
今も忘却の脅威と戦っている。
その彼に、忘れろと言った。
「……失言でした」
「別に怒ってない」
ロイドは記録板を集めようとする。
トーマが一枚を押さえた。
「どうして隠す?」
「公的記録ではないからです」
「皆のことが書いてある」
「勝手に読まれることを想定していません」
「優しいことも」
ロイドの手が止まる。
「優しい?」
「皆を心配してる」
「管理です」
「ミアが褒められると機嫌がよくなることも、管理か?」
「効率的な指導方法です」
「ノアを一人にしないことも?」
「精神安定は魔力制御に必要です」
「ユナの負担を見ることも?」
「支援役の消耗は全体へ影響します」
「ソルの表情が柔らかくなったことは?」
ロイドが黙る。
トーマは少し笑った。
「それも作戦?」
「……観察です」
「ロイドは、皆のことが好きなんだな」
眼鏡の奥の目が大きく開く。
「何を突然」
「違う?」
「好悪で記録しているわけではありません」
「嫌いな相手のことを、こんなに細かく見ないと思う」
「敵であれば見ます」
「敵じゃないだろ」
ロイドは答えなかった。
机の上に視線を落とす。
「記録しておかなければ」
やがて、小さな声で言った。
「消えるかもしれません」
トーマの表情から笑みが消える。
ロイドは記録板の端を指でなぞる。
「地下闘技場で、記録喰いに接触した時、記録が欠けていく感覚がありました」
「うん」
「覚えていたはずのものが、輪郭を失っていく。名前を書いても、その文字が意味を持たなくなる」
ロイドの声は落ち着いている。
だが、指先は少し震えていた。
「恐ろしかった」
大会のアリス戦。
彼女は記録板に書いた。
怖い。
それでも、記録する。
勝つための言葉だった。
同時に、自分の恐怖を初めて認めた記録でもあった。
「私は記録担当です」
ロイドは続ける。
「戦況を残す。兵の状態を残す。損害を残す。次の作戦へ繋ぐ」
「うん」
「記録がなくなれば、同じ失敗を繰り返します。誰かが何をしたのかも、何を守ったのかも、分からなくなる」
ロイドは自分の胸元を押さえた。
「そして、記録する私が忘れれば、皆が本当に消えてしまう気がする」
トーマは静かに聞く。
「だから、全部書くのか?」
「可能な限り」
「皆の好きなものまで?」
「……必要になる可能性があります」
「アイスの味とか?」
「士気向上に利用できます」
「寝る時の癖とか?」
「体調管理です」
「俺が笑った回数とか?」
ロイドの動きが止まった。
トーマは机の端にある一枚を指差す。
そこには、小さな字で書かれていた。
本日、トーマが自然に笑った回数:七回。
前週平均より増加。
良好。
ロイドは素早くその紙を裏返した。
「それは統計です」
「何に使う?」
「精神状態の推移」
「俺だけ?」
「主要人物は全員」
「レナの笑った回数も?」
「レナは回数が多すぎるため記録対象外です」
「ソルは?」
「微笑と通常の表情の判別に時間がかかります」
「ノアは?」
「記録しています」
「ロイド自身は?」
ロイドは黙った。
「自分のことは書いてないのか?」
「私は記録する側です」
「答えになってない」
「私の状態は、自分で把握できます」
「さっき寝てた」
「一時的な休息です」
「寝言で俺の名前を呼んでた」
ロイドの顔から血の気が引き、直後に一気に赤くなる。
「聞いたのですか」
「聞いた」
「どこまで」
「戻って、名前をって」
ロイドは片手で顔を覆った。
「忘れてください」
「さっきも言ったけど」
「分かっています!」
珍しく大きな声だった。
資料室に響き、棚の記録板がわずかに震える。
ロイドは深く息を吸い、声を落とした。
「……夢を見ていただけです」
「地下の?」
「はい」
「俺が剣に乗っ取られた時の」
ロイドは頷いた。
「私は、あなたを止められませんでした」
「皆、止めようとしてくれた」
「結果として、セイレンとルークが来なければ、私たちは」
言葉が途切れる。
死んでいた。
口にしなくても分かる。
「私は作戦を立てる者です」
ロイドは眼鏡を押し上げた。
「誰をどこに配置するか。何を優先するか。どこで撤退するか。それを決める」
「うん」
「ですが、あの時は何も決められなかった」
彼女の目が揺れる。
「あなたを敵と判断すべきだった」
トーマは何も言わない。
「戦力差を考えれば、トーマの人格が戻る可能性へ賭けるより、封殺あるいは排除を選ぶべきだった」
冷たい言葉。
だが、その声は震えている。
「それが合理的でした」
「でも、選ばなかった」
「選べなかったのです」
ロイドは唇を噛む。
「私には、あなたを敵だと記録できなかった」
トーマの胸が小さく鳴る。
ロイドは自嘲するように笑った。
「指揮官失格ですね」
「どうして?」
「感情で判断を歪めました」
「俺を助けたかったから?」
「……はい」
「それの何が悪い?」
「結果的に全滅する可能性がありました」
「でも、俺は戻った」
「結果論です」
「ノアが名前を呼んだ。皆が諦めなかった。ロイドも俺を敵にしなかった」
トーマは机越しに彼女を見る。
「だから戻れた」
ロイドは視線を逸らす。
「私は、何も」
「記録してた」
「何を?」
「俺がトーマだったこと」
ロイドがトーマを見る。
「あの時、剣は俺の名前を消そうとしてた。でも皆は、俺を忘却の剣として扱わなかった」
トーマは自分の胸に手を当てる。
「ロイドも、俺をトーマとして見てた」
「……敵と判断できなかっただけです」
「同じじゃないか?」
「違います」
「俺には同じに感じる」
ロイドは何かを言おうとした。
だが、言葉が出てこなかった。
普段なら、どんな問いにも理屈で答える。
正確な言葉を選ぶ。
曖昧さを嫌う。
けれど今は、記録板にも答えがない。
「ロイド」
トーマが呼ぶ。
「何ですか」
「自分のことも記録した方がいい」
「必要ありません」
「必要だ」
「なぜ?」
「ロイドが自分を忘れそうだから」
ロイドの目が細くなる。
「私が?」
「皆のことばかり書いてる。自分が疲れてることも、怖いことも、書かない」
「書く必要が」
「ある」
トーマは机の上から、白紙の記録板を一枚取った。
筆を持つ。
「何をするのですか」
「今日のロイドを書く」
「やめてください」
「ロイド。資料室で寝ていた」
「消してください」
「眼鏡がないと、指の本数を間違える」
「即座に消してください」
「甘い飲み物が好き」
ロイドの眉が動く。
「なぜそれを?」
トーマは机の端を見る。
そこには空になった茶器が置かれている。
底には、溶け残った砂糖の跡。
「砂糖、多い」
「疲労時の糖分補給です」
「三杯分くらい入ってる」
「計量誤差です」
「本当は甘いものが好き?」
「……普通です」
トーマは記録板へ書く。
「甘いものが好き」
「捏造しないでください」
「違う?」
ロイドは答えない。
「あと、寝てる時は少し幼く見えた」
筆がトーマの手から消えた。
正確には、ロイドが奪った。
「それ以上書いたら、この記録板を破棄します」
顔が真っ赤だった。
「でも、記録は大事なんだろ」
「残すべき記録と、消すべき記録があります」
「ロイドが可愛かったのは?」
完全な沈黙。
ロイドの眼鏡が、ずり落ちかける。
「……何と?」
「眼鏡がなくて、髪も少し崩れてて。いつもと違って、可愛かった」
トーマは思ったことをそのまま言った。
深い意味はない。
少なくとも本人には。
ロイドは動かなかった。
呼吸すら止めているように見える。
やがて、ゆっくりと記録板で顔を隠した。
「あなたは」
声が記録板の向こうから聞こえる。
「時々、非常に危険です」
「俺が?」
「はい」
「剣は持ってないぞ」
「そういう意味ではありません」
「どういう意味?」
「説明しません」
耳まで赤い。
トーマには理由が分からない。
ロイドはしばらく顔を隠したままだった。
やがて記録板を机へ置き、深く息を吐く。
「忘れてくださいとは言いません」
「うん」
「ですが、他言はしないでください」
「寝てたこと?」
「それもです」
「甘いものが好きなこと?」
「それも」
「可愛かったこと?」
ロイドはトーマを睨んだ。
「特にそれです」
「分かった」
トーマは頷く。
ロイドは少し安心したように肩を下ろす。
「記録帳には書く」
「分かっていませんね?」
「他言はしない。記録はする」
「同じです」
「俺しか見ない」
「ノアさんやミアさんが勝手に追記します」
「隠す」
「ユナさんは見つけます」
「鍵をつける」
「鍵の管理記録から発見されます」
トーマは少し考えた。
「じゃあ、覚えておく」
「……それなら」
ロイドは言いかけて止まった。
トーマが覚えておく。
記録板にも書かず。
誰にも言わず。
彼の中にだけ残す。
それはロイドにとって、不思議な感覚だった。
記録は共有されるもの。
検証されるもの。
残すことで意味を持つもの。
だが、誰か一人の中にだけある記録も存在する。
誰にも見せない。
けれど、確かに覚えている。
「それなら、構いません」
ロイドは小さく答えた。
トーマは笑う。
「分かった」
「本当に?」
「ロイドが、眼鏡がないとよく見えないこと」
「そこではありません」
「甘いものが好きなこと」
「それも含まれますが」
「皆をすごく心配してること」
ロイドが黙る。
「怖くても、記録し続けること」
トーマは続ける。
「俺に帰ってきてほしいと思ってること」
ロイドの指が、記録板の端を握る。
「それは」
「違う?」
長い沈黙。
ロイドは何度か口を開こうとした。
合理的な説明はいくらでもできる。
トーマは重要な調査対象。
忘却の剣との接触者。
戦力としても、情報源としても価値がある。
帰還させるのは国家的利益。
そう答えればいい。
けれど、今夜は眼鏡を外したところを見られた。
寝言まで聞かれた。
隠していた記録も読まれた。
今さら、完全な作戦上の理由だけを口にするのは、ひどく不誠実に思えた。
「帰ってきてほしいです」
ロイドは言った。
「任務上の理由だけではなく」
一度、息を吸う。
「個人的にも」
トーマは静かに彼女を見る。
「うん」
「それだけですか」
「嬉しい」
「そうですか」
「俺も、ロイドに帰ってきてほしい」
ロイドの目が少し大きくなる。
「私がどこかへ行く前提ですか」
「ロイドも無理するから」
「あなたほどではありません」
「資料室で寝てた」
「それはもう忘れてください」
「忘れない」
「そういう時だけ、記憶力がよいのですね」
ロイドは困ったように笑った。
ほんの少し。
公的な場では見せない笑い方だった。
鋭さも、硬さもない。
ただ疲れていて。
少し恥ずかしそうで。
それでも安心したような笑み。
トーマはその顔を見た。
「また笑った」
ロイドの笑みが消える。
「記録しないでください」
「覚えておく」
「……そうでしたね」
ロイドは目を逸らす。
だが、今度は否定しなかった。
──
「それで」
ロイドは机の書類を整理し始める。
「あなたは水を飲みに来たのでしたね」
「ああ」
「ここにはありません」
「さっきの茶器は?」
「冷めています」
「ロイドはまだ仕事する?」
「残りを少し」
トーマは机に積まれた資料を見る。
「少しには見えない」
「優先分だけです」
「どれ?」
ロイドが指差す。
五つの束がある。
「全部じゃないか」
「全部、優先度が高いのです」
「寝てた」
「一時的な」
「休もう」
「まだ」
トーマはロイドの筆を取った。
「何をするのですか」
「没収」
「返してください」
「休んだら返す」
「子ども扱いしないでください」
「ミアにはこうすると効く」
「私はミアさんではありません」
「じゃあ、どうしたら休む?」
ロイドは答えない。
トーマは少し考える。
「甘いお茶を入れる」
ロイドの目がほんの少し動いた。
「砂糖多め」
「買収ですか」
「効きそう?」
「……休息中に資料を三枚だけ確認できるなら」
「駄目」
「二枚」
「駄目」
「一枚」
「お茶だけ」
ロイドは不満そうに眉を寄せた。
トーマは笑う。
「作戦失敗だな」
「あなたが相手だと、予定が狂います」
「それほどでも」
「褒めていません」
「でも休む?」
ロイドは机の資料を見た。
そして、トーマを見る。
「十五分だけです」
「一時間」
「三十分」
「分かった」
「交渉成立ですね」
ロイドは立ち上がる。
その瞬間、長時間同じ姿勢だったせいか、足元がふらついた。
トーマが腕を支える。
二人の距離がまた近くなる。
ロイドはすぐに姿勢を戻した。
「問題ありません」
「今日、何回目だ?」
「数えていません」
「記録しようか?」
「必要ありません」
トーマは手を離す。
ロイドは自分の腕に残った感触を気にするように、袖を整えた。
「行きましょう」
「ああ」
二人は資料室を出る。
ロイドが魔法灯を消す直前、机の上の一枚の記録板が淡く光った。
そこには、ロイド自身も書いた覚えのない細い術式が浮かんでいた。
円環状の認識固定式。
テリア女王が使う術式と、よく似た形。
ロイドは一瞬だけ振り返る。
「どうした?」
トーマが聞く。
ロイドは記録板を見る。
しかし、光はすでに消えていた。
「……何でもありません」
「本当?」
「はい」
ロイドは扉を閉めた。
今はまだ、形にならない違和感。
自分の記録術式が、なぜテリアの術式に似ているのか。
幼い頃から自然に使えたこの力を、誰から受け継いだのか。
答えはない。
だから、今は記録しない。
けれど、忘れもしない。
ロイドは隣を歩くトーマを見る。
彼は水を飲みに来ただけだったはずなのに、今は甘い茶を作る場所を探している。
計画性がない。
危なっかしい。
記録不能な行動が多い。
それでも。
「トーマ」
「何だ?」
「お茶を入れる時、砂糖は二つで十分です」
「三つじゃなくて?」
ロイドが足を止める。
「なぜ三つだと」
「茶器の底」
「……二つです」
「分かった。三つ」
「話を聞いていましたか?」
「計量誤差かもしれない」
「その言葉を悪用しないでください」
トーマは笑った。
ロイドはため息をつく。
だが、その足取りは資料室にいた時より少しだけ軽かった。
トーマの記録帳
ロイド。
皆を記録する人。
記録することで、誰かが消えないようにしている。
自分の怖さや疲れは、あまり記録しない。
眼鏡を外すと、近くがよく見えない。
甘いお茶が好き。砂糖は三つ。
俺に帰ってきてほしいと言った。
俺も、ロイドには帰ってきてほしい。
その下には、いつの間にか整った字で訂正が入っていた。
砂糖は二つです。
また、「眼鏡を外すと」の一文は作戦上不要です。
さらにその下へ、トーマの字が続く。
記録にないロイドを覚えるために必要。
しばらく空白があり。
最後に、ロイドの字で短く書かれていた。
このページは機密記録に指定します。
その横には、三重の封印術式が施されていた。
だが翌朝には、ミアがなぜか内容を知っていた。
ユナは何も言わず、ロイドを見るたび少しだけ口元を緩めた。
ノアは「甘いお茶、今度一緒に飲みたい」と言った。
ロイドは三人がどうやって封印を突破したのか、半日かけて調査した。
結局、犯人はトーマだった。
「皆にもロイドの好きなものを知ってほしかった」
そう真顔で説明する彼を前に。
ロイドはしばらく怒ることも、呆れることもできなかった。
そして最後には、眼鏡を押し上げながら小さく呟いた。
「やはり、あなたは要監視です」
けれど、記録板の上では。
**要監視**の文字が、また一度消されていた。
代わりに書かれていたのは。
帰還支援対象。
可能な限り、私が担当する。
その一文だけは、誰にも見つからないように。
ロイド自身の記録帳の、一番奥へ閉じられていた。




