第32話:トイレ
2026年10月
川崎ダンジョン第二層草原エリアの地下10mに構築したおじさんだけの地下工房。
白光を放つ光り苔に照らされたこの空間は、エアーライフルの試作や、錬金術の練習を行うための拠点になりつつあった。
しかし、この地下工房に滞在する時間が長くなるにつれ、深刻な問題が浮上してきた。
「トイレ。これを解決しないと、長時間の作業など不可能だな」
人間、どれほど強力な魔法や未知の技術を手に入れようとも、生理現象からだけは逃れられない。
ダンジョン内では、放置されたゴミや排泄物は基本的には自動で消滅しない。
各階層を徘徊している掃除人たるスライム君がゆっくりと掃除してくれるのだが、自分の工房の床にそのまま排泄するわけにはいかない。
かと言って、用を足すたびに10m上の地上へ這い上がり、さらに遠いダンジョン出入り口の協会支部まで戻るなど、非効率の極みだった。
「現場の衛生環境の確保。これもまた、持続可能な作業における鉄則だな」
おじさんはノートを開き、地下拠点用汚物処理システムの設計を始めた。
構造自体は、基本的な知識があればそれほど難しくない。
工房の隅に独立した個室を設け、便座を設置する。
その真下に垂直の配管を通し、さらに地下へ掘り進めた約3m3の空間ーーすなわち、簡易的な汚水処理槽へと直結させる構造だ。
汚水処理槽の内部には、第一層で生け捕りにしてきた通常のスライム君を10匹ほど入れて、浄化してもらう予定だ。
彼らの持つ分解能力を利用し、排泄物をその場で完全に分解させるという、ダンジョンの生態系を組み込んだトイレ計画である。
「水をどうするか。流すための給水設備がない」
この第二層は、何時に進入しても常に快晴のポカポカとした草原エリアだ。
曇ることもなければ、雨が降ることもない。
何より、周囲に川や湧き水といった水源が一切存在しないのだ。
毎回、現代社会からペットボトルの水を数10リットルも担いで降りるのは、効率の観点から見ても割に合わない。
(……そこで私は、事前に読み漁っていた協会掲示板のある情報を思い出した)
第四層の鍾乳洞エリア。
そこには、体表から常に清水を分泌し続ける『ウォータースライム』という固有種が生息している。
長いので今後は『Wスライム』と呼ぼう。
「なるほど。あいつらを数匹生け捕りにして、工房の生け簀に放しておけば、永久機関とはいかなくても、自動で給水し続けるローカルな水道局が作れるな」
方針は決まった。
まずは、受け皿となるトイレの作製である。
(……私は工房の壁面をさらに3mほど横へくり抜き、換気口も備えた個室を作った。
便座の構造については、ネットの情報で事前に勉強し、内部のトラップの角度まで頭に叩き込んである)
地面の土を対象に、錬金術の『理解・分解・再構築』を発動させた。
カチリと世界の歯車が噛み合う感覚。
今回は強度を必要としないため、魔力消費の少ないレベル1の指定で十分だ。
おじさんのイメージ通り、土の粒子が滑らかな曲線を描き、陶器製の一体型便便器にそっくりなものが音もなく成形されていく。
続いて、その真下の岩盤を垂直にくり抜き、直径10cmほどの排水路を通す。
この通路だけは、汚物の詰まりを避けるため、内面をレベル3の滑らかな鏡面状態へと結晶化させた。
さらに配管の途中をS字型に湾曲させる。
現代の配管工学におけるトラップ構造だ。
ここに常に水が溜まるようにしておけば、地下の汚水処理槽から上がってくる汚臭を遮断できる。
ひと通りの土木工事を終え、おじさんは便座を眺めた。
形はできた。
あとは、水を確保しに行くだけだ。
*
翌日。
(……私は新兵器であるエアーライフルの試射とデータ調整をすべて終わらせていた。
5.6MPa圧で発射される2.5cm弾は、突進してくるイノシシモドキを一発で光の粒子へと変えるだけの威力を示していた)
そこそこ使えることが分かったところで、おじさんは次なる目的地、第四層への遠征準備へと移った。
まずは情報収集だ。
川崎ダンジョンの協会ショップへと足を運び、なじみの店員にそれとなく第四層の鍾乳洞へ行く際の、推奨される安全装備について尋ねてみた。
「第四層ですか? あそこは足場が濡れていて滑りやすいですし、上から落ちてくる吸血ヒルや、第三層から引き続いて大コウモリや毒蜘蛛も出ます。
基本的には、第一層のスライムを狩る時の耐酸性な服装と、第二層でイノシシモドキを相手にする時のプロテクターを組み合わせればOKだそうですよ。
あ、それと、状態異常を仕掛けてくる魔獣が多いので、協会推奨の『解毒薬』だけは絶対に忘れないでください。1本2,000円ですけど、命には代えられませんから」
「なるほど、詳しくありがとう」
(……私はアドバイスに従い、解毒薬を5本ほど購入してリュックサックへ収めた)
今回の遠征にあたり、服装は以下のような全部乗せの重装備へと新しく整えられた。
上着は、現代の現場作業で広く使われている、高強度繊維で作られた防刃・耐摩耗性のワークシャツ。
その上に、防弾チョッキ風のプロテクターを着用。
プロテクターのポケットには、板状のポリカーボネートの板が複数入っている。
さらにその上から、スライムの酸や鍾乳洞の水滴を弾くための、ポリエステル製のウィンドブレーカーを羽織る。
下半身は、膝に補強当てのついたカーゴパンツ。
頭部は撥水性の目出し帽で髪の毛を保護し、その上から大きめのゴーグルと自転車用の軽量ヘルメットを装着。
手には耐酸性・薄型タクティカルグローブ、足元は当然、踏み抜き防止材の入った作業用安全ブーツだ。
機能性と安全性を追求した結果、現代社会で見かけたら一発で警察に通報されるレベルの不審な格好が完成したが、誰もいないダンジョンの通路ならこれが正装である。
今回の作戦目的は、あくまでWスライムの捕獲だ。
戦闘はなるべく避ける。
目標はWスライムの確保。
できれば、30から50cmを4匹ほど生け捕りにして持ち帰りたい。
安全第一の隠密行動に徹する。
場合によっては泊まりになるかもしれないので、リュックサックには2日分の食料と水もしっかりと詰め込んだ。
左腕には四角いポリカーボネート製の盾。
右手には、20m先の標的なら撃ち抜ける、純機械式スコープを搭載したエアーライフル。
(……よし。私の第二の人生、初の本格的な遠征といくか)
おじさんはボルトレバーを軽く引き、銃身の金属音を地下通路に響かせながら、未知なる第三層、そして、目的の第四層へと続く薄暗い階段をゆっくりと降り始めた。
(つづく)




