09。さいあく
帰宅して玄関のドアを開けた瞬間、ぼくは異変に気づく。
靴が多い。
廊下を通ってリビングのドアを開けると、タンクトップとショーツしか身につけていない長身の女性がソファーの上であぐらをかいてテレビを観ている。
女性はぼくを一瞥しただけで、すぐさまテレビに顔を向け直す。
「おかえり」
と言われたので、
「ただいま」
とっさにそう返してはみたものの、どうだろう。
何か変、というか。
反対なんじゃないかな?
おかえり、を言うべきなのは、女性じゃなくて、むしろぼくのほうなのでは?
なぜなら、彼女はアメリカの大学を卒業したあと旅に出ていたぼくの姉だからだ。
ぼくはキッチンへと赴く。
水を一杯飲む。
よし。
落ちついた。
今のぼくは冷静だ。
おかえり、はぼくの台詞。
間違いない。
リビングに戻り、あらためて姉に声をかける。
「おかえりなさい」
「うん」
姉はニュース番組を放映しているテレビから目を離そうとしない。
「ただいま」
あられもない恰好をしている姉の隣にはなんとなく座りづらいし、さりとて久しぶりに会った姉を無視して部屋へ向かうわけにもいかないので、ぼくとしてはなるべく姉のほうを見ないようにしてソファーの近くに立っているしかない。
「いつ戻ってきたの」
「今日、帰国した」
「そう。うずみは?」
「風呂じゃないの。知らないけど」
「次はいつ旅立つの?」
「あんたね」
姉はぼくを睨んで舌打ちをする。
テーブルの上にはビールの缶が二つ、三つある。
姉はそのうちの一つを引っつかんで口をつけ、ぐっと呷る。
「そんなにあたしを追いだしたいわけ? 何? ここにいちゃ迷惑?」
「そういうつもりで言ったわけじゃないよ」
「だったら、どういうつもりで言ったの」
「姉さんはあまり家に居つかないでしょう。だから、またすぐにどこかへ行ってしまうのかと思って」
「悪いけど、どこにも行かないから。少なくとも、当分はね。金、なくなったし」
「悪くはないんじゃないかな」
「ほんとにそう思ってるんだか。女にふられたあとみたいな、辛気くさいツラしてさ」
「ふられてはいないよ」
「は? 何? ふったの?」
「いや」
ため息が出る。
余計なことを口走ってしまったのかもしれない。
かもしれない、というか、間違いなく口走ってしまった。
「どうもしないよ」
「嘘ついてるでしょ」
「ついてない」
「お座り」
姉は自分の隣、じゃなくて、足許の床を指さす。
逆らうと、あとが怖い。
ぼくはやむをえず姉に指示された場所に正座する。
「何でしょうか」
「何があったの」
「だから、べつに何も」
「ごまかすつもり?」
「そんな気は毛頭ないです」
「ほーお」
姉はビール缶をテーブルに置く。
それからの動きはやたらと素早い。
姉は後ろから両脚をぼくの首に巻きつけて、ぎゅうぎゅう絞める。
「言え!」
「ちょ、ちょっと、く、苦し――」
「だったら言え! ほら言え! すぐに言え! 言え! 言え! 言え!」
ぼくは暴れる。
これは本当に本当なので明言しておくが、自分の首の後ろに姉の股間が密着していることなんてまったく意識していなかった。
それどころの騒ぎでじゃなかったので、姉の息づかいが何やらあやしくなってきて初めて、これはもしかしてまずいんじゃないかという考えが心に浮かぶ。
そんなわけで、ここに至ってぼくは本気の本気で抵抗しなければならなくなる。
しかしながら、姉は女性であるとはいえ、脚力は腕力の三倍から五倍だという話を聞いたことがある。
両脚を駆使してぼくの首を絞めながら、股間をぼくの首と後頭部の境目あたりにさかんに押しつけて前後左右に動かす姉を振りほどくのは容易なことじゃない。
まあ、何をしてもいい、手段を問わないというのであれば、おそらくそうでもないのだろうが、いくらなんでも姉に怪我をさせるわけにはいかないし、微妙な部分に手をふれるわけにもいかない。
そうはいっても、本格的に苦しくなってきて、そこまで不穏当じゃない非常手段をとらざるをえないところまで、ぼくは追いこまれる。
こうなったらもう、これくらいはしょうがない。
ぼくは手をのばして姉の脇の下をくすぐりはじめる。
「きゃはははははははははははははははははは?」
思惑どおり、脚の力がゆるむ。
ぼくはその隙に姉の脚から逃れ、床を這ってリビングから飛びだし、自分の部屋に駆けこんで内側から鍵をかける。
「こら! 開けろ! 開けろって言ってんでしょ! 開けろ!」
姉がドアを叩きまくる。
風呂場から妹が何か叫ぶ。
姉が怒鳴り返す。
ぼくは耳をふさぐ。
そんなに自分を追いだしたいのか。
姉がそう言っていた。
ここにいては迷惑なのか、と。
じつはそのとおりだ。
ぼくは姉が苦手だ。
ずっと苦手だったわけじゃない。
昔は自慢の姉だと思っていた。
ぼくの姉は小さなころから美少女の誉れが高かった。
とても賢くて、学業はもちろん、ピアノなどの習い事においても超絶優秀だった。
なおかつ、心優しく、包容力があるという、ほとんど非の打ち所がないといっても過言じゃないような人だったのだ。
でも、違う。
そうじゃなかった。
少なくともある時点からは、非の打ち所がない天才美少女という役柄を、完璧に演じていたのだろう。
姉は現在二十四歳だ。
ぼくよりも七つ年上だから、あれは姉が中学校三年生、ぼくが小学校二年生のときだった。
はっきり覚えているのだが、姉は突如、めずらしく家族全員での夕食の席で、高らかに宣言した。
「わたし、明日から、わたしをやめます」
何のことかわからず、呆気にとられている家族をしりめに、姉はその翌日から、非の打ち所がない天才美少女という役柄を放棄した。
まず、口調が変わった。
態度が変わった。
気に入らないことがあると、誰彼かまわず八つ当たりするようになり、何かに興味を引かれると、他のことをうっちゃって、れに集中するようになった。
一時期、姉はいわゆるアダルトビデオをところかまわず鑑賞しまくって、妹が泣きだしても決してやめなかった。
そのあとは家に男の人を連れこむようになり、朝から晩まで性行為ばかりしていた。
姉は中高一貫の有名私立に通っていて、成績は抜群によかったのだが、家にも帰らず、学校にも行かず、問題になったことが一度ならずあった。
何をしていたのか、ぼくには知る由もないが、きっと何かにのめりこんでいたのだろう。
高校二年のときは、部屋でおびただしい数の昆虫を飼って、その中には例のGまで含まれていたので、ぼくと妹はいつも恐怖に震えていた。
ぼくが小学校五年生になると、男性の第二次性徴の過程を克明に記録したいと言いだして、ぼくをたびたび全裸にさせ、さまざまな部位を写真に収めてレポートのようなものを作成した。
こんなことは恥ずかしいので誰にも打ち明けられないが、ぼくが初めて射精を経験したのは、姉の目の前というか、姉の指導による。
そのときはあまりよく理解していなかったので、羞恥心よりも何だこれという混乱が勝っていたものの、次第にとんでもないことをしてしまったという後ろめたさがこみ上げてきた。
ぼくにとってはトラウマになっている出来事だ。
どうやら姉は、性的な行為全般についての考え方、とらえ方が、たとえばぼくや妹とはだいぶ異なっているようだ。
たぶん、一般的な日本人とはかなり、そうとう異なっている。
以前、姉の講釈を拝聴したことがあるのだが、性欲はごくあたりまえのもので、誰にでもあるものであり、よって、それを隠し立てするほうがおかしい、というようなことを言っていた。
それで姉は、性欲を催せば、それを解消しようとするのだろう。
外ではどうか知らないが、家の中だとあまり人目を気にせず自慰行為に及ぶこともある。
相手がいれば、当然、それは性行為という形になる。
そうした姉の行動には、ぼくも妹も非常に困惑させられた。
姉のせいで、かえってそうした事柄から目をそらしたがるようになったのではないかとも思っている。
人間というものは、ある程度性的に成熟すれば、そうした事柄に興味を持ったり、そうした欲求を持ったりするものなのだろう。
それは自然のことなのだろう。
でも、ぼくらは姉のせいで、自然の流れに身を任せる前に、それを過剰に意識させられてしまった。
もしかしたら、姉のせいで、嫌悪感すら抱くようになってしまったのかもしれない。
思えば、桃川みうに迫られたとき、ぼくは思春期の若者らしく欲望に身を任せてもよかったはずだ。
けれども、できなかった。
腰が引けてしまった。
はっきり言って、姉のせいで、ぼくは女性とそういう行為に及ぶことが恐ろしい。
いつか見た発情している姉は、まるで獣のようだったのだ。
獣がよくないとか、人は獣のようであるべきじゃないとか、そういうことではなくて、自分の姉が獣のように発情していたという事実が、ぼくを萎縮させる。
桃川みうと自分が性行為に及ぶ。
その場面を想像すると、ぼくを襲うのは欲情と恐怖だ。
ぼくだって、この年齢の健康な男子だから、マスターベーションをすることもある。
でも、そのたびにぼくは、とてつもない罪悪感に苛まれるのだ。
とても後悔して、二度とすまいと思う。
かといって、恥ずかしながら、たまれば出したくなる。
姉が主張していたとおり、たしかに人間の身体はそのようにできているのだろう。
我慢すれば我慢するほど、性的な妄想が次々とわき起ってきて、ついには我慢しきれなくなる。
であれば、その必要性を感じたら、さっさと処理してしまったほうがいい。
それでも、そのたびごとにぼくは絶望する。
ぜんぶ姉のせいだ。
ぼくはそう思っている。
ぼくの姉は変態だ。
ぼくは、そしてたぶん妹も、変態な姉の被害者なのだ。
姉はアメリカの大学に入って卒業すると、就職するでもなく、大学院に行くでもなく、旅人になる道を選んだ。
ぼくはずいぶんほっとしたものだ。
日本の企業に就職して、家に帰ってくる、なんてことになったらたまらない。
そうならなくてよかった。
心の底からそう思った。
それなのに、帰ってくるなんて。
しかも、当分はこの家にいるつもりだと言っていた。
最悪だ。




