10。あれあれ?
眠れない。
桃川みうのことで手一杯なのに、あの姉まで帰ってきて、寝られるわけがない。
ベッドで横になっていると、桃川みうと砂竹が裸で絡みあっている姿や、姉が自慰をしている姿が思い浮かんで、とても、とても、ものすごく悲しくなるのと同時に、本当にやるせないことに、劣情を催してしまう。
ぼくは、でも、鉄の意志でもって、絶対にその部分をさわったりしない。
それをしてしまったら、ぼくは立ち直れなくなる。
脳内で勝手に繰り広げられる妄想の中で、ぼくは桃川みうと性行為に及ぶ。
だが、そんなことは決して起こりえない。
そう考えると、桃川みうはぼくをありとあらゆる方法で愛撫しはじめる。
おかしくなりそうだ。
いっそ、放出してしまおうか。
何度もそう思う。
ぼくは耐える。
耐えに、耐える。
歯を食いしばって耐えている。
スマホが鳴る。
どうしよう。
ていうか、誰なんだ。
ぼくはベッドの上で何度も寝返りを打つ。
着信音は途切れない。
とうとうぼくは根負けする。
スマホを手にとると、ディスプレイにはぷりるんの名前が表示されている。
ラインじゃない。
音声通話でもない。
電話だ。
着信を拒否しようかとも思う。
できない。
ぼくは電話に出る。
「もしもし」
返事はない。
無音だ。
いや。
息をのむような音が聞こえる。
「もしもし。何も言わないなら、切るけど?」
『ぷりるん』
「……それは何も言っていないのと同じだ」
『ぷ……ぷり』
動揺しているらしい。
ぼくは待つ。
しゃべれ。
いいかげん日本語をしゃべってくれ。
しゃべれないならしょうがないが、そうじゃない。
しゃべれるじゃないか。
だったら、しゃべれ。
べつにぷりるんがぷりるんしか言わなかろうが、しゃべらなかろうが、どうだっていいのだが、すっきりしない。
もやもやする。
『ぷり』
そうだ。
声を出せ。
『ぷりるん』
「切るね?」
『ぷりるん! ぷりるん! ぷりるんぷりるん!』
「切るよ」
『ぷりるん』
観念したような声音だ。
それでいて、あちらから切る気配はない。
ふと思う。
電話が切れて、ぷつっ、つー、つー、という音を聞くのと、その音を相手に聞かせるのとでは、どちらがせつないだろう。
「じゃあ、また明日」
ぼくは電話を切る。
ぷりるんのおかげで、煩悩は去っている。
やつが役に立つこともあるなんて。
新たな発見だ。
喉が渇いている。
トイレにも行きたい。
ぼくは部屋を出て、まずトイレで排尿する。
リビングは暗い。
姉も自室で寝たのだろう。
このマンションは4LDKで、姉がアメリカに渡ってからも、部屋はちゃんと残してある。
リビングのドアを開けた瞬間、閉めたくなったが、ソファーの上に寝転んでいる姉はどうやら眠っているようだ。
やはりタンクトップとショーツしか身につけていない。
身体をソファーの背もたれのほうに向けて、手足をちぢめ、丸くなっている。
ぼくはだいぶ迷う。
本当に、かなり迷ったのだが、こんな人でも血を分けた姉なのだ。
姉の部屋へ行って、ベッドから毛布とタオルケットを引っ剥がし、リビングに戻ってくる。
起こしてしまわないように、慎重に、そっと姉にタオルケットをかけ、毛布をかけると、重大な任務を達成した特殊部隊員のように安堵している。
満足して、ぼくはキッチンで水を飲む。
シャワーくらい浴びないとな、と思いながらリビングから出ようとしたら、姉がむくりと上半身を起こす。
「これ、あんたが、かけてくれた?」
「うん」
ぼくは冷や汗をかいている。
それにしても、相手は実の姉なのに、どうしてこんな極度の緊張を強いられなきゃいけないんだ。
普通の姉じゃないからか。
そうだ。
そうなんだよ。
ぼくの姉は異常者なのだ。
「寝ていたから。風邪をひくと、いけないし」
「ありがと」
「いえ。とんでもないです」
やめてほしい。
姉から感謝の言葉をかけられたことなんて、姉が非の打ち所がない天才美少女という役柄を放棄して以来、一回でもあっただろうか。
たぶん、ないと思う。
姉はタオルケットと毛布をぎゅっと抱きしめる。
まるで、しがみつくように。
「あんた、大丈夫なの?」
「何が?」
「変だったでしょ」
「そうかな」
「女と別れた?」
「違うよ」
「そういえば、あんた、もうやった?」
「はい?」
「ファック」
「へ?」
「ええと……セックスのこと」
「いえ」
「じゃあ、まだ童貞なの?」
「そうですね」
「なんで?」
「そういう機会がなかったので」
あなたのせいで、とは言えない。
まあ、姉との出来事がなければ、今ごろとっくに女性とそのような行為に及んでいたとは、断言できないわけだし。
「さっさとすればいいのに」
「きっかけがないと、なかなか」
「その気になれば、きっかけなんていくらでも作れるでしょ」
「そういうものかな」
実際、その気になりさえすれば、桃川みうとそのような行為に及ぶ機会はあった。
でも、桃川みうの顔を思い浮かべると、ぼくの胸は鋭い杭を打ちこまれたかのように痛む。
仮にそのような行為に及んでいたら、ぼくは後悔していたんじゃないか。
絶対、悔いていたと思う。
「ぼくは、べつにいいよ」
「いいって?」
「とくに、したいとも思わないし」
「ありえないでしょ、そんなこと。子供が作れるようになったら、やりたくなる。そういうものなんだから」
「でも、ぼくはいいよ」
「それって、あたしのせい?」
姉は昔から頭がよかった。
今でもきっと、頭の回転はすこぶる速いだろう。
だから、自分の行動が周りにどんな影響を及ぼしたか、及ぼしているか、ぼくが感じたこと、感じてきたこと、感じていること、すべてお見通しだとしても、まったく不思議じゃない。
ぼくはこれまでその可能性について考えたことがなかった。
むしろ、姉はぜんぶわかっているとぼくが考えなかったことのほうが、ずっと不自然だし、我ながら不思議でもある。
「お座り」
ぼくは姉に指示された場所まで移動して正座する。
つまり、姉の足許の床に。
姉が右手をのばしてきて、ぼくの顎を人差し指と親指でつまむ。
「あたしとする?」
「は?」
「筆下ろし、してあげようか?」
「いや、それは」
「キスはしたじゃない」
言わないでください。
そのことは、どうか言わないで。
あのとき、姉は二十歳で、ぼくは十三歳だった。
大学に在学中だった姉は、夏休みに一時帰国して、もう酒を飲める年齢だったから、朝から晩まで飲んだくれていた。
どうしてそうなったのか、くわしいことはよく覚えていないが、ぼくは姉に襲われて、唇を奪われた。
というか、唇を舐めまわされて、舌まで吸われた。
何を隠そう、それがぼくのファーストキスだった。
精通事件に匹敵するということはさすがにないとしても、ぼくにとってはトラウマになっている。
「……だけど、それとこれとは」
「たいしたことじゃないでしょ?」
「いや、でも、姉弟だし、いくらなんでも」
「姉弟っていっても、血は繋がってないし」
「いや、そうはいっても――」
ん?
あれ?
なんか……あれ?
ちょっと……あれ?
あれあれあれあれあれ?




