07。ミッション
ようやく仕事から解放されると、もう午後七時近い。
ぼくは二年P組の教室へと向かう。
仲のいいグループに属している人びとが、わりと遅くまで教室に残って雑談していることがたまにある。
ぼくはその事実を知っている。
なんとなく、一人で家路につきたくはない。
さりとて、那智部長に「一緒に帰りませんか」と誘いをかける度胸もない。
そんなことはできない。
教室には明かりがついている。
ドアは開きっぱなしだ。
近づいてゆくと、話し声が聞こえてくる。
知っている声だ。
どうやら、ぼくとしてはクラスで一番仲がいいと思っている可賀池ノボルの声らしい。
「――で、訊くからさあ、そこは教えたわけ」
「教えたんだあ」
「そこは教えるでしょ。やっぱり」
「てゆーかあ、あれじゃね? モモはやばくね?」
「いやそれは俺も思ったけど。正直」
「みゅーはねーよなあ」
二、三人、いや、四人くらいだろうか。
げらげら笑っている。
可賀池ノボル以外は、知っている声もあれば、知らない声もある。
ぼくと仲のいいグループの人びとが、他のクラスの生徒も交えて楽しげに談笑している、といった風情だ。
それはいいのだが、彼らが話題しているのは、桃川みうのことなんじゃないか。
「でもさ、なーんでよりにもよってモモなんかね? ちょっとタイプ違くね?」
「若干意外だったね。俺も」
と応じたのは可賀池ノボルだ。
ぼくは彼らの声がよく聞こえる地点で足を止めている。
「いやでも、内心、けっこーウケてたけど」
可賀池ノボルがそう言いながらギャハハッと笑い、他の者たちも笑う。
「モモはねーよなあって。つーかさあ。あいつ、知らんのかね? モモのこと。だって、わりと有名じゃね?」
「けっこー誰でも知ってるよね」
「まあねえ。そういうとこがねえ。あいつはねえ。ねえ?」
可賀池ノボルが腹を抱えて笑いながら話している姿が目に浮かぶ。
「いやでも、実際、俺も思ったの。こういうのもいい経験かなあってね? だってさあ。あいつって、あれでしょ。ほら。親もあれだし。家がさあ。そういうのもあるんだろうけど、ちょっと調子乗ってんじゃん。ようするに。本人、そういうつもりはないのかもしれんけど。傍から見ればさ、明らかにもう調子乗ってんじゃん」
さっきまで笑っていた可賀池ノボルの声が、だんだんと鋭い棘を生やしてゆく。
棘は生物が自分の身を守るためにその進化の過程で獲得したものだという。
可賀池ノボルはその棘で何を守ろうとしているのだろう。
「ちょっとさあ。痛い目に遭ったほうがいいよね。たまにはね。そういうのも必要じゃね? 本人のためにもね。そういうのはね。経験しといたほうがいーべ? これから何が起こるかわかんねーわけだし。長い人生だし?」
ぼくは立ち去ることにする。
一人で家路につきたいような心境じゃなかったのだが、気が変わっている。
今日は一人で帰ったほうがよさそうだ。
一人きりで。
地下鉄の駅まであと少しというところで、スマホの着信音が鳴る。
みうだ。
ぼくは三秒間くらい迷う。
結局、音声通話に出る。
「もしもし」
『もしもしー。ユラキくん?』
「うん。どうしたの?」
『うんとねー。あたし、これから、長谷山くんと、遊びに行くのー』
「そう」
『そうなのー』
「そうなんだ」
何なんだろう。
この人は。
いったいどういうつもりなのか。
わからない。
頭痛がしてくる。
立っているのがつらい。
「それで、何?」
『それだけー』
「わかった。じゃあ」
『あ、待って待って』
「何?」
『今度、遊ばない?』
「え?」
『あたしと、遊ぶのー。や?』
「いや、といいますか」
あなたには他に遊び相手がいるようじゃないですか。
ぼくと遊ぶことはないじゃないですか。
なぜぼくを誘うんですか。
それはいったいぜんたい何の罠なのですか。
「……べつに、いいですけど」
『そっかー。いつがいいかな?』
「ええと……ぼくは、とくに。いつでも」
『じゃあ、明日?』
「はい」
『学校終わったら、えーと、四時半くらいにー、瓦町で?』
「それで、いいです」
『そしたら明日ねー。ばいばーい』
「ばいばーい」
電話を切った途端、しゃがみこんでしまう。
なぜだ。
どうしてぼくはみうの誘いに乗ってしまったのか。
理由はある。
ぼくは単純に疑問だったのだ。
不思議で仕方ない。
みうが何を考えているのか、何を企んでいるのか、さっぱりわからない。
わからないから、知りたい。
それはごく自然な欲求だと思われる。
さっき問い質してもよかった。
しかしながら、みうはこれから長谷山くんと遊びに行くらしい。
何をして遊ぶのか知らないが、長々と話している時間はないだろう。
明日、二人きりで会うというのなら、そのときに尋ねればいい。
じっくりと聞きだせばいい。
以上がぼくの理由だ。
とはいえ、本当にぼくはそんなふうに考えてみうの誘いに乗ったのか。
そんな考えは露ほどもなかった、とは言えない。
そうした考えがすべてだった、とも言いきれない。
ぼくにはわからない。
みうは意味不明だ。
摩訶不思議で奇怪な問題だ。
この問いを解き明かさないと、ぼくは一歩も前に進めないような気がする。
翌日、いったん帰宅して私服に着替えてきた桃川みうは、相変わらずお姫さまみたいで、ちょっと現実離れした愛らしさをふりまいている。
やはりすてきだ。
そのとろけそうな愛らしさでコーティングされた問いを解くというぼくのミッションは、なかなかに達成困難なのではないかと思わざるをえない。
だって、待ち合わせの場所でみうを待っている間、ぼくの頭はミッションのことだけで一杯だったのだ。
ところが、いざみうがやってきて、挨拶を交わして、みうに腕を組まれて、歩きだすと、ぼくはミッション以外のことも考えてしまう。
ミッション以外のことばかり、どうしても考えずにはいられない。
ぼくを一番苦しめたのは、こんなにも愛らしいみうと、たぶん二人きりで遊んだのだろう砂竹と長谷山は、いったい何を思い、何を感じ、何を考えたのか、ということだ。
それから、みうと砂竹、みうと長谷山は、いったい何をしたのか。
手をつないで歩いたのだろうか。
腕を組んで歩いたのだろうか。
遅い時間まで二人きりでいたのだろうか。
あげくの果てには、ぼくはまだ経験したことのない、あんなことやこんなことをしたのだろうか。
そんなことはないはずだ。
否定できるか?
その材料は?
ない。
とくにない。
そんなこともあったのかもしれない、とぼくは考えるべきだろう。
考えたくはない。
ぼくはみうに好意を抱いていた。
みうもぼくのことを好きだと言ってくれた。
こういう言い方はやや古くさいかもしれないが、ぼくらは両想いだったはずだ。
それなのに、なぜこんなことで思い悩まなければならないのだろう。
可賀池ノボルの言葉が思いだされる。
つーかさあ。
あいつ、知らんのかね?
モモのこと。
だって、わりと有名じゃね?
みうはどうしてわりと有名なのだろう。
どういう評判が立っているのだろう。
今日、可賀池ノボルに尋ねることもできた。
可能か不可能かでいえば可能だったが、無理だった。
ぼくは今日、可賀池ノボルと仲のいい友だちのふりをすることに精神的活力の大部分を費やしたのだ。
可賀池ノボルはとりたてて無理なくぼくと仲のいい友だちのふりをしているように見えた。
可賀池ノボルは慣れているのかもしれない。
友だちのふりをすることに。
ずっとそうしていたので、今さら疲れることなどないのかもしれない。
だから、ぼくは訊けなかった。
他の誰にも訊けなかった。
桃川みうとは、いったいどういう女の子なのだろう。
今のところ、ぼくはそれを自力で解明するしかない。
解明しなければならない。
本当に?




