06。みえない
カーテンが閉められた薄明るい部室に入ると、案の定、ぼくの他には小塚那智しかいない。
那智部長は愛用のパーソナルコンピューターに向かって、猛烈な速度でキーボードを叩いている。
今はあぐらだ。
上履きを脱いで、椅子の上で正座したり片膝を立てたりあぐらをかいたり、きっと無意識の動作なのだろうが、那智部長はプログラミング中、さまざまな体勢をとる。
たまに太腿がのぞいたりして、ぼくなんかはどきっとしてしまうが、那智部長は気にするそぶりを見せない。
おそらく気にならないのだろう。
プログラミングに集中しているときの那智部長は、感覚が遮断されているかのようだ。
もちろん、部室に入ってきたぼくにも気づいてないと思う。
以前、同学年の不届きな男子部員が、ひょっとしたら、性的な悪戯をしても気がつかないんじゃないか、などという不埒なことを、那智部長がプログラミングをしている部室の中で言ったことがある。
那智部長はまったくの無反応だった。
さすがに不届き男子部員が言っていたようなことはないだろうが、もしかしたら、と思わせる。
それくらい、那智部長の集中力はすさまじい。
ただし、何の前ぶれもなく手を止めて正気に戻ったりするので、ぼんやりときれいな脚を見つめていたりすると、かなりまずいことになる。
「ん」
今日も那智部長は、いきなり手を止めてこちらに顔を向ける。
「きていたの。ユラキ。そして、また見ていたの。わたしの脚」
「……はい。すみません」
那智部長の脚がちょうどよく見えるベストの位置に椅子を置いて座っていたぼくとしては、もう赤面するしかない。
ぼくはべつに女性の脚が特別好きで、ようするにいわゆる脚フェチだとか、そんなことは決してないのだが、那智部長の脚は細すぎず太すぎず、非常にすべすべしていて、とてもきれいだ。
こんなことを力説するのも、我ながらどうかと思う。
声を大にして主張していないのだが、せめてもの救いだ。
とにかくぼくは、那智部長の脚よりもきれいな脚にはお目にかかったことがない。
それで、機会があると、つい見てしまう。
見とれてしまう、といっても過言じゃない。
そのことは、すでに那智部長にもばれている。
ぼくがそういうことをしがちな人間だと露見しているからといって、堂々と女性の生脚を鑑賞するというのも、やはり不躾だろう。
「ごめんなさい。もうしません」
「べつにいいけれど」
那智部長は脚を下ろして靴を履く。
その靴を履く仕種にも、独特なおもしろみというか、はっきり言うと色っぽさがあって、どうしてもぼくは目で追ってしまう。
「見られて減るものでもないし」
減らないのかなあ。
減りはしないか。
しかし、自分以外の誰かに見られると、減ってしまうような感覚にぼくは襲われるかもしれない。
那智部長が顎で別のパーソナルコンピューターを示す。
「仕事をしてちょうだい」
「わかりました」
「いい返事」
那智部長は、ふっ、と唇の端にうっすらと笑みを浮かべる。
電研初の女性部長は、自分に逆らう者には容赦しないが、従う者には寛大だ。
ぼくは那智部長に指定されたパーソナルコンピューターを起動させる。
ここで一つ断っておかければならない。
ぼくは電研の部員だが、コンピューターに関してはずぶの素人だ。
何しろ、電研での活動は那智部長に指示されたとおりのことを行うだけだし、知識らしい知識はとりたてて必要ない。
ぼくとしても、那智部長には興味があったが、コンピューターについて深く知りたいという欲求があったかといえば、皆無に近かった。
デジタルネイティブと呼ばれる世代なのに、ぼくはスマホさえ使いこなせないようなアナログ人間だ。
プログラミングには数学が深く関わっているという。
数学は嫌いじゃないが、プログラミングのスキルを獲得したいかと訊かれたら、否と答えるしかない。
本当に興味がない。
那智部長はぼくに共有フォルダを開くように言いつけ、実行ファイルとチェックリストのエクセルファイルの名前を告げる。
ぼくはその両方を実行して、手順どおりにテストプレイを行い、チェックリストに○×と動作不良の内容を書きこんでゆく。
作業。
作業。
作業。
作業に次ぐ作業を、淡々とこなす。
那智部長のテストプレイに付き合わされなかったら、いつかプログラミングに興味を引かれることもあったかもしれない、と思ったりもする。
しかしながら、今のぼくには目的が与えられている。
チェックリストを埋める、という目的が。
目的があるのなら、それを達成するためにやるだけだ。
やるべきことを与えられて、それをやる。
仕事をする。
ぼくはこれがわりと苦手じゃない。
好きなわけじゃないが、たぶん得意なほうなんじゃないかと思う。
そうはいっても、那智部長のように、他のことは何も目に入らない、聞こえない、というほど集中することは、いくらなんでもできない。
那智部長はいったん部室から出ていって、戻ってくる。
紙パックのジュースを買いに行ったらしい。
「ユラキには、ぶどう。わたしは、みかん」
「ありがとうございます」
ぼくは手を休めてぶどうジュースを飲む。
那智部長にジュースをおごってもらったのは、これが初めてじゃない。
比較的よくある。
少なくとも、めずらしい出来事じゃない。
那智部長は愛用の椅子に腰かけ、片方の靴を脱いで、みかんジュースをストローで飲みながら片膝を立てる。
無防備な姿だ。
あまりにも。
慌ててぼくは目をそらす。
「片平にもメールを出したのだけれど」
片平というのは、以前、那智部長の前で、ひょっとしたら、性的な悪戯をしても気がつかないんじゃないか、などということを言った同学年の不届きな男子部員だ。
「こないのよ。あのエロガキ」
「そうですか」
「片平がわたしの出頭要請を無視したのは、これで三度目だわ」
那智部長はちょっと拗ねたような目をして、みかんジュースをちゅうちゅう吸う。
「そろそろクビね」
「クラスも違いますし、くわしいことは知りませんけど、最近、恋人ができたとか」
「そうなの?」
「ええ。そのような話を本人の口から聞きました」
「わたしは聞いていないわ」
「片平は、那智部長には言わないと思います」
「なぜ?」
「言わないような気がします」
じつは、那智部長に恋心を打ち明けて、あえなく玉砕した過去が片平にはある。
ぼくは事の顛末をあとで聞かされたのだが、片平は那智部長と二人きりのときに、自分と付き合ってください、と正面から愛の告白をした。
返ってきた答えは「なぜ?」だった。
片平は、それは自分が那智部長に好意を抱いているからであると、真心をこめて説明したようだ。
その答えも同じだったらしい。
「なぜ?」
そこで片平は、那智部長のどういった部分に魅力を感じるか、また、どのような経緯で思慕するようになったかなど、詳細に、丁寧に、誠実に語ったというが、努力の甲斐もむなしかった。
那智部長はきっぱりと拒絶した。
片平はこう言われたらしい。
「わたしには、あなたと付き合うことなどできないわ」
那智部長は理由もちゃんと教えてくれたようだ。
「わたしには恋い焦がれる相手がいるからよ。むろん、それはあなたなどではないわ」
片平は失恋した。
それでも、那智部長に呼びだされたら律儀に部室に顔を出していたのだが、そのうち別の誰かと恋に落ちた。
傷心の日々がようやく終わりを告げたわけだ。
片平にしてみれば、もうできるだけ那智部長とは顔を合わせたくないのだろう。
その気持ちはなんとなく理解できる。
「片平はわたしの役に立つことよりも色恋のほうが大事なのね」
那智部長は不満そうだ。
「たった週に一度くらいなのに」
自分でフッておいて、という理屈は、那智部長には通用しそうにない。
謎めいた人だが、少しだけ思考が読めるようにはなってきた。
ともあれ、片平も貴重な部員だったし、ぼくにしてみれば同学年の仲間だったのだが、彼が電研に戻ってくることはない。
「電研は安泰なんでしょうか」
「わたしの次の部長次第よ」
「候補は誰でしょう」
「あなたがやる?」
「無理ですよ。ほとんど何の知識もありませんし、精力的に活動しているわけでもないですし」
「そうね。でも、それは全員似たようなものだわ。適格者はいない」
「そうですか」
「電研はわたしの代で終わりね」
那智部長はストローを噛んで、くくっ、とおかしそうに笑うと、もう片方の靴も脱いでしまい、椅子の上で両膝を抱えこむ姿勢になる。
きれいすぎる脚が、見えすぎている。
見えすぎているのだが、見えそうで見えない。
満たされず、満たされることはおそらくないのに、完璧なまでに満たされてる。
ぼくは目をそらすことができない。
那智部長は咎めないし、いつまでも眺めている。




