27。まぼろし
「そう」
那智部長は小さく息をついて、えい、とぼくの足を膝で突く。
「そのモモとかいう女と淫らなことをしたのね、ユラキ」
「……名前まで覚えているんですか」
「忘れないわよ」
那智部長は椅子の座面の両端を両手でつかんで、そっと笑う。
なぜか、自嘲気味の笑みであるかのように見える。
「ようするに、そのときはできたのに、その後、できなくなったのね」
「……まあ、そういうことですね」
「心の問題なのかしら」
「さあ……それは」
「病院には行ってみた?」
「いえ……それは」
「行きなさい」
「それは……まあ、心の準備ができたら」
「わたしは女だからよくわからないけれど、そのあたりは複雑なものなのかしら」
「そう……ですね。単純では、ない……かな、と」
「ユラキ」
「はい」
ぼくは顔を上げる。
ずっと下を向いていたのだ。
とくに意図があったわけではなく、ぼくは那智部長の脚を見ていた。
那智部長はぼくを見つめている。
ぼくは凝視されている。
そんなに見られたら、穴があいてしまうのではないかと思えるほどだ。
ぼくも那智部長を見つめている。
こんなに近くで、こんなにもじっくりと那智部長の顔を見たのは初めてだ。
畏れ多くて近づくことができなかった。
ちょっと離れた場所から、近くても二メートルくらいは離れた場所から、こっそり美しいおみあしを鑑賞させてもらうくらいが関の山だった。
高嶺の花、という言葉がある。
ぼくにとって、那智部長はまさしくその花だった。
那智部長が美人だということはもちろん知っていた。
芸能人の誰それに似ているとか、いや誰のほうが似ているとか、そんなことを言う者もいる。
けれども、那智部長はその誰とも似ていないと、ぼくは思う。
これはあくまでぼくの意見だが、彼女たちよりも那智部長のほうが美人だ。
ぼくはずっとそう思っていたのだが、それにしても、ここまで美しい人だったなんて知らなかった。
那智部長が自分の足許のを指さす。
「そこに座りなさい、ユラキ」
「はい」
ぼくは何の疑問も抱かずに那智部長の指図どおりにする。
今、ぼくがちょっと目線を下げると、そこには那智部長の膝小僧がある。
那智部長はスカートをぎりぎりまでたくし上げる。
それから、ぼくの頭を両手で抱えるようにして、太腿に押しつける。
ぼくの鼻は那智部長の太腿と太腿の間に収まっている。
唇もそうだから、呼吸することはできる。
那智部長が、ぼくの後頭部から首の後ろ、肩のあたりまでを撫でてくれる。
ぼくは目をつぶる。
その動きがくすぐったかったのかもしれない。
那智部長は少し身じろぎするが、ぼくを撫で回す手を止めることはない。
当然のことながら、ぼくは緊張している。
憧れの人に、こんなことをしてもらっている。
させてもらっているのだ。
この状況で身体がこわばってしまわない者なんているだろうか。
でも、次第にほどけてゆく。
ぼくはやがて、リラックスしているという以外の言葉では表せないような状態になる。
一瞬で逆戻りする。
「わたしはあなたが好きだったのよ、ユラキ」
「え」
「あなたのことが、好きだったの」
「……いつ、ですか」
「あなたが電研に入部して、一ヶ月とか、二ヶ月とか。わたしがあなたを好きだと思うようになったのは、たぶん、そのころだわ。それから、半年くらい前まで」
「……知りませんでした」
「言わなかったもの。態度にも出さなかったはずよ」
「……ぼくの、どこが」
「顔ね。あとは、物腰とか。背恰好」
「知りませんでした」
ぼくは愕然としている。
だって、ということは。
電研に入って一ヶ月、二ヶ月、それから、今から半年前まで、ということは。
「ぼくも、那智さんのことが、好きでした」
「そう」
「好きだったんです。あなたのことが」
「ままならないものね」
那智部長はため息をつきながら笑う。
「わたしはあなたが好きで、あなたもわたしが好きだったのね。その時期は、もしかしたら重なっていたかもしれないのね。それなのに、わたしたちはすれ違ってしまった」
違う。
そんなことはない。
ぼくはここにいて、那智部長はここにいる。
一度すれ違ったとしても、二度と交わることができないとは限らない。
そんなことは言えない。
言えるはずがない。
それは事実じゃないからだ。
たとえば、もし那智部長が今、ぼくを好きだと言い、ぼくの身体が問題を抱えていなければ、ひょっとしたらぼくは、在りし日の思いを再燃させて、これから一生涯、那智部長だけを愛することを誓うとさえ言い切ってしまうかもしれない。
そうしたとしても、ぼくは後悔しないかもしれない。
でも、ありえない。
そんなことは決して、絶対にありえないのだ。
「ごめんなさいね、ユラキ。わたしが今、恋い焦がれている人は、あなたではないわ。だから、こんなことしかしてあげられない」
ぼくは首を横に振る。
十分です。
本当に、十分すぎます。
声には出せない。
目も開けられない。
那智部長は手を止めようとしない。
ぼくは那智部長にすべてを任せる。
だんだん身体から力が抜けていって、眠気が差してくる。
「眠りなさい」
那智部長が囁くように言う。
ぼくは逆らうことができない。
短い間だが、本当に寝てしまう。
今日はうずみにラインでどんなことを伝えよう。
第二エントランスでエレベーターを待っている間、乗っている間、それから降りてからも、ぼくはそんなことを考えている。
解錠して玄関のドアを開ける。
ぼくは十秒間くらいその姿勢を維持している。
リビングの電気がついている。
見覚えのある靴がある。
何度も見直す。
見間違えじゃない。
ぼくはリビングに駆けこむ。
「うずみ……!」
嘘じゃないのか。
ぼくは幻を見ているのもしれない。
うずみはラフな室内着でソファーに腰を下ろして、テレビを観ている。
ぼくを見て、すぐにうつむく。
「おかえりなさい」
間違いない。
うずみの声だ。
「ただいま」
ぼくはそう答えてリビングのドアを閉める。
途端にその場にへたりこんでしまう。
うずみは顔を上げようとしない。
ぼくの口から魂が吐きだされたかのようなため息が出る。
何か言うべきことがあるはずだ。
帰ってきたんだね。
よかった。
心配したよ。
何をしていたんだ。
無事なのか。
どうやら無事みたいだね。
それはよかった。
それが何よりだ。
よかった。
本当によかった。
帰ってきてくれて。
だけどまさか、すぐにまた出て行くというようなオチではないよね。
それはどうか勘弁してほしい。
というのはぼくの気持ちであって、うずみにはうずみの気持ちがあるだろうし、強制することはできないけど、それがぼくの本音なんだ。
それだけはわかって欲しいんだ。
その結果、うずみがどうするかはうずみの自由だけど、帰ってきてくれて、よかった。
顔を見て、安心した。
ほら。
言うべきこと、言いたいことが、こんなにある。
それなのに、言えない。
ぼくの口からは何も出てこない。
「ご飯、あるけど」
うずみはちらりとキッチンのほうを見る。
「食べるなら、用意するけど。おなか、すいてるなら」
腹をさすってみる。
すっかり忘れていたが、空腹だ。
ぼくはうなずく。
「待ってて」
うずみはそう言って立ちあがり、ぱたぱたとキッチンへ駆けてゆく。




