26。だめ
その夜は久しぶりに眠れない。
いつの間にか、姉がいることがあたりまえになっていた。
ぼくは姉に支えられていたのだ。
思えば、良きにつけ悪きにつけ、姉はずっとぼくに影響を与えつづけていた。
そばにいなくなっても、日常生活において姉の存在を意識しなくなっても、その影響から脱したわけじゃない。
姉の言うとおりだ。
ぼくは姉に教育された。
姉がいて、その姉がああいう人じゃなかったら、間違いなく今のぼくはこうなっていない。
ぼくは姉を崇拝していた。
恐れていた。
嫌悪した。
あげくの果てに、とうとう敬愛するようになってしまった。
ここ最近は、その姉がたっぷり甘えさせてくれた。
決して誰にも言ったりしないが、ぼくはこの夜、姉が恋しくて恋しくてたまらない。
旅立った以上、きっと短くても半年とか、一年、もしかしたらそれ以上、姉に会うことはない。
姉はいつでも姉で、姉以外の何者でもない、特別な存在だ。
しかしながら、会うたびにころころと変わる人でもある。
次に会うとき、姉は今日別れた姉とは完全な同一人物でありながら、まったくの別人になっているだろう。
ぼくは寂しい。
受け容れなければならないことを十分理解しているからこそ、とても寂しい。
どうしようもないことを、どうしようもないこととして受容するのは、なんてつらいことなのだろう。
どうしようもないことを、たった一人で受け止めないといけない夜は、こんなにも長い。
長い、長い夜だ。
ひたすら長い夜がようやく明けると、相変わらずぼくは一人きりだったが、朝、地下通路でぷりるんがお守りをくれる。
知らない神社の、表に、旅行安全、と書かれたお守りだ。
一人じゃないよ。
そう言われているような気がした。
「ありがとう」
ぼくが礼を言うと、ぷりるんはにっこりと笑う。
姉がどこかに落ちついたら、このお守りを送ってあげよう。
ぷりるんには悪いが、お守りはたくさんある。
一つくらい誰かに分けたとしても、罰は当たらないはずだ。
それが大切な人で、その人に福を分けてあげられるのであれば、ぼくに少しくらい罰が当たったとしてもかまわない。
可賀池はいつもどおりくだらない話でぼくを笑わせてくれる。
桃川は近ごろ、天然のふりをしてうまくボケてみせるという技術を身につけ、必ずしも適切な表現ではないかもしれないが、グループの中での地位が一気に上がったように思われる。
午前中、那智部長から出頭要請がくる。
ぼくは部活に出ることにする。
歴史ある第九高等学校電子計算機研究部の部室に足を踏み入れると、那智部長は椅子の上であぐらをかいてディスプレイを睨みつけている。
キーボードは打っていない。
腕組みをしている。
何か考えごとをしているのだろう。
今日、出頭要請を受けたのは、どうやらぼくだけらしい。
ぼくはよく使っているパーソナルコンピューターを起動させる。
OSが立ちあがってから、共有フォルダの中をのぞいてみたが、とくに増えているファイルはないようだ。
那智部長からの指示がなければ、何もできそうにない。
かといって、今の那智部長に声をかけるのはちょっとだけ勇気がいる。
盛大に罵られる覚悟がないのなら、那智部長の思索を邪魔しないほうがいい。
ぼくはウェブブラウザを用いて日常的な疑問を解決すべく検索などをして時間を潰すことにする。
気を抜くと、EDとか不能とか解消とか回復とか、そういった単語を検索窓に入力してしまいそうになるので、よくよく注意しないといけない。
今朝、ぷりるんにもらったお守りの神社の名前を覚えていたので、検索してみて驚く。
この住所が確かなら、片道三時間くらいかかるんじゃないか。
なんでもその神社は、交通安全、旅行安全、航海安全、といったお守りを売りにしているらしい。
神社なのだし、売り、という言い方は少々適切じゃないかもしれないので、とりわけそれらのお守りに御利益があるとされている、といったくらいの説明が妥当だろうか。
ぼくの中に、このお守りを必ずや姉の手許に届けなければならない、という考えがますます膨らんでくる。
同時に、姉はもういないのだと、あらためて思う。
姉とはしばらく会うことができないのだ。
今日、家に帰ったら、ぼくは一人なのだ。
ひとりぼっちなのだ。
どうもこのままではろくでもないことを考えてしまいそうだし、ここは一つ、やや危険な賭けになってしまうとしても、那智部長に話しかけてみようか。
ぼくがそうする前に、那智部長が深いため息をつく。
「……だめね」
そうして、頭を抱えて髪の毛をぐしゃぐしゃのめちゃくちゃにする。
「だめだわ。だめ。だめ。ぜーんぜんだめ。何なのよ、いったい。どういうこと? もういいわ。もういい。もういい……」
那智部長はひとしきりぶつぶつ呟くと、回転椅子を回転させて身体をこちらに向ける。
ちなみに、あぐらをかいたままなので、美しい脚がよく見える。
「きていたのね。ユラキ。そして、また見ていたのね。わたしの脚」
「今日は、ずっと見ていたわけではないです」
「なぜよ。見ればいいでしょう。ほら」
那智部長はスカートをたくしあげて両脚をのばしてみせる。
「見なさい。ほら。ほら」
ぼくはその稀有なる美脚をありがたく鑑賞させてもらうが、那智部長はつまらなそうな表情を浮かべる。
「なんだか腑抜けた顔をしているわね。インポテンツにでもなったの?」
おそらく、当てずっぽうですらない。
那智部長は、冗談というか、物の譬えとしてその単語を出しただけなのだろう。
だから、ショックを受ける必要はないというか、ぼくはショックを受けているような態度をとるべきじゃない。
適当にごまかすのだ。
そうしなければならない。
ごまかす。
具体的にはどうしたらいいのか。
たとえば、肯定してみる。
じつは、そうなんです。
だめだ。
これはよくない。
やるとしたら、軽い調子で、いかにもジョークに聞こえるように、じっつはあ、そうなんすよ、やはっ、みたいな感じで言うとか。
言えるだろうか。
自信はない。
微塵もない。
だとしたら、否定する。
そうだ。
それしかない。
「いえ」
これだけというのも何だ。
「それは、違います。ないです。それは」
「顔が引きつっているわよ?」
「そ……う、ですか? そんなことはないと思いますけど」
「ユラキ、あなた、インポなの?」
やめてください。
言わないでください。
その言葉は、どうかこれ以上、口にしないで。
ぼくの目は泳いでいるかもしれない。
「い、ちが、は、え、ち、違う、ますよ」
「ご愁傷さま」
「いえ、そんな」
「憐れね」
「そ、そんなことは」
ありますよね。
ないとは言えないですよね。
ぼくはうつむいてしまう。
なぜ那智部長に。
桃川はああいうことがあったので仕方ないとしても、可賀池にさえ言っていないのに。
あとは姉しか知らないというのに。
よりにもよって、那智部長に知られてしまうとは。
しかも、こちらから悩みを打ち明けたわけでもなく、何か弱みを握られて問いつめられて白状したとか、そういった経緯でもないのに。
「いつから? まさか、ずっとなの?」
「……いえ。まあ、最近、というほど最近なのか……よくわからないんですけど」
「何かきっかけでも?」
「……いえ。まあ、ないような、あるような……よくわからないんですけど」
「以前、ここで何か言っていたわね。あなたが異性と付き合っているとか、いないとか、やったとか、やらないとか。その異性とはどうだったの?」
「……聞いていたんですか?」
「いくらなんでも聞こえないわけがないでしょう」
「……それも、そうですよね」
「集中している間、何も聞こえていないと思っているようだけれど、聞こえていても無視することができるだけよ」
「……そうだったんですか」
「それで? その異性とはちゃんとできたの?」
「……言わないといけませんか」
「どうしても無理に、とは言わないけれど、わたしは聞きたいわ」
那智部長は靴を履いて椅子に座り直し、回転椅子を進ませてぼくに近づいてくる。
どんどん近づいてくる。
今や那智部長の膝はぼくの脚にふれそうだ。
「わたしは聞きたい、と言っているのだけれど?」
これはもう強制だ。
強権発動に限りなく近い。
ぼくは屈服する。
「し……しました」




