25。とびたち
主に姉のおかげで、ぼくの食生活は少しずつ改善されてゆく。
放課後、ぼくはたまに部活に出て、わりと頻繁に可賀池たちと遊びに行くようになる。
桃川が一緒のこともある。
桃川は二日か三日に一度、電話をかけてくる。
どうやら、誰かと寝てしまったあと、桃川はぼくと話したくなるらしい。
ただ、そのことはあまり話題に上らないし、言及したとしても、くわしくは語られない。
ある日の学校で、移動教室のとき、たまたま桃川と二人きりになる。
桃川は、あの、と声をかけてくる。
何か話したいことでもあるのだろう。
そう思って待っていると、桃川はうつむけた顔を赤らめて、だいぶもじもじしたあげく、こんなことを言う。
「あたしと、お友だちで、いてくれますか」
「もちろん」
ぼくは桃川と握手を交わす。
うずみには毎日、一度だけラインを送っている。
毎回、帰ってきてください、だけでは、読む気にもならないだろうと思い、その日の出来事を簡単にまとめて、最後に、気が向いたらいつでも帰ってきてください、でしめることにしている。
両親にうずみのことを報告するべきだろうか。
それについては姉と相談して、やめておこう、ということになる。
というよりも、姉が、その必要はない、と判断する。
ぼくよりも姉のほうが間違っているなんてことは、ちょっと考えづらい。
ぼくは姉に従うことにする。
ぷりるんは何を考えているのか、学校が休みの日以外は毎日、ぼくにお守りをくれる。
最初は三つだったが、さすがに途中から一つになる。
一日につき一つだとしても、呆れるしかない。
だって、ぷりるんがよこすお守りを並べてみると、一つとして同じものがないのだ。
最初のうちは知っている神社のお守りだったのだが、このごろはもう、見も知らない神社の名前が書かれている。
いったいどこの神社なのだろうと思い、調べてみると、公共交通機関を駆使してもゆうに二時間はかかるだろうという場所にあったりする。
「こんなことはやめてくれないか」
ぼくは当然、ぷりるんにそう告げた。
でも、ぷりるんは、ぷりるんぷりるん言うばかりで、やはりぼくにお守りをくれる。
今やぼくの部屋には、家内安全とか、開運とか、厄除けとか、そうしたものならまだしも、商売繁盛、安産祈願といったお守りまである。
御利益があるのかないのか、ぼくにはよくわからないが、どちらにしても、安産だけは将来的にも絶対的に無意味だろう。
ぼくは男なのでそもそも子供を産めないし、誰かにぼくの子供を産んでもらうこともできそうにない。
ぼくはおおよそ健康を取り戻しつつあるが、その部分の機能は回復する兆しすら見えていない。
姉もその部分については何も言わなくなったている。
たぶん、気を遣ってくれているのだろうが、ぼくにしてみれば毎朝、いや、朝以外にも、何かにつけそのことが頭をよぎるものだから、考えない、気にしない、忘れてしまう、ということはやはりできない。
できるだけ表面に出さないように心がけているつもりなのだが、日によっては深く落ちこみ、避けがたく無気力状態に陥ってしまう。
恥ずかしながら、とりわけ体調が良好なとき、ぼくはエロティックなものを見てみたり、その部分を刺激してみたりすることもある。
一度ならず、姉に禁じられる栄養ドリンク的なものをこっそり試してみたこともあるが、今のところすべて無駄に終わっている。
ぼくはもはやあきらめの境地に達しつつある。
そういう日も、実際、ある。
いいや、そんなことはない、あってたまるものか、いつか必ず捲土重来とばかりに復活するに違いないと、根拠もなく信じている、というか、信じたくてたまらない日もある。
ぼくは人知れず浮き沈みを繰り返している。
ふとしたときに、死にたい、と思う。
もういっそのこと、死んでしまおう、と思う。
でも、そんなときに可賀池や桃川からラインが送られてきたり電話がかかってきたりすると、いくらか持ち直す。
ぼくが集めているわけじゃないのに、勝手にたまってゆくお守りのコレクションを眺めていると、深刻に悩んでいるのがなんだか馬鹿馬鹿しくなったりもする。
こんなふうに日々は過ぎ去ってゆき、ぼくのような者でも、死にたくなったり生きていたくなったりしながら、なんとかかんとか生きてゆくのだろうか。
案外、そういうものなのかもしれない。
そんなことを思ったり思わなかったりしながら、いつものようにぼくは帰宅する。
玄関のドアを開けた途端、異変を察知する。
というか、察知なんて回りくどいことをする必要は微塵もない。
一目瞭然だ。
玄関に姉の靴がある。
リビングのドアを開けると、大きなスーツケースが二つ、目に入る。
キッチンに誰かいる。
誰かも何も、姉がエプロンをつけて料理をしている。
「ただいま」
とぼくが言う。
「おかえり」
と姉はぼくを一瞥して返し、すぐさまオーブンレンジに目を戻す。
ぼくはソファーに腰を下ろす。
「アルバイトは?」
「辞めた」
「そう。ぜんぶ辞めたの?」
「そりゃそうでしょ」
「そうだよね」
ぼくはそれきり黙っている。
いろいろなことを考えているようでもあり、何も考えていないようでもある。
「よし、できた」
やがて姉は嬉しそうに言い、ぼくを手招きする。
「おいで」
ぼくはダイニングテーブルの席について、姉が作ってくれた作った魚介類のパスタとローストビーフとサラダを食べる。
夕食にはまだ早いが、それなりに空腹だったし、何より姉は料理上手なので、とてもおいしくいただいてしまう。
姉も自画自賛しながらぼくの向かいの席でナイフとフォークとスプーンを華麗に操る。
ぼくらはぽつぽつと話をするが、なぜかスーツケースや辞めたアルバイトについてはお互いふれない
二人とも食べ終えてから、ぼくが言う。
「また旅に出るんだね」
「軍資金がたまったからね」
「けっこう稼いだ?」
「わりとね。おっさんたちに、だいぶ貢いでもらったし」
「すごいよ。姉さんは」
ぼくはこんなことを言いたいわけじゃない。
「あたりまえのこと言うんじゃないよ」
姉は鼻で笑う。
「人を褒めるならね、月並みな台詞はよしなさい。不愉快なだけだから。オリジナリティーのある褒め言葉以外、あたしはいらない」
「行ってしまうんだね」
「今のは、悪くないかも」
「そうかな」
「そばにいてくれないと困る、それくらい重要な存在で、好きで好きでたまらない、そんなふうに思われるくらいあたしはすばらしいってことを、その一言にこめたわけでしょ?」
「そこまでは思っていないよ」
「なら、安心」
「やっぱり、ちょっと思っているかな」
「でも、あたしは行くよ」
「わかっている」
「正直、ね」
姉は脚を組み、腕組みをしてそっぽを向く。
「あんたのことは心配だけど。あたしにはあたしの人生があるし。あんたはあんたで、自分の人生を見つけなきゃいけないし。まあ、あたしの弟だから、なんとかなるでしょ」
「血は繋がっていないよ」
「だいぶあたしが教育してやったじゃない。とくに人格についていえば、先天的な要因が後天的な要因よりも圧倒的に大きな影響を及ぼすなんていう話は聞いたことないしね。遺伝によって脳の器質はある程度定まるにせよ、それらの素因を後天的な要因が強化したり弱めたりすることで重要な役割を果たすはず。どっちにしても、あんたはあたしの弟だよ」
ぼくは天井を仰いで息を吐く。
この人が姉でよかった。
心の底から、素直にそう思える。
「いつ、出るの?」
「今日」
「そう」
ぼくは思わず両手でテーブルを叩いてしまう。
「今日!?」
「うん。これから。夜の便」
「え!? それ、冗談じゃなくて!? 本当の話!?」
「あんたに嘘ついてどうするの?」
「いや、それはそうかもしれないけど、あまりにも突然だから」
「というわけで、あたし、もう出るね」
「い、今!? もう!?」
「早く空港に着いときたいからさ。落ちつかないし」
姉は椅子から立ち上がってリビングへ向かい、スーツケースを持ち上げる。
ぼくは慌てて姉のあとを追い、スーツケースを引ったくって、玄関まで、と思ったのだが、名残惜しくてエレベーターまで、結局、地下鉄の駅まで見送る。
地下鉄の改札の前で、姉にスーツケースを引き渡す。
娘を嫁に出す父親の気持ちがほんの少しだけ理解できたような気がする。
姉を娘扱いするなんておこがましいにも程があるにせよ、離れがたいにも程がある。
「そんな顔しないでよ」
姉は笑ってぼくのほっぺたをつねる。
「行きたくなくなるじゃない」
「行きたくないなら、行かなければいいんだ」
「ガキじゃないんだから」
「いってらっしゃい」
ぼくはがんばって笑顔を作ってみせる。
いきなり姉がぐっと身を寄せてくる。
唇を奪われたわけじゃない。
でも、口づけをされる。
頬だった。
「連絡するから」
姉はそう言い残して行ってしまう。
一度も、ちらりとも振り返りはしない。
姉の姿が見えなくなっても、ぼくはしばらくの間、改札の前に立ちつくしている。
家に戻ってから、うずみにラインをする。
姉が旅立ったことを中心に、長めのメッセージになる。
気が向いたらいつでも帰ってきてください、じゃなくて、帰ってきてください、で締める。
恰好をつけていられるような気分じゃないし、何よりそれがぼくの正直な気持ちなのだ。




