22。すきすぎて
瓦町から地下鉄に乗って、乗り換えたところで、可賀池とは別れる。
「じゃあ、明日な」
「うん」
「メシ、ちゃんと食えよ」
「このごろ姉さんが食事を作ってくれるんだ。ちゃんと食べているよ」
「そっか」
「じゃあ」
「ああ。また明日」
乗り換えた地下鉄で、ぼくは用心深く周囲をうかがっている。
隣の車両からぷりるんがこっそり移動してくる。
ぷりるんはぼくと目が合うと、いったん逃げようとするが、観念したように肩を落として近づいてくる。
「……ぷりるん」
「何か言いたいことがあるのなら、人間の言葉を話してほしい」
ぷりるんは顔を上げ、ちょっと弱々しい微笑を浮かべて、ぷるぷると首を横に振る。
それきり互いに無言でいる。
ぼくらは地下鉄を降りる。
ぷりるんはやはり地下通路までついてくる。
第二エントランスはもう目前だ。
ぷりるんはぼくの手をつかんで、何か握らせると駆け去ってゆく。
なんとなく予想はついていたのだが、お守りだ。
昨日のものとは違う。
別の神社のお守りらしい。
この神社はたしか、ちょっと離れたところにある。
一つ目は、無病息災御守。
二つ目は、足腰健全御守。
三つ目は、安産御守。
なぜ安産……?
ぼくは首をひねりながらも、やはり捨てるのは罰あたりかもしれないと思い、三つのお守りを鞄にしまう。
エレベーターに乗りこもうとしたら、スマホが鳴る。
音声通話じゃなくて、電話だ。
もしかして、うずみか。
違う。
『もしもしー?』
しまった。
思わず出てしまった。
「……もしもし」
『やーっと、出てくれたね?』
電話を切るべきだろうか。
そうしたほうがいいかもしれない。
迷っているうちに、エレベーターのドアが閉まる。
ぼくは第二エントランスの隅に移動して、壁に背中をもたせかける。
「いつもより、早いね」
『今日は、約束がないの。それで、寂しくて』
「そう」
『遊びに行こう?』
「行かないよ」
『どうして?』
「行って、どうするんだ。どうにもならないよ」
『そんなこと、ないよ? 楽しいこと、しよう?』
「できないよ」
『できるよ。簡単だよ?』
「そうかな」
『できるって言ってるでしょ? あたしが言ってるんだけど? あたしが言ってるんだから、できるに決まってるでしょ? そんなこともわからないの?』
「桃川……」
『やだ。みうって呼んで』
「桃川」
『やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ。やだ! やだ! やだ! やだ! やだ! やだ! やだ! やだ! やだ……! 聞きたくない! 聞きたくない! 聞きたくない! 聞きたくない! 聞きたくない! 聞きたくない! みうって呼んで! みうって! 呼べ! 呼べ! みうって呼べ!』
息苦しい。
ぼくをとらえはじめているのは、恐怖だ。
このままだと息ができなくなってしまう。
心臓が止まってしまう。
「みう」
『できるなら、やって? さっさとやってよ? そういうの、むかつくから。簡単でしょ? あたしのこと、みうって呼んで、それから、ユラキくんは、あたしのこと好きなんだから、あたしのこと、かわいがってくれればいいでしょ? そういうふうにされるのが、あたしは好きなんだから、そうしてよ? 難しくないでしょ?』
「……きみのことを、そういうふうに扱ってくれる人は、いくらでもいるだろう」
『違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! ユラキくんは、わかってない! ちっともわかってない! そうじゃないのそういうことじゃないの問題はそういうことじゃなくてユラキくんあんたがあたしのことをちゃんとしてくれないっていうのが問題なの大問題なのようするにそういうことなのわかる?』
「わからないよ」
『なんで? なんでわからないの? そういうのがむかつんだよ? だって、あたしがこんなに毎日毎日毎日毎日毎日毎日連絡してるのにユラキくんぜんぜんあたしのことちゃんとしてくれないじゃない? それっておかしくない? ね? おかしいよね? おかしいでしょ? 変だよ意味わかんない意味わかんないほんっと意味わかんない!』
「意味がわからないのはこっちだよ!」
つい叫んでしまった。
スマホの向こうが静まりかえっている。
切ろう。
今、切ろう。
切ってしまおう。
そうするべきだ。
そうしたほうがいい。
嗚咽だ。
泣き声が聞こえはじめる。
悪い予感がする。
『……わかった』
とてつもなく、悪い予感しかしない。
『もう、死ぬ』
ぼくは聞き間違えなんじゃないかと疑う。
死ぬ、じゃなくて、死ね、なんじゃないかと思う。
それならべつにいい。
今までもその手の言葉をぶつけられたことはあるし、もう慣れてさえいる。
『死ぬ』
ああ。
違う。
違った。
死ね、じゃない。
『死ぬ。あたし、死ぬ。死ぬね? もう、だめ。だめ、だから。死ぬ。死ぬしかないよね? こんなの、耐えられないもん。知ってた? 気づいてた? あたし、ね? ずっと、もう、このごろずっと、ユラキくんことばっかり考えてるの。ずっとなの。他の人としてるときもね。目をつぶってね。ユラキくんのこと、考えてるの。相手が、ユラキくんだと思って、してるの。だって、そうしないと、気持ちよくないんだもん。ほんとは、本当に、ユラキくんとしたいの。ユラキくんとしか、したくないの。それなのに、ユラキくん、してくれないでしょ? してくれないんだよね? もう、だめだよ。耐えられないよ。それなら、死んだほうが、ましだもん。あたし、死ぬ。死ぬことにしたよ。これから、死ぬ。飛び降りて、死ぬ。マンションの屋上から、飛び降りて、死ぬね? 嘘だと思ってるでしょ? 悪いけど、嘘じゃないから。どうせ、死んだりしないって、思ってるでしょ? あたし、死ぬよ。ほんとに、死ぬから。せいぜい後悔すればいい。遺書、書くから。あんたのせいだって。あんたのせいで、あたしは死ぬんだって。じゃあね? さよなら。好き。大好き。好きすぎて、大っ嫌い……!』
電話が切れる。
ぼくは胸を押さえる。
冷静になれ。
冷静に。
落ちつけ。
あの桃川が、死ぬ?
自殺する?
しない。
嘘だ。
きっとしない。
脅しているだけだ。
そうやって、ぼくを支配しようとしている。
それが桃川の手だ。
標的を自分に従わせるためなら、何でもする。
それが桃川だ。
何でも。
そう。
何でもしかねない。
何をするかわからない。
いや、でも、それは。
あくまでも、自分のためで。
自分のためということは、そこには生存本能が関係しているはずで。
だから、死ぬとか、自殺とか、そんなことはさすがに。
たぶん、しない。
しない、と思う。
冷静になれ。
落ちつけ。
ぼくはスマホを握りしめている。
知らぬ間に、うずみにラインを送っている。
帰ってきてください。
何をやっているんだろう、ぼくは。
こんなときに、いったい何を。
願っている。
そうこうしているうちに、桃川からまた電話がかかってくる。
この策はうまくいかなかったと判断して、何かまた別の要求を突きつけてくる。
そうなるといい。
どうかそうなってほしい。
だめだ。
心臓が。
苦しい。
そして、ぼくは敗北する。
桃川に電話をかけてしまう。
すぐには出ない。
五コール。
六コール。
七コール。
八コール。
九コール。
桃川はようやく電話に出てくれる。
『……もしもし』
「もしもし」
『なあに? 今、遺書、書いて、屋上にいるんだけど?』
「……嘘だ」
『嘘じゃないよ? ほんとだよ? ほら』
風の音が聞こえる。
おそらくこれは、風の音なのだろう。
『屋上だよ?』
「……どこ?」
『あたしの、うち』
「だから、どこだよ!」
ぼくは住所を聞きだし、電話を切って走る。
地下通路を突っ走って、地下鉄に飛び乗り、教えられた住所の最寄り駅を目指す。
ぼくは苛々している。
早く着け。
早く。
早く。
早く早く早く。
目的の駅で地下鉄を降りて、ぼくは駆ける。
降りたことのない駅だったので、出口とか、方向とか、道順とか、さっぱりわからなくて、駆け回る。
駆けずり回る。
ようやく見つける。
あの背の高いマンションだ。
オートロックだったらどうしよう。
杞憂だった。
遠くから見るよりも雑な造りの建物で、かなり古びている。
セキュリティは甘い。
ぼくはエントランスからマンションの内部に入り、エレベーターで最上階へと向かう。
遅いエレベーターだ。
遅い。
遅すぎる。
やっと到着する。
最上階。
ぼくは廊下に出る。
屋上。
どうやって行けば。
階段。
そうだ。
非常階段。
ぼくはドアが並んでいる廊下を突きあたりまで行く。
そこに金属製のドアがある。
ドアを開けると、案の定、非常階段だ。
ここは最上階なのに、上にも行けるようだ。
ぼくは非常階段を駆け上がる。
すぐに行きづまる。
大きな鉄柵があって、行く手を阻んでいる。
屋上はこの先なのに。
鉄柵。
桃川はこの鉄柵を乗り越えて屋上へ行ったのか。
ずいぶん高いし、柵の隙間がかなり狭いので、指くらいならなんとかなるが、足は引っかけられそうにない。
この鉄柵を?
無理だ。
普通は、無理だ。
普通の状態じゃなかったら?
どうやってもよじ登れないか?
そんなことはないんじゃないか?
足音がする。
後ろだ。
ぼくは振り返ろうとする。
衝撃を感じる。
「あ」
という自分の声を聞く。
そこで意識が途切れる。




