21。あお
「それをぼくの口から話せというのか」
ため息が出る。
ぼくは上半身を前に倒す。
膝に肘をつき、両手を組み合わせる。
指と指とを絡めて、きつく組み合わせる。
声が震えてしまわぬように。
「きみに、話せというのか」
可賀池が低い声を出す。
「……何だよ、その言い方」
隣の部屋で誰かが流行歌を歌っている。
ひどい歌声だ。
ぼくらはそのろくでもない歌を終わりまで聞く。
「なあ」
可賀池は掌で自分の太腿を叩く。
「話せって。何かあったんだろ。言ってみろって」
「聞いてどうするんだ」
「いや、どうするって、べつにどうもしねーけど。なんつーか、ためこむのってよくねーだろ。吐きだしたほうがさ。たまったら、出しとかねーと」
可賀池はちょっとだけ笑う。
下品な冗談の一つでも言って、雰囲気をやわらげようとしたのかもしれないが、この場合は逆効果だ。
ひとの気も知らないで。
「ぼくの話を聞いて、それをネタにして、また笑うのか」
「は? 何言って――」
「ぼくの話を聞いて、それをネタにして、放課後の教室で、談笑するのか」
「……何言ってんの? おまえ」
可賀池の声は弱々しい。
ぼくは可賀池を見る。
可賀池は、しまった、という顔をしている。
まずい、失敗した、そんな顔をしている。
「ぼくは調子に乗ってなんかいない。きみにはそう見えるのかもしれないけど、本当に調子に乗ってなんかいない。ぼくの父は腕のいい医者で、テレビに出たりもしたから、ちょっとした有名人だったりもするのかもしれない。ぼくは父の仕事を尊敬している。実際、たいした技術だと思う。父に命を救われた人たちが、父のことを神さまのように崇める気持ちもわかる。父をとりあげるテレビ局の人たちの意図もわかる。父は偉い。医者としてはね。でも、父親としてはどうかな。もうずいぶん会っていない。連絡もしてこない。用があったらいつでも電話していいと言われている。だけど、電話して、どうなる? 父がどこにいるのかもわからない。あの人は世界中を飛びまわっているんだ。アメリカとか、ヨーロッパとか。電話して、どうする? 何になる? どうなるんだ? どうにもならない。ぼくらはそのことをよく知っている。父にとって、仕事が一番大事だということも理解している。仕方ないよ。父がいなかったら困る人たちが大勢いるんだ。ぼくらは父がいなくたってどうにかやってこられた。母もそうだ。母も人助けを仕事にしている。立派だと思うよ。二人はとてもよく似ている。何を優先すべきか、感情に左右されることなく判断できる人たちなんだ。そういう意味の感情なんて、そもそも持ちあわせていないのかもしれない。重要じゃないからだ。重要じゃないことは排除できる。ぼくの姉は中学校三年生のときに、わたし、明日から、わたしをやめます、と家族の前で宣言した。それまでは非の打ち所がない人だったんだ。美人で、頭がよくて、品行方正で。姉は賢い人だったから、そうするのが家族にとって、とりわけ父と母にとって一番いいことだとわかっていた。だから、そうしていた。それを、やめたんだ。なんでだろうとぼくは不思議だった。でも、今、ちょっとわかったような気がした。姉はめちゃくちゃにしたかったんだ。父や母にかまってほしかったんだ。姉みたいな人でも、両親のサポートは必要なんだと訴えていたんだ。父と母は、できる限りにおいて、必要最小限のことだけはした。学校から連絡があれば、可能なら対応したし、何度か姉と話し合いもした。でも、それだけだった。姉はあきらめたんだ。本当に、好きなように生きることにした。ぼくらはそういう家庭で育ったんだ。たしかに経済的には裕福だよ。父はそうとう稼いでいるし、母もそれなりみたいだ。ぼくらはお金に不自由したことなんて一度もない。でも、それだけなんだ。ぼくは痛い目に遭ったほうがいいときみは言っていた。たまにはそういうことも必要だろうと。それがぼくのためだろうと。一般論としては、ぼくも同意する。でも、ぼくだって、ぼくなりに、いろいろなことがあったんだ。きみにだっていろいろあるだろうけど、ぼくはぼくで大変なんだ。今だって大変なんだ。うずみが、妹が、出ていってしまったんだ。うずみはまだ中三なんだ。受験生なんだ。帰ってこないんだ。どこにいるのかもわからないんだ。彼氏ができたらしいんだ。彼氏のところにいるのかもしれないんだ。うずみはまだ中三なのに。ぼくのせいなんだ。ぼくが悪いんだ。ああ、そうだ。さすがにこれは父と母に報告しないといけないだろうね。なんといっても、うずみはまだ中三なんだし。それから、他にも言っていないことがあるような気がするな。そうだ。忘れていた。ぼくは父と母の子供じゃない。姉とも、妹とも、血が繋がっていない。最近、知ったんだ。そのことをぼくが知ったということは、やっぱり話しておいたほうがいいだろうね。あと、何だっけ。桃川? そう。桃川。ぼくは桃川とは付き合っていないよ。そういう関係じゃない。どう説明すればいいのかな。桃川がどういう女の子か、それは知っているんだろうね。きっと、ぼくよりも知っているんだろう。きみも桃川とやったの? そうだとしても、ぼくは驚かない。ぼくは桃川がそういう女の子だなんて知らなかったけどね。思い知らされたよ。でも、いいんだ。そんなことはどうでもいい。正直、桃川にはまいっているけど、桃川だってきっとまいっていると思うんだ。桃川は何かの依存症なんじゃないかとぼくは睨んでいる。たぶん自分では止められないんだ。制御できないんだ。どうしようもないんだよ。だからぼくは、桃川のことをおもしろ半分でネタにするのは賛成できない。ぼくのことはかまわないよ。好きに話せばいい。ぼくの話をネタにして、放課後の教室で、談笑すればいい。いくらでも笑えばいい」
ぼくが口を閉ざすと、また隣の部屋の歌声が聞こえてくる。
またさっきと同じ声が、同じ流行歌を歌っている。
なぜ同じ歌を。
ぼくらはその下手くそな歌を終わりまで聞く。
その次は女性の声だったが、これもまたとんでもなく調子外れだ。
女性は聞き覚えのあるラブソングの、あなた、の部分を、ノボル、に替えて歌う。
むろん、女性が可賀池ノボルのために愛をこめて歌っているとは思えないので、たまたま彼女の恋人の名が可賀池ノボルと同じくノボルなのだろう。
奇妙な偶然もあるものだ。
女性があまりに音痴なものだから、笑うに笑えない。
そうとう気まずい。
たぶん、隣もこの部屋と同じ小さな部屋だろうから、客は恋人同士の男女なのだろう。
二度目の流行歌は、ひょっとしたら、女性がリクエストしたのかもしれない。
ノボル、さっきの、もう一回歌って、といった具合に。
名字不詳のノボルはそれに応え、女性はそのお礼として、名字不詳のノボルのためのラブソングを歌っている。
そんなところだろうか。
ぼくが薄ら寒い想像を巡らせているうちに、女性の歌は終わる。
「俺はべつに、聖人君子じゃねーし」
可賀池はふてくされているらしい。
「自慢じゃねーけど、性格とか、とくにいいわけじゃないしね。悪口言ったりとか、けっこう好きだったりするし。噂話とか大好物だしね。なんつーか、女と付き合うとするじゃん。たとえば。そしたら、こいつ、この角度で笑ってるときはかわいいけど、こっちの角度で見たら、なんか、あんまかわいくねーとか、ふつーに思ったりするし。顔はいーんだけど、ニオイがきちーんだよなーとかね。ツラに似合わず剛毛だなーとか。乳首黒すぎとか。面と向かっては言わねーよ? けど、思うことはあるよ。かなり思うよ。そういうの、ネタにすることもあるよ。正直。最低、とか言われるけどね。たまに。あーはいはい。そのとおりです。俺はおまえのことネタにしてました。おまえがいねーとき、他のやつらとおまえのこと話して笑ったりもしました。嫌いなとこもあります。けっこうあるよ。なんつーの。気どってるっていうかね。すかしてるっていうか。みんなで遊んでてもさ。一歩引いてるみたいなとこ、あるじゃん。さめるんだよね。そういうのって。おまえはうまーく合わしてるつもりかもしんねーけど。わかるから。さすがに。それくらい。俺より背ー高いのとかもむかつくしね。結局、俺より女にもてるっぽい感じもするしね。成績もいいしね。あー。なんかこうやって並べてると、腹立つわー。つーわけで、あるよ。いっぱいあるよ。むかつくとこなんて、いくらでもあるよ。悪い? 悪いですかね? 悪くてもいいけどね」
女性がまた名字不詳のノボルのためのラブソングを歌いだす。
可賀池が壁をぶん殴って、うっせえ、やめろ、と叫ぶ。
ラブソングは止まらない。
「何なんだよ。隣。なんで俺と同じ名前なわけ? よりにもよって。いーけどさ。いや、あんまりよくもねーけど。とにかくさ。ユラキ。おまえがさ。そういう、何? 聖人君子みたいなさ。そういうやつじゃねーと、友だちになんてなれませんって、そういうならさ。それはそれで仕方ないよね。しゃーねーと思うよ。いいんじゃね? それはそれで。だったら、俺は無理ってだけの話でさ。俺は違うからさ。裏表とかふつーにあるしさ。なんか、よくあるじゃん。あの、超能力とかでさ。テレパシーとかで、心とか読めるの。そんで、人の本心がぜんぶわかってさ。すっげー傷ついて、とかね。そういう話、あるじゃん。ああいうのだったらね。俺はさ。まず間違いなく、傷つけるタイプだよな。すげーこと考えてるしね。女とか見ると、もう、すごいしね。脳内でいろんなことしまくってるしね。おっぱいでけー女なら、もう、俺、一回は脳内でパ●ズリしてもらってるしね。なんかこう、真面目っぽい女とか、脳内で犯しまくって、最初はいやがってた女が徐々に、みたいな、そういうことも考えたりするしね。むかついたら、事故って死ね、とか、罪にならねーなら殺す、とか、思ったりするしね。はいはい。実際、俺はそういうやつです。超能力話の悪役です。そういうやつとは友だちになれないっていうなら、しょうがねーよ。それはもう、しょうがねーだろ」
隣の部屋のドアが開く。
おそらく、隣の部屋から出てきたのだろう男女が、ぼくらの部屋の前を通りすぎかけて、足を止める。
べつにとりたてて不細工じゃないが、端整というわけでもない、それでいて、なんとなく癇に障る二人だ。
顔立ちは地味なのに、服装がずいぶん派手で、アクセサリーが過剰であり、不調和な印象を受けることも、その一因かもしれない。
男のほうが、ぼくらを見てニヤッと笑い、女を抱きすくめて接吻をする。
二人はこれ見よがしに舌を絡めはじめる。
十五秒ばかりもそんなことをしてから、二人は立ち去る。
可賀池が呟く。
「事故って死ね」
ぼくは胸のうちで控えめに同意する。
死んだり怪我をしたりして欲しくはないが、あの二人が何か痛い目に遭ったら胸がすっとするだろう。
「……でもさ」
可賀池は鼻をすすり、ズボンのポケットに手を突っこんで、ソファーに腰かけたまま身体をのばす。
「でも、俺はね。友だちだと思ってたんだけどなっ。それも、けっこうね。仲いいほうだと思ってたんだけどなっ。勝手に、だけど。一方的だったかもしんねーけど。おまえはさ。なんつーか、ほら、そんなね。べたべたするのとか、好きじゃないっぽいしね。毎日遊んだりとかさ。ラインしたりとかさ。長話したりとかさ。そういうのはね。あんまり必要としてなさそうっていうかね。いや、俺もね。わりとそうっていうか。暇潰しでいろんなやつと遊んだりっていうのは、俺にとって必要なんだけどね。けど、仲いいやつは、逆にそんなめちゃくちゃ遊んだりはしなくてもいいっていうかね。そういうタイプっぽいんでね。俺はね。モモの、桃川のことはね。何があったのか、よくわかんねーけど、あいつはさ。ようするに、ヤリマンだからさ。おまえは童貞だしさ。今は違うのかな。童貞だったしさ。こういう言い方は悪いかもしんねーけど、悪くてけっこうだけど、やるだけやって、バイバーイみたいなね。そういう女の子って、実際、いるしね。お互い様なわけだし、べつにいいじゃん? おまえが桃川のこと好きみたいなふうに言ってたわけだから。いや、俺は桃川とはマジでやったことないから、正直、そこまで深く知ってるわけじゃないんだけどね。好みじゃねーし。ギャル系みたいな、そっち系だし。俺の好み。桃川は、姫系みたいな、そっち系だし。ぜんぜん興味ねーっつーか。まあ、どんな感じだったのかとか、あとで訊きたいなーみたいな。そういうのはあったけどね。そりゃあ。つーか、おまえ、そっち系の話題ダメだしさ。そしたら、できねー話とかもあるじゃん。俺がしたくてもできねー話とかさ。だから、こっち側に早くきて欲しい的な? そういうのもね。まあ、あったっていやあ、あったよね。友だちだと思ってたんでねっ。そっちはどうか知らないけどねっ。クラスでは一番仲いいかな、くらいには思ってたんでねっ」
隣の部屋は空き部屋だ。
もっと離れた部屋で誰かが何か歌っているが、よく聞こえない。
ぼくはタブレット端末を手にとって、ある曲を探す。
それは八十年代の後半から活躍して、九十年代の半ばに解散したロックバンドの曲だ。
ぼくはとりたてて音楽にくわしいわけじゃないので、そのバンドのこともよく知らなかった。
とても有名な、誰でも知っているような曲が、そのバンドのものだと聞かされて、ああ、そうなの、と感心するような有様だった。
教えてもらったのだ。
ぼくにそのロックバンドのアルバムを貸してくれたのは可賀池だ。
可賀池はそのロックバンドをたいそう愛していて、どの曲はどんなところがどういうふうにいいのか、すぐれているのか、すばらしいのか、かっこいいのか、ということを、熱っぽく語った。
ぼくは貸してもらったアルバムを聞きこんだ。
なるほど、可賀池が愛しているだけあって、すさまじい力感と悲哀と文学性が渾然一体となって、とぐろを巻いたり、爆発したり、飛び散ってどこかに消えていったり、また戻ってきたり、とにかく稀有なロックバンドだとぼくは思った。
音楽にくわしくないぼくでもそんなふうに思うくらい、ストレートで、それでいて奥行きがある、インパクトが強烈なのに味わい深い、そんな曲が、可賀池が貸してくれたアルバムには何曲も収録されていた。
ぼくはその中の一曲を探しあてて選択する。
マイクを手にとって、曲が始まるのを待つ。
ぼくは立ち上がって歌う。
熱唱する。
可賀池は最初、手と足でリズムをとっている。
一度目のサビは小声で歌う。
二度目のサビは大声で歌う。
ぼくらは合唱する。
曲が終わっても、ぼくはマイクを置かない。
可賀池の目をまっすぐ見つめる。
「ぼくもきみのことを友だちだと思っていた。今後も、できうることなら、友だちでいて欲しいと思っている」




