20。ふたたび
ぼくと可賀池ノボルは、以前、ぼくが桃川と二人で通ったカラオケボックスへ行き、小さな部屋のこぢんまりとしたソファーに隣りあって座る。
「さあて、歌うかあっ」
可賀池ノボルがタブレット端末を操作しだしたので、ぼくも歌本を手に取る。
そのまま五分くらい経過する。
「……歌おうぜ、ユラキくんよ」
「そちらからどうぞ」
「いやいや、そちらからどうぞ」
「是非そちらから」
「むしろ、そちらから」
「何はともあれ、そちらから」
「わかったよ」
可賀池ノボルは今はもう存在しないロックバンドの歌を一曲歌うと、力つきたようにソファーに倒れこむ。
「……もうだめかも。カラオケ歌ってこんなに疲れたことねーよ。一曲しか歌ってねーのに。なんでこんな……」
じっとしているのも何なので、ぼくはタブレット端末をいじる。
適当に何か入力する。
曲名やアーティスト名などを、ただひたすら目で追う。
「ユラキ」
「何?」
「歌えって。俺は歌ったんだから」
「選んでいる」
「嘘つけ」
可賀池ノボルは身体を起こしてため息をつく。
「なあ。どうしたの?」
「何が?」
「何がっていうか、おまえ、めちゃくちゃ変でしょ」
「そうかな」
「そうだよ。変わったよ、おまえ。そんなやつじゃなかったでしょ。おかしいって」
「そうかな」
「何かあったんだろ?」
「あったと言えばあったのかもしれない」
「話せよ」
「話すほどのことはないんだ」
「何だよ。秘密主義? プライベート万歳? セキュリティー高め一杯? ちょっとくらいさ。話してくれたっていいじゃん」
「話すほどのことはない」
「モモとどうなったの?」
「どうにもなっていないよ」
「別れたの?」
「だから、どうにもなっていない」
「答えになってねーよ」
「ぼくは答えている」
「ちゃんと答えてねーじゃん。話せよ。訊いてんだからさ」
「話せない」
ぼくはタブレット端末をテーブルに置く。
天井を見上げる。
「話せないよ、可賀池」
「なんでだよ」
「とにかく、話せないんだ」
「ああ、そーかよ」
それ以降、規定の一時間が経過するまで、ぼくと可賀池ノボルは歌わない。
カラオケから出てすぐ、ぼくらは何も言わずに別れる。
帰りの地下鉄で吊革につかまっていると、いつの間にかぷりるんが隣にいる。
ぷりるんは無言でうつむいている。
ぼくも黙りこくっている。
地下鉄を降りて、地下通路を歩く。
ぷりるんはついてくる。
第二エントランスの前で、後ろから袖を引っぱられる。
足を止めると、ぷりるんはぼくの手に何かを握らせる。
ぷりるんが走り去る。
ぼくは手の中にあるものを見る。
近くにある神社のお守りだ。
一つじゃない。
三つもある。
一つは、表に、家内安全御守、と書かれている。
もう一つは、開運招福御守。
さらにもう一つは、合格成就御守。
何だ、これ。
たまらなく不可思議だが、そうはいってもお守りだ。
粗末に扱えば、なんとなく悪いことが起こりそうな気がする。
今さら、という思いもなきにしもあらずだが、これ以上はちょっと、という思いのほうが若干強い。
ぼくは三つのお守りを鞄にしまい、家に帰る。
リビングに姉の書き置きがあり、夕食について書いてある。
ぼくは姉の言いつけを守って食事をし、うずみにラインを送る。
帰ってきてください。
それからシャワーを浴びて、リビングで音を消したテレビを観ていると、スマホが鳴る。
桃川だ。
ぼくは無視する。
深夜一時過ぎに姉が帰宅し、一日の報告をしてから眠りにつく。
翌朝、ぼくはわりあい体調がいい。
少なくとも、ぼくとしてはそのような感じがしたのだが、下腹部はあくまで静穏だ。
無力感に襲われたものの、姉が作ってくれた朝食はおいしい。
それはいいのだが、毎日深夜に帰宅する姉が、早起きしてぼくのために朝食だの弁当だのをこさえ、さらには夕食まで用意して冷蔵庫に入れておいたり冷凍しておいたりするのは大変な手間なのではないだろうか。
「何も、ここまでしてくれなくても」
そう言ってみたら、姉にデコピンされる。
「生意気なことを言うんじゃない。弟のくせに」
「すみません」
意外なことに、姉はエプロンがとてもよく似合う。
何と言うか、まあ、口に出しては言えないが、愛らしく見える。
唐突に、ぼくの初恋の相手は、もしかすると姉だったんじゃないかと思いたつ。
そんなことはない。
ない、と思う。
ありえない、か?
どうだろうか。
真剣に検討してみると、否定するより肯定するほうが簡単そうだ。
性に目覚めた姉がときおり色情狂のような有様になり、その姿をまざまざと見せつけられたぼくが心に深い傷を負ったのは、ひょっとしたらそのあたりも関係しているのかもしれない。
自慢の姉だった。
ぼくにとっては至高の存在ですらあったのだ。
すべてが崩れ去った。
完全に崩壊してしまった。
そんなふうに思っていたのだが、今のぼくにはわからない。
ぼくは依然として姉が好きだ。
それがどういった種類の好意なのかはわからないが、ぼくはたぶん、いつまでも姉のことが好きだろう。
姉がこの先どうなったとしても、ぼくの心が痛むことはあるかもしれないが、嫌いになんかなれるはずがない。
家を出る前に、うずみにラインをする。
帰ってきてください。
地下通路でぷりるんと会って登校する。
可賀池ノボルが、他人だからあたりまえなのだが他人行儀で、たまに桃川がものすごい形相で睨んでくるものの、それ以外はまずまず平常どおりだ。
こうして日々は過ぎてゆくのだろう。
などといったことを考えながら下校しようとしたら、可賀池ノボルに呼び止められる。
「今日、付き合えよ」
「え」
まったく予期していなかったので、ぼくはかなりびっくりしている。
可賀池ノボルとは、昨日で終わりだと思っていたからだ。
今後も、学校ではそれなりに話をしたりするかもしれないが、あくまで仲よしグループの一員として雰囲気を損ねない程度の必要最小限度の関わり方をするあたりが関の山で、それ以上は決してないだろう。
それがぼくの漠然とした予想だったのだが、これはいったい?
ぼくは黙りこくっている。
何をどう言えばいいのやら。
可賀池ノボルは首を曲げたり頭を掻いたりして、決まりが悪そうにしている。
決まりなら、ぼくも悪い。
なんだか気の毒になってくる。
自分自身も気の毒だし、可賀池ノボルも気の毒だ。
「いいけど」
「それじゃ、行くか」
「でも、どこへ?」
「カラオケに決まってんだろ」
可賀池ノボルはニヒルな悪役のように笑ってみせる。
その笑い方には含意があるのだろう。
可賀池ノボルがこれから登ろうとしている坂道は、あまりに急すぎる。
しかも、ぼくと一緒に登るとなると、余計に大変だろう。
そんな険しい道を進むことはないんじゃないか。
ぼくには理解できない。
しかし、乗りかかった船というよりも、こうなったら毒を食らわば皿までという心境だ。
ぼくらは出来の悪い喜劇でドタバタを演じる直前の二人組の悪役のようにカラオケボックスの一室へと足を踏み入れる。
もっとも、この喜劇は低予算できわめて出来が悪いから、誰一人、笑わない。
それ以前に、観客がいない。
劇場には演技者であるぼくらしかいない。
それがわかっていながら、ぼくらはこれからひどいドタバタを演じなければならない。
ぼくらは隣りあって座る。
「ユラキ、歌えよ」
「正直な気持ちを言ってもいいかな」
「何だよ」
「いやだ」
「なんで?」
「そういう気分じゃないんだ」
「だったらなんでカラオケきたんだよ」
「きみが誘ったからだよ」
「歌う気ねーなら、断りゃいーだろ」
「それもそうだね」
ぼくは後悔している。
今すぐ帰ってもいい。
そうしようという思いは、常にぼくの中にある。
それでいて、ぼくはどうしてもソファーから腰を浮かすことができない。
「なあ」
「何でしょうか」
「あ。やっと出た」
「何が?」
「なんつーの? 丁寧語?」
「でしょうか?」
「おまえ、たまに交ざるでしょ。ていうか、交ざってたでしょ。そういうしゃべり方、してたじゃん。ずっと」
「言われてみれば、そうかもしれない」
「このごろ、なかったんだよ」
「そうだったかな」
「そうだったんだよ。痩せたし。変だろ。あからさまに。なんつーか、そっけないし。冷たいっつーか。話とかも、適当に合わせてるだけっつーか」
「よく見ているね」
「いや、わかるでしょ。それくらい」
「そういうものかな」
「なあ」
「はい」
「モモと……」
可賀池はなぜか言いよどんで、言い直す。
「桃川と、何があったんだよ」




